涸れ谷
谷底の道は通る者がいないのか、でこぼこして非常に歩きにくい。
「うわっと!」
尖った岩に足を取られヒースが後ろに倒れそうになると、ヴォルグが後ろからぐいっとヒースの服の襟を掴み引っ張り上げた。
「ぐえっ」
すぐにストンと地面に降ろされたが、一瞬首が絞まって「あ、殺される」と思った。
「ヴォルグ! すぐに人をそう荷物みたいに掴むなよ! 首が絞まって死ぬかと思ったぞ!」
「首周りの筋肉が足りん証拠だ。鍛えろ」
ヴォルグは相変わらず眉間に皺を寄せたまま、感情の起伏を感じさせない落ち着いた声色で言い切った。
「あのねヴォルグ、鍛えろってそう簡単に言われても」
ヒースが喉をさすりながら更に文句を言おうとした時、ふふ、とシーゼルが口を挟んできた。
「それよりも、瞬発力じゃないかなあ? どう考えてもヒース、とろいもんね」
とろい。その言葉は、さすがにヒースの心を軽く抉った。
シーゼルは、無言になってしまったヒースを振り返ると、傍に寄ってきた頭をよしよしと撫でる。よしよし撫でている場合じゃない。この人は、もう少し言葉の選び方というものを学んだ方がいい気がした。
正直、瞬発力には全く自信がない。手先はそれなりに器用な自信はあったが、戦いに関すること全般について全く自信がなかった。シーゼルに手ほどきを受けた時だって、あれは瞬発力や技術よりも、どちらかというとまぐれで出た魔力のお陰で何とかなっただけである。
「瞬発力ってどうやって鍛えるんだよ」
日頃は無表情に近いヒースであったが、こうもあれこれ駄目出しされると、さすがにいじけたくもなる。ぶすっと口を尖らせていると、シーゼルがキュンとした表情になった。
「……可愛い……」
しまった、これも駄目らしい。ヒースは慌てていつもの無表情に戻すと、とりあえずこれ以上あれこれ言われない様、足元に最新の注意を払うことにした。
首周りの筋肉も瞬発力も、今すぐにどうなる種類のものではない。その辺の認識がこの二人には共通して欠けているが、もうそれに関して深追いするのはやめることにした。出来ることなら男とは一生キスしたくない。
「ねえ、ここからその下に降りる場所って、あとどれくらいなんだ?」
谷底の細い道はうねっており、視界は非常に悪い。感覚の鋭いヴォルグとシーゼルが共にいるので、いきなり影からバッサリと斬られる様なことはないだろうが、出来れば用心しつつ進みたいのは確かだ。
「うーん、まだ少し先だけど、サイラス達って武器以外何も持たないで出て行ったんだよね。飲水もない状態だから、そろそろ焦り始めてる頃じゃないかなあ」
「途中も何もないもんな」
「うん。水属性の剣も置いてっちゃったからねえ」
抜かりないシーゼルは、あの状況でもしっかりと現状把握に努めたらしい。さすがはヨハンの右腕である。
「水もなしに逃げ出したのか。そうすると、やはりこちらから来る可能性が高いな」
ヴォルグが、渋い表情で唸るように言った。
「この谷は涸れ谷だからな。しかもここ最近雨など降っていない。集落のあの森を見て、あそこなら水があると思うだろうな……」
「涸れ谷って?」
知らない単語が出て来たのでヒースが尋ねると、ヴォルグが説明をしてくれた。
「涸れ谷とは、普段一切水がない谷のことだ。雨が降った時のみ、小川が出来る」
「へえー」
確かに、ここに来るまでの最中、水が流れた様な掘られた筋があるのを幾度か見かけた。あれはそういうことだったのだ。
ヴォルグは静かに語る。
「渓谷の上部に降った雨は、裂け目から大地の内部に浸透し、我々の集落の地下に流れ込んでいるらしい」
湧き水だと思っていたら、雨水が濾過された地下水だったのか。
ヴォルグが、岸壁を見上げた。
「どこから繋がっているのかは分からないが、ほぼ外に出てくることなくあの森の地下に繋がっている」
そして、背後の広大な森を振り返った。背の高い木で構成された黒々とした森は、遥か太古の昔からここに水脈があることを表している。森の先にはまた水気のない砂漠が広がっていることを考えると、地下の内部で唐突に更に地下深くへと流れ込んでいるのだろうか。
この谷に降り注ぐ雨は、全てがこの森とこの森に済む生き物の為だけに集結しているのだと思うと、その広大さに少しだけ恐怖を感じた。
「雨も降らねばもうどうしようもないが、これまで水が枯れたことは一度もない」
ヴォルグの目が、少しだけ穏やかなものに変わった。
「だからだろう。ここの民は、皆穏やかだ。争いを好まず、出来うる限り他種族の者とも共存しようとする」
「ヴォルグ、戦おうとしてたよな?」
思わずヒースが突っ込むと、ヴォルグがギロリと睨んだので、ヒースは少し身体を縮こまらせた。余計なひと言だったらしい。
だが、考えてみれば、谷を出たところに長年住んでいたザハリは、今回その鍛冶屋の腕を必要とされるまで、関わり合いを持っていなかった。
それに、アンリの存在もそうだ。本来は敵同士といっても過言ではない妖精族のしかも王族が、当たり前の様に獣人族の次期族長と友人の様に話しているのを、ヒースはこの目で見た。
ヴォルグは喧嘩っ早いところはあるが、これはカイネと一族を守る目的の為であることは確かだ。カイネはヴォルグの周りの人間も喧嘩っ早い様なことを言っていたが、レイスの縫合の騒ぎの時の男達の言葉と態度を見た限り、そんなことはなかった。
竜人族に族長の娘を拐われた、そのことに憤りを感じて戦う方向で考えていたのは確かだろうが、決して争いが好きな訳ではない。
あの元気一杯で真っ直ぐなリオを見ても、それは感じられた。
この集落の獣人は、武力で解決しようとはしていない。
だが、武力で侵略されたり奪われた時はその限りではない。そういうことなのだろう。
「……ここは、遥か昔から守られるべき土地なのだと、亡くなった父が言っていた」
守られるべき土地。ヒースは、その言葉に既視感を覚えた。どこかで似たような言葉を聞かなかっただろうか。そうあれは、カイネの言葉だ。
「……守られるべき、接点……」
ヒースが呟くと、ヴォルグが片眉を器用に上げてヒースを見た。
「カイネから聞いたか?」
「うん。蒼鉱石の円盤で出来た接点は、守らないといけないって言い伝えがあるんだって教えてくれたよ」
ヴォルグが、ふむ、と腕を組む。
「恐らく、あの接点とも繋がっている話なのだろうな」
「何だか大きな話みたいだね。僕にはよく分かんないや」
接点の話は、シーゼルにはしていない。さすがに何のことだか分からないのだろう。
ヒースがシーゼルにあの時見たものの説明をしようとした、その瞬間。
「!」
シーゼルが剣の柄を握ると、バッと背後を振り返った。それをヴォルグが腕を広げて制す。
「待て! 敵ではない!」
「じゃあ誰さ!」
訳が分からずヒースがただポカンとその場で二人を見ていると、二人の前の地面にダン! と音を立てて降ってきた者があった。
女と見紛う綺麗な顔。カイネだった。
「カイネ! 縫合は終わったのか!?」
それか、ハンに何かあったのだろうか。ヒースがカイネの元に駆け寄ると、カイネは一切余裕のない顔で、ヒースの肩をガッと掴んだ。
「リオを見なかったか!?」
全く予想していなかった言葉に、ヒースの思考は一瞬停止する。やがてゆっくりと脳が再び働き出し、可愛らしいリオの笑顔が脳裏に浮かんだ。
「リオが、リオがどうしたって!?」
「パッと出て行ったきり、戻ってこないらしいんだ!」
「……え!?」
ヒースの心に、じわじわと不安が押し寄せてきた。
次話は目指せ金曜日です!




