子守唄
その前に、とニアが冷たい水で絞った手ぬぐいを持ってきて、ヒースの目の上に置いた。ひんやりとしていて気持ちがいい。
「明日までに腫れが引くといいけど」
「ありがとうニア」
「どういたしまして」
ふふ、と笑うニアは優しく、ヒースはその雰囲気が大好きだった。そういえば。
「ニアって、もう成人……だよね?」
年齢すら聞いていなかった。お城で働いているというから成人しているものだと思い込んでいたが、体つきは幼く見えるがどうなのだろう。
トン、トンと仰向けになったヒースの胸を優しく叩くニアの手。じん、とこみ上げるものがあった。子供扱いされたくないと思っていたが、案外悪くないかもしれない。
「私? 私は今年で十八歳になるかな」
「え? まさかの年上?」
「見えないわよねえ」
ふふ、とまた笑う。
「同じ位かと思ってた」
なんせ身体つきがぺらぺらだ。まあ、実際に触れてみたら必ずしもそんなことはなかった訳だが。
「この制御腕輪をずっと取ってみたら、私もちゃんとお姉さんに見える様になるかもしれないよ」
「お姉さんなニア、想像できないなあ」
「失礼ね」
ニアは周りの魔力や生命力を吸収して自分のものとする属性を持つ。ずっと一緒にいるヒースは、恐らくクリフも、ニアが制御腕輪を外したままの状態だと何らかの影響を受ける可能性は高い。
そうそう他者の力を吸い続けられる状況を作り出すのは難しいだろう。例えば毎日あの魔力を持つ果実を食べるとか、そういったことをヒースとクリフが出来ればニアももっと自由でいられるのだろうか。
「ニア、魔力を増やす道具とか、あの果物みたいなのって他にもあるのかな?」
「どうしたの、急に」
「ニアがそれを付けなくてもいい様にするには、俺がいっぱい魔力を持ってればいい訳だろ?」
「……へ」
へ、と返事が返ってくる意味が分からないので、ヒースは続ける。
「だって俺はずっとニアと居るんだから」
「ひっ」
またあの「ひっ」だ。訳が分からない。今、ニアはどんな顔をしているのだろうか。ヒースが目の上の手ぬぐいを取ろうと手を伸ばすと、ニアの手がそれを止めた。
「まだ取っちゃ駄目」
「でも」
「ほら、子守唄歌ってあげるから」
「……分かったよ」
ニアのトントンが再開し、小さな歌声が耳をくすぐる。聴いたことのない旋律だったが、これはきっと妖精族の子守唄なのだろう。
合っているかどうかは不明だが、多分ニアは音痴ではない。聴き心地のいい歌声で、段々と睡魔が襲ってくる。時折歌の中に『四つ目のお化けがやってくる』とか『羽根をむしられない様に』など恐ろしい文が混じるとつい気になってしまったが、きっとこれも妖精族の子供が悪さをしない様にと考えられた歌詞なのだろう。
ヒースは、満ち足りた気分のまま、深い眠りへと落ちていったのだった。
◇
風が吹き、目の上に置いてあった手ぬぐいが舞い上がってヒースは目を覚ました。飛んでいきそうになり、咄嗟に掴む。もうカラカラに乾いていた。
そして反対の腕が痺れて動けないのに気が付いた。何だ何だ、どうなってる。目を開けると、辺りはまだ薄暗い。谷を少し降りてきたから、もしかしたら太陽の光が差し込むのは他よりも少し後なのかもしれないな、と思った。
動かなくなった腕を見る。腕の中に、ニアがいた。ヒースの肩と腕の間に頭を置いて、手はヒースの胸の上に置いたままだ。子守唄を歌いながら寝てしまったのだろう、ニアの外套が半ばベッドから落ちており、ヒースは自由な方の手を頑張って伸ばすとそれをニアの上に掛け直した。
ニアが乗っている方の手を動かそうとしたが、感覚がなくなっている。完全に痺れてしまったらしい。ニアの頭を持ち上げそうっと腕を抜くと、途端どっと血が流れるのが分かった。ぴりぴりしてきた。うおお、と言いたいがニアを起こすのも可哀想だ、必死で我慢した。これぞ正に悶絶だ。
暫くそのまま耐えた後、手をグーパーさせようやく動かせる様になったところで、横向きになり改めてニアの顔をじっと見つめる。気の強そうな目は今は閉じられ、まつ毛が瞼に影を作っている。少し開いた口から漏れる寝息は可愛く、このまま塞いでしまったらどうなるんだろう、なんて少し意地悪なことを思いつく。
昨日、夕日の中で触れたニアの唇は本当に柔らかくて、ずっと触れていたかった。
ここのところ、アシュリーのことを思い出す機会がめっきり減った。ニアに触れてからというもの、ヒースの中で何かが切り替わってしまったのかもしれない。ニアは滅茶苦茶だが、それでも真っ直ぐで優しくて、ヒースが欲しいと自覚していなかったものまでいつの間にか与えてくれている。
もう、離れたくなかった。もう今更無理だ。昨日みたいに、離れようとされると恐怖が心を占める。
そんなことをニアに言ったら、ニアはどう思うのだろうか。子供だと笑ってくれるのか、面倒だと嫌がられるのか。だからそれすらも怖くて聞けない。
ヒースはそうっとニアの唇に指を伸ばす。触っても起きないだろうか。少しだけ、ほんの少しだけ触っても怒られないだろうか。
あと少しで指が唇に触れそうになったその時、ニアの口がにっこりと笑った。思わず伸ばしていた手の動きが止まる。
「……お父さん」
寝言だった。亡くなったと言っていた。ヒースに父親の話を聞かせてくれたからだろうか、思い出して今日は夢に出てきているに違いない。幸せそうな笑顔だった。
ヒースの夢とは大違いだ。
いつの間にか弾んでいた心が、急激に萎んだ。まだ朝は早い。もう少し寝よう。そう思って仰向けに戻ろうとしたその時。
「お父さん、大好き」
これまで聞いたことがない甘い声で、ニアが言った。ぞわ、と鳥肌が立った。何だこれ、どうした自分。ヒースは焦った。
どうしようもなくなり、身動きも取れず、ヒースはただ息を潜めてニアを見つめていた。
◇
結局、あれから一睡も出来なかった。比較的すぐに日光が差し込んできたのでそこまで早起きではない筈だが、若干寝不足気味かもしれない。
ヒースは、自分でもようやく問題なく出せる様になった水を桶に溜めて顔を洗うと、手ぬぐいで拭った。ニアはまだすやすやとよく寝ている。外をちらりと覗くと、数名がすでに起き出し各々体操をしたり歩き回ったりしているのが見えた。その中に、ハンとカイラの姿も見えた。二人で何かを話している様だ。恐らく、明日は話すと言っていた例の獣人の件を話しているのだろう。
邪魔はしたくなかった。
ヒースはベッドに浅く腰掛けると、ニアの目にかかっている前髪をそっとどけた。するとニアの目がうっすらと開き、ヒースを確認すると笑った。
「……おはよう、ヒース」
「おはよう、ニア」
ニアは機嫌が良さそうだ。夢見が良かったからだろう。
「ヒース、何で怒ってるの?」
「え? 怒ってないよ」
「顔が怒ってる」
「そんなことない」
「私、何かした?」
ニアが困った様な、悲しそうな顔をする。違う、そういう顔にさせたい訳じゃない。ヒースはニアを笑顔にしたいのだ、決してこんな顔をさせる為に隣にいるんじゃない。
何でもない、そう言う筈だった。
だが、口から出た言葉は全く違うものだった。
「ニアは俺にはちっとも甘えてきてない」
「へ?」
「夢では、あんなにお父さんに甘えてたのに」
「あ、私寝言を言ってた? ご、ごめんヒース」
「そうじゃない、俺もあれ位がいいんだ!」
ムキになってそこまで言って、はっと気付いた。何を言ってるんだ、と。
次話は明日投稿します!




