第161話 頂上の景色
――勇者の刀身、それは九合目の山小屋から一日と少し進んだ位置に存在する、霊峰エルフロスト第三の難所、西ルートにおける最後の試練だ。
頂上が目と鼻の先という、最後の最後に油断した者の命を刈り取る質の悪いその実態はただ鋭く長い尾根が続くだけの場所であり、危険ではあるがここまで登って来た登山者にとっては然程の脅威ではない。
単体の難易度で言えば女神の絶壁に次いでクレバス帯、精神的な疲労で考えてみてもやはり先述の二つが挙がるだろう。
だが勇者の刀身において真に恐れるべきは、霊峰頂上周辺の環境だ。
まずは前者、周辺の環境についてだが、標高8982メートルの頂上付近は数々の魔術具を以てしても耐え難い寒さと、加えて呼吸補助の魔術具を使用して尚濃度の薄い空気の中では、呼吸の仕方を誤れば頂上目前で呼吸困難で脱落してしまいかねない。
更に頂上付近は絶えず登山者を突き落とさんとばかりに強風が吹き続けており、登山者は横から吹き付ける暴風に耐えながら狭い尾根を進む事を余儀なくされるのだ。
その点において、勇者の刀身はこれまでの技術の全てが問われる集大成であると言える。
――そして二十日目、Sクラスの歩みは遂に勇者の刀身目前にまで迫っていた。
「どうやら到着したみたいだね」
「ってことはあれが頂上でその手前のが勇者の刀身?うへぇー、今からこんなの登るの?」
「これが彼の神話の聖地、『銀閃と黒狼』の舞台の頂か……。フッ、何とも感慨深い」
疲労で座り込むリリアが呼吸補助の魔術具を着けたまま先の景色に辟易の声を上げ、それとは反対にクロゥは好きな小説の舞台だけあってか、目の前の困難に対しても不敵な笑みを浮かべている。
二人の視線の先にあるのは正に一振りの剣、鋭く真っ直ぐに伸びる直線がSクラスが休息を取るここと頂上とを繋いでいた。
例えるならばSクラスの側が岩に埋まった柄部分、頂上が剣先といった所か。
従妹で対照的な二人の反応に苦笑しつつ、ヴィルはガイドのアルティス達の会話に耳を傾ける。
かなりの強風と雪だが、どうやら五分という僅かな休憩を挟んですぐに出発するらしい。
事前に頂上付近は絶えず吹雪が吹いていると聞いてはいたが、まさか常時これ程の猛威を振るっているとはヴィルも考えていなかった。
道中であれば進行を次の日に見送っていてもおかしくない悪天候、それでも急くように進もうとしている事を考えれば、これでもまだマシな可能性すらあるのだ。
改めてエルフロストという山の恐ろしさを再認識しつつ、一行は一時の安寧を享受する。
「――絶対に登頂しましょうね。全員で」
「……ああ。僕達ならやれるさ」
覚悟を決めるバレンシアの瞳には複雑な感情が過り、その横顔はマスクを着けていて尚言葉にする事が憚られる程に美しかった。
当初は返答を躊躇ったヴィルだったが何も答えないのも不自然、やや間があって同意を返す。
バレンシアが抱くのは口に出さずとも誰もが持つ感情、だが言葉にする事で改めて全員がその感情を共有する。
その瞬間、全員の心は一つだった。
休憩が終わっても尚吹雪は止まず、その激しさは増すばかりといった状況だ。
だがここまで来て引き返す選択肢は最早存在しない、近くに野宿可能な地形も無い、ここが勝負所だった。
先頭のアルティスが一歩を踏み出し、一行は遂に最後の難所へと足を踏み入れる。
足場が過去最低に不安定な事、ロープで繋がりある程度ゆとりを持たせなければならない事から進行速度は非常に遅々としたものだ。
安全を最重視した万全の構え、時間を代償に一歩一歩を確実に進んでいく。
先頭が動き始めて十分と少し、ようやくヴィルの前のローラが動き始め、更に遅れてヴィルも尾根に足を掛ける。
「これは……中々難しいな」
尾根に足を踏み入れた瞬間ヴィルの呟いた独り言は、激しい吹雪にさらわれ消えた。
足元は細く頼りなく、慎重に力を込めても踏み出した瞬間、ずるりと足を滑らせてしまいそうになる。
更にいつ吹くとも知れない風に備えて身を固くしなければならず、また凄まじく吹き付けてくる度にバランスを取る為、体を傾けその場で堪えなければならなかった。
――歩を進めるごとに、時間の感覚が歪んでいくようだった。
代り映えのしない景色と狂った獣のように吠える風、ほんの数分が何時間にも感じられる。
常に何かに身構えるというのは、存外体力と精神力を消耗する、しかもそれを遅々とした進行速度の中で継続しないといけないというのだから、最後の最後にとんでもない難所を構えてくれたものだとヴィルは恨めしく思う。
前方を歩くローラの姿は、僅か二メートル先にも拘らず雪煙に包まれて殆ど視認が叶わない。
ただ薄ぼんやりと背中に背負った鞄が顔を覗かせるのみだ。
ローラの背中は小さくどこか頼りなく見える、だが風に左右に揺れながらもヴィルと繋がるロープを引き続けるローラには、揺るがぬ確かな芯があった。
その芯の強さを見て、ヴィルは自然と胸に熱が沸き上がるのを感じた。
吹雪の中での進行は正に試練だ。
マスクからは白い霧が漏れ、視界不良の中もう何度も凍り付いた瞼をこじ開けて前だけを見据える。
冷気が防寒着を貫通して骨まで染み込み、だが心だけは絶えず熱を発していた。
――時間の感覚はとうに失われ、ヴィルの頭の中にはただ前に進む事、それのみが延々と形だけの思考として巡り続けている。
そうしている内にどれだけの時間が経過しただろうか。
轟々と鼓膜を叩く風音の奥、歓声のような喝采のような、どこか楽し気な声が聞こえてくる。
それが現実なのかはたまた幻聴なのか、最早今のヴィルにはその判断がつかない。
ただ真相を求め、逸る足を諫めながら着実に堅実に傾斜のきつくなる尾根を登って行く。
そして遂に――
「……ローラ」
「ほら、手。あとちょっとでしょ」
ヴィルの目の前に差し伸べられたのは厚手の手袋に包まれたローラの手だった。
いつも通りの声色からは、いつも通りのむすっとした表情がマスク越しに透けて見えるようだ。
随分と久し振りに人と話した気分だったヴィルは暫くの間呆けてしまい、焦れたローラに再度手を差し伸べられてから、ヴィルはようやくローラの手を取る。
そうして掴んだローラの手は、体温が届かない程分厚い手袋越しでも暖かく感じられた。
ヴィルは引かれる力を借りながら、轟々と激しく鳴る吹雪の中、最後の段差を大股で乗り越える。
長く続いた尾根を進んだ果てには少し広がった土地が存在しており、既にクラスの大部分が辿り着いていた。
皆勇者の刀身での肉体的・精神的疲労からか座り込み、降雪で見づらいがヴィルの方を見て手を振っている。
それに同じく手を振り返して応えつつ、ヴィルは最後に手助けしてくれたローラに礼を述べる。
「手を貸してくれてありがとう、ローラ。助かったよ」
「別に、ガイドにやれって言われたからやっただけだし。早くロープ外して」
相変わらずのすげない態度だが、これでも進歩したと感じるのはヴィルの感覚がおかしくなってしまったからだろうか。
自分のずれた思考に、ヴィルが微笑まし気に口元を笑ませていると、いつまでもロープを解こうとしない事に再び焦れたローラが、ヴィルの腰に手を伸ばしロープを強制的に奪い取る。
そうやって早々にロープを解いて引き取り、ローラはすぐに皆が居る所に戻ろうとしてしまう。
「――ローラ、一足早いけどお疲れ様。こうして皆で無事に登れて良かったよ」
「……まだ全員登り切ってないし、麓に着くまで分かんないでしょ。次、後ろの人来たらあたしと同じようにロープ解いて説明しておいて。それじゃ………………おつかれ」
振り返りもせずそう言い残し吹雪に消えるローラの姿を見て、ヴィルはまた微笑まし気に口元を緩めるのだった。
それから後ろのバレンシアが到着するのを待ってローラと同じように作業を行い、ヴィルはローラの後を追って皆の下へと集まる。
「ようヴィル!生きてたか」
「生きてたかってなんだい?ともあれ君も無事でよかったよ、ザック」
地面に座ったまま拳を突き出すザックに拳を合わせ、ヴィルが隣に腰掛ける。
「よく普通にここまで歩いて来れたよな。アンナとかリリアなんて難所乗り越えてからここまで這いずって来たんだぜ?」
「し、しかたないじゃないですか!足がガクガクでどうしようもなかったんですから!」
「そうそう。いくら忍耐力があったって体力が持たないんだもん。仕方ないよね!」
寒さとは別の理由で顔を赤くするアンナに紛れ、こんな場所でもいつものダジャレを放り込んで来るリリア。
先程までの緊迫した雰囲気が消え去るようなやり取りに、その場にどこか安らぐ空気が流れる。
それはきっと、その場の誰もが求めていた日常の空気だった。
そんなこんなで暫くの間雑談に興じていると、二十分もしない内にバレンシアを含めた後続の生徒達が合流し、最後に最後尾のガイドが合流した。
これで全員が揃った、後は頂上の証に触れるのみだ。
頂上付近の広まった場所、その端の方に目的の石碑はある。
「これが……」
誰が発したか、感嘆の溜息が全員の気持ちを代弁して霊峰の空気に消える。
標高8982メートル地点、正真正銘この世界で人類が立つ事の可能な最高到達点。
Sクラスの目の前に鎮座しているそれこそ霊峰エルフロストの頂上、その場所である事を示す標識だった。
縦長の四角錐の側面には翼の生えた女性と跪いて剣を頂く男性の姿が彫られており、女性の方は女神ゼレス、男性の方は勇者レギン、神話においてレギンが勇者として認められた場面だ。
そして前面には『エルフロスト最高峰 8982』とあり、その文字列を手の平で示しつつアルティスが歓喜の声を上げる。
「――8982メートル、霊峰エルフロスト、登頂です!!」
「「「「――――――――――ッッ!!」」」」
霊峰頂上でSクラスの喜びが大爆発する。
Sクラスの生徒だけではない、教員の中には涙を流す者も居り、もう何度も登頂成功させているであろうガイドも生徒達と肩を抱き合い喜びを露わにしている。
ニアに跳び付かれるヴィルもバレンシアと目を合わせ、笑みを交換し達成感を共有する。
苦節五か月、長きに渡り体力づくりと事前知識の学習に努めてきた成果が遂に実ったのだ、その苦労の分だけ喜びも大きい。
ひとしきり喜びを噛み締めた後、折角の記念なのだからと写真機で記録を残す事になった。
この場で写真機を持っているのはローラのみ、最初は本人が撮りたがっていたが、多くの生徒が反対した事で渋々といった様子ではあったが被写体側に並ぶ。
と、後は写真を撮るだけという所で、ニアが空を見上げぽつりと零す。
「せめて晴れてたら映りもよかったのにね」
「確かに、この雪ではね……」
手で庇を作りながら同じく空を見上げ、バレンシアが残念そうに共感する。
空は上層・中層雲で一面の曇り空、どころか雪と風が絶えず、下層雲がSクラスの霊峰の頂上に蟠っていた。
白と灰色の世界は明ける気配を見せず、可能であれば天候が好転しないか暫く様子を見てみたい所ではあるが、下山の時間も考えるとそう長くは粘れない。
とはいえ天候など時の運、実力で欠員無しの霊峰登頂という偉業を成し遂げたのだから、せめてましな形で記録を残そう。
誰もがそう割り切って、写真機のレンズが雪の隙間を探っていたその時だった。
「あ!上見て上!」
突如リリアが空を指差して飛び跳ね、それにつられた全員が空を見上げ――視界を白く焼かれる。
やがて目が慣れて瞼を開けば、そこには先程までとは打って変わって開けた青空と、眩いばかりに輝く太陽が顔を覗かせているではないか。
何という僥倖、何という奇跡か。
気が付けば下層雲も風で押し流され、絶好のシャッターチャンスが到来している。
突然の奇跡に呆けるガイドに全員が声を掛けて急かし、我に返ったガイドが慌てて写真機を構える。
呼吸補助の魔術具を外し全員で集まって配置を調整、気まぐれな天候が悪化しない内にと準備を行う。
そうして――
「――それじゃあ撮りますよー!3、2、1――」
――撮影された写真は、Sクラスの踏み出した最初の一歩として長く世界に刻まれる事となったのだった。
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