一縷の望み
ニアが、片手に濡れた手ぬぐいを持ち続けながら、ヒースの頬を両手で挟んだ。
涙を流すヒースを見て、眉を下げる。こういうところも、もしかしたらニアの目には子供っぽく映っているのかもしれなかった。だけど、どうしても止まらない。欲しいものに近付けば近付く程壊れていくかもしれないなど、これまで考えたこともなかった。そもそも、そこまで欲しいものはなかった。生きていくので精一杯だったから。夢など、持ちようがなかったから。
だけど、今は欲しいものが目の前にある。手を伸ばせばそこに在るのに、掴んだ瞬間霞の様に消えてしまうのではないか。
それが恐ろしくて、だけど諦めるなんて考えたくもなくて、戸惑いの涙を流し続けた。
「ど、どこにしたらいい?」
おまじないのキスの場所のことだろう。どうせなら、口に欲しい。ヒースはダメ元で言ってみることにした。
「口」
「ひっ」
例の言葉が出てきた。やはりニアはニアだ。愛しさが溢れて、今すぐ抱き締めたくなった。だけど、今は我慢だ。おまじないは、向こうからしてもらわねば効果は薄いに違いない。ヒースは、ひたすら待った。
ダメ押しのもう一回を言ってみる。
「……口がいい」
「え、いや、ヒース、そのね!?」
ニアの慌てぶりといったら、思わず笑ってしまいそうになる程のものだった。だが、ここで笑ってしまっては駄目だ。あくまで表情は抑え込んだまま、ヒースはニアに勇気が湧くのを待った。
「……口」
「わ、分かった! 分かったけど、お願いだから目を瞑って!」
やった、と飛び上がりそうになったが、ヒースは我慢する。急いては事を仕損じる。
「ん」
ニアの依頼通り、目を瞑って待つことにした。気配で、ニアがワタワタしているのが分かる。やがて覚悟を決めたのだろう、ニアの温かで華奢な手が、ヒースの両肩に置かれた。体重が、肩にかかる。ニアの気配で、ニアが顔を近付けているのだって分かった。まだかな、でも焦っちゃいけない。でも少し目を開いては駄目だろうか――。
ヒースがうっすらと目を開け、ニアとの距離を確認しようとしたその瞬間。
「ヒース!! 目が覚めたのか!」
「ひっ!」
音もなくいきなり炊事場に飛び込んできた声は、カイネのものだった。ニアの手が、肩から慌てた様に離れていく。ヒースが目を開けると、顔を真っ赤にしたニアが、ヒースとカイネを交互に見ていた。
「……おまじない、まだなんだけど」
「ちょっと待ってヒース! 今この状況じゃさすがに!」
ヒースが通路から顔を覗かせているカイネを見ると、カイネは大きな目を見開き、今一体何が行なわれようとしていたのかと思っていそうな慌てぶりを見せている。
「わ、わわ、今、僕もしかして邪魔し……っいやでもヒースが治ったって聞いて、あの、その!」
だけど、立ち去ろうとはしてくれなかった。ヒースのことが心配で飛び込んで来てくれたのだろうとは予測されたが、あとちょっとだったのに、何とも間の悪いことだ。カイネは、もしかしたらこういう星の元に生まれているのかもしれないな、と諦観を覚えつつ思った。
「ニア」
もう、ニアから口にしてもらうのはこの状況では無理だろう。あわあわと口を震わせているニアに近付くと、ヒースはトン、と軽くニアの唇に自分のそれを重ねた。一瞬なので大して柔らかさは分からなかったが、今回はこれで我慢しよう。
「ひ…………」
とうとう、ニアがへなへなと崩れ落ちてしまった。ヒースは急いでニアの手首を掴み支えるが、血が付きそうなので抱き締めるのは控える。顔から湯気が出そうな程に真っ赤になっているニアだが、この様子を見る限り、嫌な感じはしない。ただ単に、羞恥で動けなくなっているだけなのだろう。ニアは制御腕輪を付けているので殆ど感じ取れないが、嫌いだという様な負の感情は感じ取れないのが地味に嬉しかった。
「また後で、ちゃんとしてね」
ヒースが言っても、ニアの口はぱくぱくするだけで、返事は返って来ない。
改めてカイネの方を見た。相変わらず大きな目を落としそうな位見開いて見ているが、二本の足でしっかりと立ち、元気そうだ。
「カイネ、傷は治った?」
「そう、それだ!」
カイネは我に返ると、ヒースの前へと駆け寄ってきた。
「突然白い光が発生したと思ったら、痛みが引いたんだ! ヨハンに支えられてぐったりしていたシーゼルも、驚いた様に急に起き上がって!」
ということは、ヒースの願いはちゃんと届いたのだ。多分届いたな、という感触はあったが、ヒース同様剣が身体を貫通していたシーゼルも、その様子なら大丈夫そうでほっとした。
「どういうことなんだ!? ヒースは分かってるのか?」
カイネの問いに、ヒースはこくりと頷き肯定する。
「その件も、この先のことも含めて、ヴォルグとヨハンと、後はハンとも話をしたい」
シーゼルの怪我も治って何よりだったが、シーゼルの過去を知り打ちひしがれているヨハンをヴォルグがどう料理するつもりなのか、まだ分からない。先程のは売り言葉に買い言葉だっただろうから、ヴォルグがもうこれ以上手を出さなければいいだけの話なのだが、如何せんヴォルグの頭は固く、考え方は獣人族そのものだ。これ以上余計なことを決断する前に、会って注意しておきたかった。
「わ、分かった」
「ヴォルグは?」
「すぐ来ると思う」
まだポワッとしているニアの肩を抱きながら、ヒースは炊事場から出た。台になっている部分には、相変わらずアンリが転がっている。そして、その横にはヴォルグが立っていた。苦虫を噛み潰した様な顔で、ヒースを見ている。
「……お前は、馬鹿か」
開口一番に馬鹿と言われたが、その声色に馬鹿にする様なものは一切感じられなかった。
「ごめん」
ヒースは、素直に謝った。一番驚いたのは、ヴォルグだっただろうから。
アンリやハン程の魔力量がないヴォルグからも、今の感情が少しだが流れ込んでくる。これも、ヒースに掛かっていた封印が解けてしまったからなのだろう。そこまで強くない感情はこちらが呑み込まれることはなさそうだが、ヴォルグはカッとなりやすい質だ。その時にその感情に引っ張られると、あまりいいことにはならなさそうだった。
「ニア、ニアの制御腕輪みたいなのって、どうやったら手に入れられるんだ?」
まだ顔の赤いニアに尋ねると、何故そんな質問がヒースの口から飛び出るのか分かっていないだろうに、ニアはするすると答える。
「あれは、魔剣と一緒の原理よ。魔力を抑え込む力を持つ魔石を埋め込むの」
「その魔石を持ってたりはしないよな?」
「あ、持ってる」
「え?」
まさかの回答に、ヒースは口をあんぐり開けた。ニアはそんなヒースを見上げると、ようやく気持ちが落ち着いてきたのだろう、ヒースに優しく説明を始めた。
「私は制御腕輪がないととんでもないことになるから、なくしてしまった時の為に魔石を持ち歩いてるの。いつもはポケットに入れてるんだけど、さっき万が一のことを考えて鞄に詰めてきちゃった」
万が一。ヒースを癒やす為の障害にならない様に、わざわざ遠ざけてきたのだろう。
「それって、俺がもらうことって出来る?」
「ヒースが? まあ予備だからいいはいいけど、どうしてヒースが?」
ニアは訝しげだ。当然だろう。これまではろくに魔法も使えなかったヒースが、どうして突然魔力を抑え込む必要があるのか。
やはり、ニアにもこの力の話はきちんとせなばならないのだ。怖い、失いたくないと避けていても、何も先に進まない。
きっと、ニアはそんなヒースだって受け入れてくれるんじゃないか。
一縷の望みをかけて、ヒースはニアにも全てを話すことを心に決めたのだった。
次話は木曜日投稿予定です!




