初めてのキス
カイネが話を続けようとしたその時。
カイネが集落があるであろう方向をバッと振り返ると、ヒースに静かにするよう手で制した。先程までヒイヒイ言いながら笑っていたシーゼルも、一瞬で真顔に戻っている。さすがの切り替えの早さだ。
三人は無言でただカイネの次の合図を待つ。すると、森の奥の方から、何やら怒鳴り声の様な音が微かに聞こえた。
「見回りだな。お前達が来てから、相当苛ついているんだ」
やはりいるのはとっくにばれてしまっていたらしい。
「お前達の目的が分からなかったので手出しを控えさせていたが、血の気の多い奴らだ。そろそろ限界なのかもしれない」
「どこにでも血の気の多い奴らってのはいるもんだねえ」
血の気が一番多そうな人が、そう意見を述べた。
「蒼鉱石の剣がなかなか出来上がらず、あいつもそろそろ痺れを切らしてそうだからな……」
カイネが返答した。拐ってからそれなりに時間が経っていることを考えると、やはり蒼鉱石は鍛えるのが難しいのだろう。
「……今日はここまでだ。明日、続きを話そう」
「またここまで来ればいい?」
「いや……迎えに行く」
「え?」
カイネはシーゼルからは相変わらず距離を保ちながら続けた。
「その男がいない所で話をしたい」
「あれ? 僕嫌われちゃった?」
シーゼルがおちゃらけた様に笑う。
「でも迎えに行くって、他の人いるよ。大丈夫?」
「明日の夕刻に行く。お前はなるべく見えやすい所に一人でいろ」
「……うん、分かった」
迎えに来るという目的がよく分からなかったが、もしかしたら他の獣人にヒースと会っているところを見られたくないのかもしれない。
「今日はもう戻れ。奴らが来ると厄介だ」
「分かった、ありがとう」
すると、カイネが驚いた様な顔をした。
「なに? どうしたの?」
「……いや。馬鹿もここまでくると立派だなと思ってな」
「馬鹿……」
また言われた。ヒースが思わずムッとした顔をすると、カイネがそれを見て薄く笑った。
初めて見たカイネの笑顔は、思ったよりも幼く見えた。
シーゼルが痺れを切らした様に声を掛ける。
「ヒース、戻るよ」
「あ、うん。カイネ、また明日」
ヒースが手を上げ挨拶をすると、カイネは苦笑しつつ頷いていた。
シーゼルが森の中を先行する。早い。行きより全然早くてついていけなさそうだ。時折木にぶつかりそうになるヒースを見て、シーゼルが苦笑いした。
「お手を、お嬢様」
「なにそれ」
「いいから手を貸して。連れて行くから」
何だかこっちの態度も腹立たしいが、でも確かにシーゼルに先導される方が早いのは分かる。ヒースは大人しく手を握った。
「はは、若い手」
ぎゅ、と掴む手は、剣をあれだけ振り回しているのに思ったよりも華奢だった。シーゼルが呟く。
「隊長とも手を繋いでみたいなあ」
ヒースの手を掴んだ途端、シーゼルの走る速度が一気に上がった。シーゼルの先程までの速さは、ヒースに合わせた速さだったのだ。
「余計なもの見ないように、僕の背中だけ見てて」
言われた通り、シーゼルの背中に隠れる様な形で走ると、周りは見えなくて怖いは怖いがぶつからなくなった。シーゼルのこの夜目は何とも羨ましい。やっぱり少し練習していこう、ヒースはそう思った。
暫く暗い森の中を駆けると、急にばっと空間が開けた。森を出たのだ。するとシーゼルの手が緩み、歩みがゆっくりになった。シーゼルが振り返り、くすりと笑う。
「あは、肩で息してるね。体力足りないんじゃない」
はあ、はあ、と息をするヒースを見て、息一つ乱していないシーゼルが馬鹿にした様に言った。だが事実だ。そもそもこんなに全速力で走ったことなど、クリフ親子と一緒に逃げたあの日以来一度もなかった。
「体力、足りてないね、はは」
「素直で宜しい。走った方がいいよ」
「うん、走れる時はそうしてみる」
これから先ヒースがどこに向かっていくのか、今はまだ何も分からない。シオンを助けた後、一緒にジオの家に戻るのだろうな、と何となく思っていたが、こうやってまた暗闇を走る機会が出てくることも、もしかしたらあるのかもしれない。
「ほら、少し空が白ばみ始めた。早く登らないと皆起きちゃうよ」
シーゼルはそう言うと、そこそこ高さのある岩壁をひょいひょいと登って行く。あっという間に見上げる高さに行ってしまった。
「ほら!」
「あ、うん」
降りる時はそこまで思わなかったが、見上げるとかなりの高さがある。ヒースは覚悟を決めて、掴みやすい箇所に手を掛けた。
◇
シーゼルが手を差し出す。それをヒースが掴むと、ぐん、と物凄い力で引き上がられた。ヒースはもう息も絶え絶えだ。
「し、シーゼル、はあ、何で、そんな力あるの……」
「え? だって僕蒼鉱石の剣持ってるし」
「え……蒼鉱石って、はあ、そこまで効果あるの?」
「あるよ。僕みたいに細くてか弱い子には結構助かる」
「道理で……はあ、やたらと体力があると、はあ」
もしかしたら、走る速度が早いのにも関係があるのかもしれなかった。狡い。
「ほら、最後頑張って」
子供をあやす様な口調で言われると何だかイラッとするが、こうして助けてもらっている以上文句も言いにくい。
震え始めた足で、最後の一段を登り切った。
「着いた……」
ヒースはその場で倒れ込むと、仰向けになって空を仰いだ。ニアの瞳の色に少し水色を足した様な空の色をしていた。
「隊長起きてるかな? ちょっとご褒美の交渉するから、ヒースもちゃんと証言してよ」
「今から交渉するの?」
「善は急げって言うだろ」
それが果たしてヨハンにとっての善となるかは神のみぞ知る、だろう。
「ほら早く早く」
シーゼルに手を引っ張られて、ヒースは仕方なく起き上がった。本当に元気だなこの人、蒼鉱石だけの所為じゃない様にも思えた。
しー、と口に指を当てながらシーゼルが音もなくその辺で転がって寝ている男達の間をするすると通り抜けていく。洞穴の出口脇に、ハンとクリフが仲良くくっついて寝ているのが見えた。
シーゼルが洞穴に入って行き、振り返ってこくりと頷いて手招きした。ヨハンはそこにいるらしい。ヒースが後に続くと、ヨハンが寝ぼけ眼で横になったまま、ヨハンのすぐ横に膝をついて座ったシーゼルを見上げていた。
「……帰ったか。交渉はうまくいったか?」
「今日も引き続きになりましたが、無事会えましたよ。ね、ヒース?」
ヒースは頷いてみせた。
「今日の夕方に迎えに来てくれることになっているから、今日も待機になっちゃうけど」
「そうか、会えたか……よかった」
ヨハンがほっとした様な笑顔になった。それを見つめるシーゼルのキュン、とした様な表情。よくヨハンはこれでシーゼルの想いにこれまで気付かなかったものだ。鈍感にも程がある。
「……それでですね、隊長」
「どうした?」
いよいよ交渉開始らしい。ヒースは一歩引いて見守ることにした。
「今回、僕はかなり頑張りました」
大分厄介ではあったが、余計なことは一切言うまい。ヒースはこくこくと頷いてみせた。ほお、とヨハンがヒースの頷きを見て笑顔になる。
「その様子だと、確かに役立ってくれた様だな。ありがとう。ご苦労だったな」
「それでだから是非ご褒美が欲しいんです」
シーゼルが食い気味に言った。凄い勢いだった。
「ご褒美……ま、まああげられる物があるならいいが……」
「本当ですか!? やった! あの、実は僕、ヒースが可愛いなって思って声を掛けてみたんですけど、見事に振られてしまって」
「はい?」
ヨハンが思わずといった風にヒースを見た。ヒースは深く頷いた。
「振った」
「お、おお……」
シーゼルがじり、とヨハンににじり寄る。
「僕今、人肌が恋しくて。だから隊長、ヒースの代わりに僕とキスして下さい」
「は? え?」
言いながら、すっとヨハンの喉元に音もなく抜いた剣の刃を立てた。そしてにっこりと笑った。
「簡単にあげられる物ですもんね?」
「お、お前、人に剣を向けておいて……」
「ねえヒースもいいと思うよね?」
ヒースはもう一度深く頷いた。逆らう気はヒースにはない。
「俺の代わりに、ヨハン宜しく」
「お、おいヒース……」
「いいですか隊長、これはあくまでヒースの代わりですから、他意はありませんから」
「ちょっとま」
一切躊躇することなく、シーゼルがヨハンの唇を奪った。後手でヒースに向かってシッシッとしている。
「じゃあごゆっくり」
「ぷはっちょっと待ってくれヒー……」
「逃げないで下さい」
あれでは逃げられないだろう。ヒースはそれ以上は見ない様にして、洞穴を出て行ったのだった。
次話は明日挿絵が出来たら投稿します…!




