あの日の記憶
腕の中に、温かいシーゼルの身体がある。
正面から抱きついた形になったヒースが顔を上げてシーゼルの目を探すと、盛大に涙の跡が残る頬が見え、そしてシーゼルにしては大分開いた目を見つけた。驚いた様なその目がヒースを見つけると、横に開いていた腕を震わせながらゆっくりと下ろす。
ヒースの身体を支える様に背中に手を回すと、そこに本来あってはならない物に手が触れ、ビクッと指を震わせた。
ボタボタと涙を零しながら、囁く様に言う。
「……馬鹿」
「シー……」
シーゼル、そう言うつもりだった。だが、言葉の代わりに出てきたのは、気管を逆流してくる血だ。喉に詰まりカハッと咳き込むと、目の前のシーゼルの白い頬に血飛沫がかかった。それがシーゼルの涙で薄れ、シーゼルの鎖骨を血の色で染めていく。
背中に傷を負い地面に座るカイネが、呆然と立ち尽くしているヨハンの脇に見えた。
「……ヒース!」
カイネの呼びかけに、大丈夫だと答えようとした。だが、また血が昇って来てしまい、ヒースは再び咳き込む。何故こんなに口から血が出てくるのか。多分、肺に何かあったんだろうな、ぼんやりとそんなことを思った。
カイネの横で真っ白い顔をして突っ立っているリオは、何かに衝撃を受けたのか、微動だにしない。
そんなに驚いた顔をして、自分は大丈夫なのに。そう思ったが、身体の一部がヒリヒリする様に熱く感じ始めてしまい、うまく息をすることが出来なくなってくる。
ぺしゃんと胸が萎んでいく感覚に、奴隷時代に落石に潰されて薄くなった奴隷仲間の姿を思い出した。ああいう風に、自分も平べったくなるのか。それは嫌だな、とどんどん白くなっていく頭の中で、そう考える。
息が出来ない、苦しい。
足元から崩れ落ちそうになり、思わず目の前のシーゼルの背中に手を回し支えにしようとすると、べっとりとシーゼルの背中が濡れているじゃないか。
手を少し動かすと、尖った物に触れた。心臓よりも肺よりも、大分下の方だ。まだよかった、と致命傷でなかったことに安心すると同時に、無傷ではいさせてあげられなかったことを悔しく思う。
ずる、と身体が落ちそうになった瞬間、身体の中心に激痛が走った。
「うあ……っ!」
またガハッと咳き込むと、新たな血が口から飛び散る。と同時に、少し息が通って意識が戻ってきた。
「ヴォルグ! 抜くな!」
遠くから、カイネの泣き叫ぶ声が聞こえる。
シーゼルだって怪我をしているというのに、ヒースを離すまいと精一杯の力で支えてくれている。
「ヴォルグ、手を離せ……!」
絞り出す様な声でシーゼルがヴォルグに言うと、動く度に痛かった背中が、少しだけマシになった。後ろで、ヴォルグが剣の柄をずっと握ってたのだろう。
「ヒース、ヒース、しっかり……!」
「シ……」
またグボッと今度はそこそこな量の血が口から溢れ出す。これは拙いかもしれない、と初めて思う。
途端、恐怖が襲ってきた。
どうしよう、死にたくない――!
カイネが遠くで何かを怒鳴っているが、頭の中で声が響き、何を言っているか聞き取れない。息苦しく、ヒースとシーゼルを貫通しているヴォルグの剣は動くと更に痛むし、どうしたらいいのか分からなかった。
治癒魔法がどうの、という声が聞こえる。もしかしたら、誰か使える人がいるんだろうか。
ああ、ニアに会いたい。
ニアに、大丈夫だよヒースと言われながら、おまじないのキスをしてもらいたかった。きっとそうしたら大丈夫だから。
「……ア」
ゴボリ、と血と共に声が出る。ふらついていた視線が、しっかりしろとシーゼルに頬を叩かれてシーゼルに向いた。
先程までの、何かに呑まれた様な、全てを悟り諦めたかの様な空虚な瞳はもうそこにはなく、あるのはただヒースを心配するいつものシーゼルの瞳だった。
「……シーゼル、よかっ……」
「よかったじゃないよ、馬鹿!」
「シーゼ……戻っ……」
再び血が漏れる。どうしよう、身体中の力がどんどん抜けていく。なんだかポカポカしてきた気もするし、もう目を瞑りたい。
なのに、シーゼルが頬を叩くから瞑れない。シーゼルだって、今腹に剣がぶっ刺さっているのに、なんでこんなに元気なんだろう。
なんだかそれも実にシーゼルらしく思えて、ヒースは小さく笑った。くらりとし、天を仰ぐ。白く霞む視界にある太陽が眩しくて、その燃える様な色が、ニアの髪の色に見えた。
ニア。死ぬ前に会いたい。
結局、禁断の果実は触ることが出来なかった。ああでも、頭をぎゅっと抱き締めてもらった時に顔で受け止めた。あれは触れたことの内に入るんだろうか。
でも、会いたい。
ニア。
ニア、ニア――――!
意識が薄れていく中、ニアに会いたいという気持ちだけがヒースから溢れ出していた。
◇
あの日の記憶が、蘇る。
それは、父の怒鳴り声から始まった。
「カミラ! ここはもう駄目だ! ヒースと一緒に早く逃げるんだ!」
開け放たれた玄関の扉。もう外は夜だというのに家の中より明るく、父の輪郭が輝いている様に見えていた。
「あんたはどうするのよ! い、嫌よ私! この子といると、私……!」
母は、いつもヒースからは少し離れた場所にいる。この身体を抱きしめてくれたのは、最後はいつだっただろうか。
父はいつでもヒースの頭を撫でて抱き締めてくれるから、大好きだった。だけど、母は父が強いらなければ決してヒースに触れようとはしない。
もっと小さい時は、ヒースが泣けば頬にキスをしておまじないをしてくれた。それなのに、段々とヒースを突き放す様になった。子供だって、いや、子供だからこそ、小さな変化でも分かる。
父は、きっとヒースが赤ちゃんから男になってきたからだろうと頭を撫でて笑い飛ばしてくれたが、その辺りから、父と母が言い争うことが増えた様に思う。
ヒースが原因で、両親が喧嘩をしている。
ヒースには全く心当たりがないのに、母はどんどん自分を避ける様になっていた。そんな時、魔族の襲撃に街全体で警戒していたあの日、街の見張り台で見張りをしていた射士の父が、血相を変えて飛び込んで来たのだ。
街はまだ囲まれておらず、先行隊が火を付けて回っている段階だった。街の兵達がその魔族を追いかけていたが、奴らは人数は少なくとも素早く、強い。
魔力の強い人間が辛うじて数人を追い払ったが、ろくな魔剣も揃っていない小さな街では、燃え盛る炎から飛んでくる火の粉を叩いて退ける程度の効果しかなく、人間はどんどん追い詰められていた。
「他の街と一緒だ! 退路を断ち、出口で待ち構えて捕まえられる! 今なら間に合う、カミラ!」
「い、いやよ!」
母は、頑なに断った。どうしてなんだろう、父と離れたくないのかな、そう思っていると、母はヒースを指差して叫んだ。
「あんたがヒースを連れて行ってよ!」
「カミラ! お前は母親だろう! 何を言ってるんだ!」
「嫌なのよ! 怖いの、私ヒースが怖くて仕方ないのよ!!」
何を言われているのか。日頃からおっとりした方だったヒースは、怒鳴り合う両親の会話に割って入り尋ねることなど出来やしなかった。
まだ六歳になったばかりだ。本当だったら、こんな状況では泣いて怖がるのが普通なのかもしれないが、この時はまだ状況がうまく掴めておらず、ただじっと両親の様子を窺うしかなかったのだ。
死というのも、よく分かっていなかった。
火が身体に点いたら、死ぬ。それは分かっていたが、なんで魔族が人間の街に火を点けるのかが分からなかったし、死んだらどこに行くのかも知らない。
母に近寄り尋ねると、母から伝わってくるのは恐怖だけでヒースは考えることを止めざるを得なくなる。何が怖いのかも分からずに与えられる恐怖こそ、恐怖だった。
「カミラ、頼む! 俺はまだ他の家に残っている奴らに声を掛けないといけないんだ!」
「他の奴らなんてもういいじゃない! ヒースがそんなに大事なら、ヒースを連れて逃げなさいよ! もう私は嫌よ! あんたはヒースのことばっかりで、私のことなんか……!」
母が、泣き叫びながらそう言ったその時。
「ぐあああっ!」
外に背を向けていた父が家の中に飛んできたかと思うと、床に大きく投げ出される。
その背中から流れ出るのは、大量の血。
そして父の背後には、魔族の姿があった。
次話は、挿絵かけたら今週どこかで投稿します!
 




