第157話 霊峰攻略 一
四合目到着から三十分、Sクラスは遂に霊峰登山を開始した。
先頭にガイドリーダーのアルティス、その後ろに同じくガイドのダカン、マルテロ、グラシエル、生徒十名、教師が二名。
その後方に医者のスウェナを含めたガイド三名、残りの生徒十名、教師一名、ガイドが二名という一列の隊列だ。
霊峰登山では切り立った断崖のような細く狭い道なき道を歩く事も多く、また標高の高い雪山に稀に見られるクレバスを回避・リスク分散する為にも二列や三列では都合が悪い。
間と間にガイドを挟みつつ有事の際に対応可能な、計算し尽くされた隊列を組んでの挑戦だった。
一歩、また一歩、前の人が押し固めた雪の地面を踏みしめ、ただ反対の足を前に出す、その繰り返し。
四合目―五合目間に主だった難所は無い。
傾斜も低く、雪崩や落石など自然災害の危険性も低い、過去死亡者の出ていない霊峰唯一の安全地帯だ。
強いて言えば登山ルートよっては延々となだらかな斜面を横に移動し続けなければならない点であり、今回一行が選んだルートは正にその延々と移動の続くルートだった。
「西ルート。安全だと頭では分かっていてももどかしいわね。全く進んでいる気がしないわ」
「急がば回れだよ。シアだって他ルートの危険性は聞いただろう?確かに霊峰登山と意気込んでのこれは、少し拍子抜けな印象は拭えないけどね」
「けれど五合目から先はこうはいかない。気楽でいられるのは今の内だけというのは頷けるわね。だって……」
バレンシアの視線の先、左手上方には霊峰の頂き、その少し下辺りが薄っすらとだが視認出来た。
そして確認出来た限りでは、正に断崖絶壁という言葉が似合う険しさの山肌が見え隠れしている。
あれもいずれは通る道、そう思えば今歩いている退屈な道も、後に天国のように思える時が来るのだろうか。
そして雲に遮られ未だ見る事の叶わぬ頂上からは、一体どんな景色を拝む事が出来るのか。
そんな未来に思いを馳せつつヴィル達が歩いているのは南ルートから西ルートへと繋がる道であり、上下移動だけに限って言えば全く上昇していなかった。
というのも、霊峰の登山口は南からの一カ所しかないのだが、登山のルートは主に三種類存在している。
一つは今Sクラスが進んでいる西ルート、二つ目が東ルート、最後が登山口から直進する南ルートだ。
一見迂回を挟まない南ルートの方が短く済むように思える、それは事実だがこのルートは最も危険な道のりでもある。
道中は落石や雪崩の危険性が極めて高く、仮に運良く上まで登り切る事が出来ても最後には傾斜が九十度近い、最早坂というより壁と言った方が正しい難関が構えているのだ。
重装備では危険の回避も壁登りも満足に行えない、選択者の実に九割九分が道を引き返すか消息を絶つ危険極まりないルートそれが南ルートである。
時点で距離が短く危険なのが東ルート、ここは南ルートのような分かりやすい危険は少ないが、とにかく雪が多く積もる場所だ。
絶え間無い積雪は自らの重みで雪を押し固めて氷を作り、滑りやすい。
またクレバスが多いルートでもあり、大小様々なクレバスが雪によって覆い隠される、天然の罠が張り巡らされた危険地帯である。
その二つと比べれば西ルートは大きく迂回する長距離の長丁場、難所こそ複数あるものの比較的安全で、霊峰の登山ルートでは最も登頂が現実的であるとされている。
無論だからといって気が抜ける場所では無いが、少なくとも最低限の安全が保障されているというだけでも、生徒達の心労は幾許か楽になっていた。
「雪山って案外暑いのね。私は道中、てっきり寒さで凍えるものとばかり思っていたのだけれど」
「山は遮る物が何もないから、日光が直で来るんだよ。それに雪に光が反射する照り返しも厳しい。不調を感じたらすぐに言わないと手遅れになるからね」
「分かっているわ。でも不思議よね。雪山でこんなに厚着をして汗をかいているのに、少し脱げば寒さで凍傷になってしまいかねないなんて」
「体温調節が難しい、それが標高の高い山の怖い所だよね。でもそれも上に行けば解決するはずだよ。まあ、暑くなくなる代わりに凍死しそうな寒さになるらしいけど」
「……ニアが聞いたら泣いてしまいそうね」
ニアが暑がりで寒がりというのはクラスメイトの中でよく知られた話であり、この先に待ち受ける地獄にヴィルとバレンシアは揃って苦笑を零す。
霊峰に着いた当初は愚痴を零していたニアだったが、今はどうなのだろうか。
そんな事をヴィルが考えていた頃、少し前方を歩いていたニアがブルブルと身震いをした。
それが噂をされたからなのか、はたまたこの寒さのせいなのか、事の真相は神のみぞ知るといった所か。
こんな具合に軽い会話を続けながらも、一行は着実に歩を進めていく。
隊列は整然としており、当初心配されていた工程の遅れも無く、足取りは一定のリズムを刻んでいた。
ガイド達は常に周囲の状況に目を光らせ、数時間おきに挟まれる休息時には情報交換をしている。
道の険しさはまだ増していないが、それでも気の緩みが大きな事故に繋がる事は歩みを続ける誰もが理解していた。
霊峰登山一日目は、これといった出来事も無く平穏に終わりを迎えた。
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二日目、三日目と日は経ち霊峰登山四日目、一行は変わらず西ルートの迂回路を歩いていた。
一面の雪景色、ただひたすらに登る事も無く、斜面を横に歩を進めるだけの時間が続く。
ただこの日はそれまでとは違い、一行に立ちはだかる難敵が待ち構えていた。
それは――
「はぁ、はぁ……それにしても今日は暑いわね」
「本当に。ずっと汗が止まらないよ」
「あなたが暑そうにしているだなんて珍しいわね。真夏時ですら涼しそうな顔をしていたのに」
「あれは魔術で周囲の気温を弄っていたからだよ。僕だって汗の一つや二つかくさ。でも、この晴天が今だけは恨めしいね」
「魔術具も切って、服も脱いでいるのにこれだなんて、まるで真夏ね。ここに来る前は想像もしてなかったわ」
「でも良い土産話が出来たんじゃないかな?暑くて干からびなければ孤児院の皆に冒険譚を聞かせられるよ」
「それ、今の気温じゃ冗談にしても笑えないわよ」
しらっとした視線を送るバレンシアだが、前を歩くヴィルは振り返る事が無く通じない。
もっともヴィルには自身に向けられる視線の質を測る特技がある為、伝わっている可能性も無くは無いが。
――天高く昇った太陽は何物にも遮られず燦々と光を発し、地道に登山を続けるヴィル達をじりじりと焼く。
これまでは殆どが曇りか雪で、晴れても気温が然程高くなかったのだが、今日は雲一つ無い快晴に加え、昨日の晴れを引き摺ってか気温自体も高い。
ガイドを含めた教員と生徒はとうに防寒対策の魔術具を切り、上着も一枚、多い者で二枚を脱いで歩いているのだが、それでも尚暑いという有様だ。
もう少し標高の高い位置であれば矛盾脱衣かと身構えてしまう所だが、これは純粋な暑さによる脱衣だった。
これがただ晴れた暑い日というだけならば文句も無いのだが、質の悪い事に霊峰は一面を雪で覆われた雪山である。
上からの太陽光と雪による照り返しが合わさって、料理で言う所の蒸し焼きのような状態になってしまっていた。
雪山で意外と危惧される危険なのが寒さで感覚が麻痺し、水分補給を怠った結果脱水症状に陥るという失敗だが、今日だけはその心配が純粋な暑さによる脱水症状への危惧へと変わっていた。
鞄と紐で繋がった水筒を手に取り、ヴィルは水分補給を行う。
最後の補給から二時間と少し、今の水分補給で水筒の中身は完全に空になってしまった。
これは決してヴィルが無計画に飲んでいたという訳では無く、汗の量から予測して水分を摂った結果だ。
ヴィルでこれなのだから、一部生徒はとうに空の水筒を持ち歩いているのではないだろうか。
水筒の口を閉めたヴィルの前方には、一歩一歩重そうな足運びのローラの姿があった。
ローラも体力のある方では無いが、恐らく少なくない生徒が暑さによって予想以上に体力を奪われてしまっているだろうとヴィルは見積もる。
予定より少し早いが一旦休憩に入るだろう、そうヴィルが考えたのと同時、先頭を歩くガイドリーダーのアルティスが休息の号令を出す。
待ちに待った休憩に、生徒達は疲労を乗せた溜息を吐いてその場に座り込む。
ヴィルもバレンシアも足を休める為に腰を下ろしたが、ヴィルはローラの様子が気になり、立ち上がって彼女の隣へと座り直した。
「お疲れ、ローラ。気分はどうだい?」
「別に、普通」
「そっか。大丈夫そうなら良かったよ。今はガイドの人達と先生方が飲用水を作ってくれてる筈だから、もう少し休憩出来そうだね。時間的にはちょっと早いけど、昼食も兼ねてるのかな?」
「……あんたも懲りないね、あんなに言われたのにあたしみたいなのに話し掛けて。……本当物好き」
顔を背けるようにしてローラは鼻で溜息を吐く。
以前ヴィルがローラと距離を縮めようと試みた際、彼女はヴィルをすげなくあしらった。
普通ならば二度と話し掛けなくなってもおかしくない態度だったが、ヴィルはまるで意に介さず接触を継続している。
ローラはその心情が理解出来ないのだ。
「物好きでも何でも良いさ。ローラと仲良くなれるならね。お、やっぱり昼食になるみたいだよ。それじゃあ食べようか」
「一緒になんて食べないし、仲良くなんてならないから」
相席を拒否されたヴィルだったが当然引くつもりなど毛頭無く、ローラが反対側に逃れようかと視線を向ければそこにはアンナと話すニアの姿。
ニアとヴィルを見比べる事しばらく、ローラは溜息を吐きつつも立ち上がる事は無かった。
「…………」
「…………」
二人、無言で携帯食料を口にする。
基本的に移動が優先される昼にスープ類が出る事は無い。
育ち盛りの年齢としては少々物足りないが、元より限られた食料だ、規定より多く口にする訳にもいかない。
五分と掛からず携帯食料を平らげ手持無沙汰になったヴィルが景色を見つつ、何を話そうか思案していると、やや遅れて完食したローラもやる事が無いのか、鞄の中をごそごそと探っている。
そうして取り出したのは、ヴィルにも少し前に見覚えのある魔術具だった。
「写真機。確か魔術具は指定された物以外持ち込み禁止だった筈だけど、許可が下りたんだね」
「……持ち込みたいって登山客が多いらしくて、それで許可された。ガイドの人が後で写真欲しいって」
「それは良いね。その写真、学園も欲しがるんじゃないかな?後で先生に提案してみなよ。僕から言ってもいいし」
「……好きにすれば」
そっけない返事を返し、ローラは写真機を麓の方へと向ける。
幸いにも今日は快晴、群青の空と純白の雪が生え、さぞ美しい風景を撮影する事が出来るだろう。
無言の静寂に、写真機の音だけが鳴る奇妙な時間が流れる。
一方通行の思いが成立させる二人の時間は、休憩が終わるまで続いたのだった。
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