虚勢の崩壊
ヨハンの視界を奪う光がやがて光度を落とすと、それまで苦しげに定まらない視線を宙に漂わせていたシーゼルの、はっきりと意思が感じられる視線が自分を捉えたのが分かった。
「――隊長? 僕……」
「シーゼル!」
こんな傷で起き上がっては、また血が吹き出てしまう。これ以上シーゼルの身体から出て行ってしまったら、もう動かなくなるのではないか。襲い来る不安をその顔一杯に浮かべ、ベッドから起き上がろうとするのを慌てて止めた。すると、シーゼルが思ったよりも力強い声で言ったのだ。
「あの……怪我が治ってるみたいなんですけど、僕」
「――は?」
怪我が治るなど、魔法で怪我の程度をましにする程度なら聞いたことがあったが、それとてその御業を使えるのは神殿に仕える神官だけだ。すでに滅びたと言っても過言ではない祖国西ダルタン連立王国の、王宮近くに在った存在。だが、それは戦乱の最中真っ先に狙われた場所であった筈だ。ヨハンの仲間にもナスコ班の仲間にも、元神官はいない。
「シーゼル、僕も痛みが収まっている」
大きな目を更に大きく開きながら、椅子に腰掛けているカイネがシーゼルに向かって言った。
「本当か!? カイネ、見せてみろ!」
「うわあっ! 勝手に服をめくるな!」
ヴォルグがカイネの背中に回り込むと、服をめくろうとする。何が嫌なのか、カイネは裾を必死で下に引っ張った。
「傷を見るだけだ!」
「じゃあ切れた服の隙間から見ろ!」
どうしても脱ぐのは嫌らしい。本当は見た目通り女なのだろうか、そう一瞬疑ってしまい、シーゼルのジトッとした視線に気づき、急ぎカイネから目を背けた。
「……おお、傷ひとつない」
ヴォルグが、驚いた様に唸る。ヨハンはそれを聞くと、血だらけのシーゼルの服をそっとめくった。シーゼルは、嫌がる素振りは見せずにいる。カイネとヴォルグとの違いに、つい先程まで絶望して死のうとしていたというのに、優越感が沸き起こった。
まだ濡れた血が張り付くシーゼルの引き締まった腹部に、出血の原因となっていた傷はどこにもなかった。
「これは……!」
ヨハンは、まだかすかに目の裏に残る光を宙に探した。まさか、この光か。これが治癒の力を持つ魔力だったのか。
――こんなに多量の光を発生させることが出来る程の魔力を持つ者が、獣人の中にいるのか。
獣人は、魔族の中では比較的魔力の保有量が少ないと聞いている。そして、これまでの実戦経験からそれはあながち噂ではないと、ヨハンは知っていた。
「ヒースはどうなった!? まさか無事なんじゃないか!?」
怪我が治ったと分かった途端、カイネは大急ぎで立ち上がり、声を掛ける間もなく家の外へと出て行ってしまった。
「カイネ!」
その後を、ヴォルグが慌てて追いかける。まるで言うことを聞かずに走り回る子供を追いかける母親の様だ、とどこか牧歌的な雰囲気を感じながら思った。もう、この十年見ることもなかった光景だ。どこか懐かしく思え、小さな笑みを口の端に浮かべる。
自分も行った方がいいだろうか、そう思い、立ち上がろうとして、服の裾を引っ張られた。
「うわっ」
驚いてベッドに倒れ込むと、裾をぎゅっと握り締めたままのシーゼルの思いつめた眼差しに囚えられた。
「隊長、どこに行くんですか」
血だらけの格好で言われると、なかなかの迫力がある。もうシーゼルが死ぬことはなさそうだと分かってはいても、ついひやりとしてしまう。
「いや、俺もその、様子をだな」
思わず言い訳がましくなってしまった。――いや、正直に言おう。これは言い訳に過ぎない。シーゼルを置いて死のうとし、そのシーゼルに助けられてしまった。シーゼルを刺した男に、この家に通された。自分の心の弱さに、ほとほと呆れ返る。
シーゼルが、瞳を潤ませた。
「隊長、僕のことが嫌いになりましたか……?」
「へ?」
何故そういう話になるのか。思わず素っ頓狂な声が出てしまい、ああ、こいつの前ではずっと格好いい隊長でいたかったのに、と頭を抱えたくなった。
こいつだけは、実は間抜けで阿呆な自分を、キラキラした尊敬の眼差しで見てくれていた。それがなくなってしまうことを、知らず恐れていたのだ。シーゼルの前では、無様な姿は見せられない。見せて、軽蔑でもされたらどうする。いや、軽蔑だけならまだいい。もう興味がない、と無関心になることが、何よりも怖かった。
自分なんかより、遥かに優れたものを持っているシーゼル。なのに、彼の眼差しは出会った時からずっと自分に向けられたままだ。隊長、隊長、と笑顔で追いかけてくるシーゼルに、どれほど心が癒やされたことか。
「僕、汚れてますか?」
「シ……」
「僕、もう、隊長の恋人ではいられませんか……?」
ガン! と頭を殴られたかの様な衝撃を受けた。なんてことだ、シーゼルは先程死を迎え入れようとしたヨハンを見て、そう捉えてしまったのか。
ぼろぼろと、透明の綺麗に澄んだ涙がシーゼルの白い滑らかな頬を伝い落ちる。ああ、泣かせたい訳じゃないのだ。ただ、自由にしてあげたかった。こんな馬鹿な男に執着しなくていい様に、シーゼルが楽しそうに一緒に過ごしているあの金髪と過ごせばシーゼルはもう苦しまなくていいと、そう思っただけなのだ。
「ちっ……ちがっ」
震える指先でシーゼルの頬に触れようとし、汚いのは自分の方だというのに触れていいのか、と止まる。それを見たシーゼルが、俯いてしまった。違う、悪いのはシーゼルじゃない。たったそれだけの言葉が、シーゼルを傷付けたのは自分の方だというのにそれを口に出した途端贖罪の言葉と成り果てる気がして、どうしても出てこない。
「ずっと黙ってたこと、怒ってるんですか……?」
シーゼルは、何もかもを勘違いしている。どうして汚れているなどと思うものか。どうして怒りなどするものか。でも、声が出ない。
「……だったら、あのまま死ねばよかった」
シーゼルの呟きは、静かだった水面にぽとりと落ちる雨粒の様だった。
冷静でいよう、大人でいよう。我儘を言わず、シーゼルに尊敬してもらえる様に虚勢を張っていこう。
そんな気持ちが、一瞬で掻き消えた。
「――駄目だ」
掠れ声が出る。嗚咽が上がってきた。喉が痛くて、鼻がツンとする。あの時以来、もう流したことのないものが、ヨハンの目から流れ落ちてきた。
「……隊長?」
シーゼルが、驚いた顔をする。ああ、今度こそ飽きられて、ポイと捨てられてしまうかもしれない。こんな情けない人だったなんて思わなかった、そう軽蔑されるのかもしれない。
だけど、もう我慢の限界だった。
どうしても震えてしまう手をぎゅっと握り締め、膝の上に置き力を込める。
「駄目だ、嫌だ、シーゼルが死ぬのは駄目だ、絶対駄目だ……!」
「た、隊長?」
まるで駄々っ子の様な口調になってしまう。涙も鼻水もどんどん出てきて、ああ、もう終わった、と思った。格好悪さの極みだ。捨てられる、今度こそ見放されてしまう。
でも、もう止まらなかった。
「俺は全然駄目な奴なんだ、シーゼルが思っている様な立派な人間じゃないんだ……!」
「……何言ってるんです、僕を助けてくれて、これまで支えてくれてたのは隊長じゃないですか」
自分だって泣いてる癖に、何故この美しい恋人は冷静に物事を言うのか。ヨハンはブルブルと首を横に振った。
「違う、俺はずっと、シーゼルに尊敬されてるから自分を保てたんだ……! 本当の俺は、独占欲は強いし、格好つけたがりだし、情けないし、お前に捨てられたら立ち直れないし……!」
涙で滲む目で、縋り付くような眼差しでシーゼルを見つめる。すると、シーゼルは疑わしそうな目つきで見るじゃないか。
「……そうなんですか?」
「そうなんだよ! 俺は見栄っ張りなんだ!」
シーゼルのひやりとした指が、膝の上でブルブル震えているヨハンの拳をそっと握る。
「……僕のこと、好きですか?」
「当たり前だろう! 好きだ! 大好きだ! だからお前と一緒にいる金髪は大っ嫌いだ!」
ヨハンが叫ぶ様に言うと、泣きながらシーゼルがプッと吹き出した。
「隊長、じゃあ、もう死ぬなんて言わないで下さい」
「……俺がお前にしたことを、ゆ、許してくれるのか……?」
ずっと我慢させた。傷付けていたことにすら気付かなかった。なのにヨハンは偉そうにして過ごしていたのだ。何も見ず、何も聞こうとせず。
それなのに、この人はこんなにも浅ましく許しを未だ願う自分を、まだ想っていてくれるのか。
――ならば、シーゼルの願いを、これからはなりふり構わず全部叶えてやりたい。
シーゼルが、上目遣いで言う。
「じゃあ、今ここで抱いてくれたら許してあげます――わっ」
少し照れくさそうなシーゼルの言葉に、ヨハンは即座にシーゼルを押し倒したのだった。
次話は、目指せ月曜日です!




