7 理由が欲しかった
「どうぞ、お座りください」
部室に入り、言われたように着席する。ちょうど先週に座った席と、同じ席であった。
「少し、お待ちくださいね。参考書が開いたままでしたので……」
「あ、はい。こちらこそ、突然来てしまって…」
「いえいえ。お気になさらず」
先輩は片付けを終えると、僕の対面に腰を下ろした。その表情は柔らかな笑顔のままで、その一連の所作はとても美しく、洗練されている。
「それで?」
「は、はい」
侑都は惚けた様にその様子を見ていたが、促されハッと我に返る。
先輩はさっき、自分も高林だと言っていた。と言うことは、おそらく高林さんのお姉さんなのだろう。
それならば、高林さんの居場所に心当たりがあるかもしれない。よし。
もう一度気を取り直し、ここに来た目的だけでも話そうとしたのだが……
先輩の穏やかだった笑みが、突然『ニヤリ』とした笑みに変わった。
それは先程までのイメージとはかけ離れた、悪戯が成功した子供のような笑みであった。
「麻実に、何の用かな?…侑都くん」
「…………………」
嫌な汗が噴き出す。
声を出そうとした口が塞がらない。
降参である。いや、別に戦っているわけではないのだが。
もし何かしらの戦であったら、戦場に出る前で決着をつけられるような完敗であった。
もう断言してしまってもいいだろう――高林小町さん。
高林さんの、お姉さん。
恐らく、扉で話している時から、自分は何者か気付いていたのだろう。
今は無邪気な笑みを浮かべながら、全ての主導権を握って、完全にこちらを弄んでいる。
何だ、この人……。
「あの、何故僕のことを……」
「あはは、ごめんごめん。そんな顔で見ないでよ。君のことは、麻実から少しだけ聞いててね」
「はぁ」
「先週、帰ってきた麻実が珍しく知らない子の名前を話してたからね。ちょっと気になっちゃって」
小町さんは、口に手を当てくすくすと笑う。
先程までより纏う雰囲気は柔らかくなったが、それでも所作は崩れない。
しかし侑都は、それよりも高林さんが家で自分のことを話題に挙げてくれていたという事実にドキリとしていた。
気恥ずかしいような、嬉しいような、なんかこそばゆい感じ。ムズムズする。
「じゃあ、改めて自己紹介するね。高林小町です。麻実の姉で、今年から三年生。去年まで、ここ園芸部に所属していて……まぁ、詳しいことは麻実から聞いてるかな?」
こくり、と頷いた。
あと、先にこちらから自己紹介すべきだったかも。失敗したなあ。
「奥野侑都です。新一年生で、高林さんと同じクラスになりました。はじめまして、高林さんのお姉さん」
「小町でいいよ。呼びにくいでしょ、それ」
いきなりハードルが高い。
だが、『他の後輩も小町先輩って呼んでるし大丈夫だよ』とまで言われてしまった以上、もうそう呼ぶことにする。
抵抗する気などとうに無くなってしまった。
「あの……ええと、小町先輩はまだ園芸部に所属しているんですか?」
「ううん。引退したよ。ただ、昨年度から育ててる野菜なんかもあるし、たまに畑とか見に来るつもりでいるの。……まぁ、イベントとかには関わるつもりはないけどね」
「ああ、なるほど……」
「今日は麻実と下校時間も同じだし、予定もないから一緒に帰ろうと思って。待ってるだけで暇だったから、参考書でも読もうかな……と開いたところで、君が来たの」
「他の皆さんはどこへ?」
「麻実の入部届出しに行くって。また鍵の開け閉めするのも大変だろうから、私が残ってようかなって」
ちょうど、小町さんしかいないタイミングで来てしまったらしい。なんてこった。
「で、さ。まだここに来た理由、聞いてないよ?」
「そうでしたね……すみません、質問ばかり」
そうだった。
誤魔化そうか?……いや、やめとこう。
この人には見破られる、そんな気がする。
「あの、実は先週、園芸部のお手伝いをしまして」
「うん」
「その後、一緒に帰りまして」
「うんうん」
顔がにまにましてる。無視だ無視。
「その時、園芸部について色々話をしまして」
「うんうんうん」
「…………園芸部に誘われまして」
「……まぁ!」
小町さんは口に手を当て、やたらオーバーリアクションで驚いている。夕方にやっている国民的アニメのお姉さんみたいだ。
「……その返答をしようかなと思って、探していたんです」
「あらあらうふふ。麻実ったらまぁ、隅に置けないわねえ」
…………。
よくそのキャラのままで話せますね……。
「で。どうするの?」
「それは……」
するとまた、小町さんの表情がすっと変化した。
目を瞑り、真剣なものだ。
「……ね、侑都くん。もし他に何もしたいことがないのなら、誘いを受けてあげて欲しいな」
「え……」
小町さんの表情は、変わっていない。
しかし、何故だろうか……侑都には、なんとなく寂しそうに見えたのだった。
「麻実はね。園芸部では活発そうに見えるけれど、結構慎重な子なの。……そんなあの子が、人を自分の領域に誘うなんて………とても珍しいことなのよ」
「そうなん、ですか」
「ええ」
朝の時点では、まだ悩んでいた。
今思うとそれは、入部するかどうかという事ではなかったのだろう。
自分の中で、理由が欲しかったのだ。
僕は、自分で思うより、臆病で面倒らしい。
だが、小町さんの、妹への想いを聞いて。
そして……意を決して、誘ってくれた高林さんのことを、鮮明に思い出して。
心が、決まった。
「……入部したいと思います。あの、僕を誘ってくれたのも嬉しかったですし、何より……何よりも、先週、楽しかったんで」
口に出すと、意外にもストンと心に落ちた。
悩んでいたのが嘘みたいだ。
「うん。そうしてあげて」
小町さんは、微笑んでくれた。
それは今日見た笑顔の中で、一番美しく、そして儚いものであった。
数分後。
皆が、戻ってきた。
部室に入り、自分がいることに驚いているようだったが―――用があって来たことを伝えると、同じように着席してくれた。
早速、伝える。
「あの、高林さん……」
「はい、なんでしょう?」
小町さんが、ずいっと身を乗り出して答えた。
……いや、そっち見てなかったですよね。あなたじゃないです、何ニヤニヤしてるんですか。
さっきのあのムードはどこへ……。
気を取り直して。
「……高林さん、先週はありがとう」
「あ、ううん。というかお礼なら、手伝ってもらったこっちがすべきだしね」
「いや……僕も、楽しかった。すごく楽しかったんだ。だから、さ」
高林さんを、そして部室にいる皆さんを見回して、頭を下げながらはっきりと言う。
「園芸部に、入部したいです」
っ、と。
高林さんが息を呑むのがわかった。
「ようこそ、園芸部へ!」
顔を上げると、皆、笑顔だった。
心が温かくなる。
それは、侑都が先週、手放したくないと思ったものであり……
「……よろしくね、奥野くん」
侑都が、もう一度見たかったものかもしれなかった。