サイラス
十年前の魔族襲撃の時、サイラスは家族と共に西ダルタン連立王国の首都に住んでいた。
首都と言ったら聞こえはいいが、彼の家があったのは、都の中心から大分離れた所謂貧民街だ。肥大した都は貧富の差が大きく、王宮に近い中心から離れるにつれ、治安は劇的に悪くなる。
それ故に、中心から直線に都の外へと出られる大通りが作られた。さあこれから旅に出ようと都の外に向かった途端、追い剥ぎに遭う輩がわんさかいたのだ。間抜けなことである。
サイラス達スラム街の人間にしてみれば、ここすら通り抜けられないなら、外の世界を旅することなどそもそもが無理なのだ。
少しずつ侵食してくる魔族の勢いに押され、人々は一箇所に固まって生きる道を選ぶしかなくなってきていた。
サイラスとて、好きで追い剥ぎ家業を続けている訳ではない。だが、家族に満足な食事を与えるには、真っ当な働き口が見つからない以上、持っている人間から拝借するしか方法はなかったのだ。
サイラスの一人息子のマルクはまだ十歳にも満たない子供だが、毎日街の中心まで足を運んでは、金持ちそうな商人の懐から財布を奪っている。だがそれすらも、貧民街に帰る途中で他の者に奪われることがよくあった。
少し前までは、人々は農家で季節労働をしたり、春には行商人と共に都の外へと旅立ち、冬になる前に都へ帰還し、家族と共に暖かく冬を越すことが出来ていた。貧民街は存在はしていたが、ここまで肥大化してはいなかった。
それが変わったのは、数年前からだ。どこかの街が魔族に襲われた、人間が連れ去られたと聞く様になり、次第に外から入ってくる者は増えたが、出て行く者は減った。
首都には、国軍が在る。西ダルタン連立王国で一番の規模を持つ軍だ。魔族がこれまで襲った町は、大抵が軍の駐屯がない中規模の町ばかりだった。
その事実が、首都の人口肥大を招いた。人口は過密状態になり、職にあぶれた者が形成する貧民街は、瞬く間に広がった。
それまで、サイラスは街の外にある近隣の畑から野菜を仕入れ、それを街で販売していた。サイラスが懇意にしていた農家は街から比較的近い場所にあった為、魔族の脅威はあったが、それでもと請け負う者が増えた。
中には、元気で明るい若者もいた。どうしても無愛想になってしまうサイラスよりも、親切で、売り捌くのも早く、且つ高値がつく若造が。やがて、農家はそういった者へ多く依頼する様になる。
仕方なく、後ろめたい思いを抱えつつも、追い剥ぎ業に勤しんだ。他に生き延びる方法は、学のないサイラスには分からなかった。
そんなある冬の日、育ち盛りのマルクに自分の分の食料まで与えていた妻が、どこからか風邪をもらってきたかと思うと、あれよあれよという間に弱り、あっさりと死んでしまった。
あれほど好き合って一緒になった人だったのに、動かなくなった骨と皮ばかりになっていた妻の身体を見て始めに思ったことは、「これで食い扶持がひとり減った」というものだった。それと同時に湧き起こる安堵の気持ちに、自分はいつの間に人の心を失ってしまったのかと愕然とせざるを得なかった。
このままでは駄目だ。頭の悪い自分には具体的には分からなかったが、何か大切な物を失うことだけは分かった。
だから、教会裏の共同墓地に穴を掘って埋めるだけの簡素な葬式でマルクと一緒に妻を見送った後、母恋しくて泣くマルクを隣家の未亡人に預け、サイラスは街の外に出た。
頭を下げて、何とか仕事を回してもらえるようお願いしてみよう。矜持など、もうとうに捨てた。残っていたのは、矜持ですらないちっぽけな意地だけだ。
頭を下げてまでして仕事をもらうのか。横の若造に、心の中で馬鹿にされたくない、そんなくだらない思いの所為で、大切な妻を失った。このままだと、きっとマルクも失ってしまう。
農家に赴くと、丁度その若造が野菜を受け取っているところだった。ヘラヘラと笑っているのが腹立たしかったが、サイラスは覚悟を決めてきた。馬鹿にされて切れて、それで腹が膨れるのか。
サイラスは、農家の主人の元まで行き、床に手をついてこれまでの態度について謝罪した。卑怯だとは思ったが、妻を亡くしたこと、これからひとりでマルクを育てていかないといけないことを説明し、それでも渋る主人の足に縋った。
すると、それをそれまで黙って見ていた若造が、何を思ったのか提案してきた。若造と一緒に運び売れば、価格は同一になる。それで様子をみないか、と。
サイラスは、これまで散々見下し憎んでいた若造が、自分がサイラスの仕事を奪ってしまったと罪悪感を抱いていたことを、この時初めて知った。
若造の名はニールと言った。ニールの言葉に、ようやく農家の主人も頷き、サイラスは涙ぐみながら、主人とニールに繰り返し礼を言った。
野菜を背中の大籠に背負い、サイラスとニールは都へと向かった。
その目に飛び込んできたのは、あちらこちらから上がる火の手に、悍ましい程に黒々とした黒煙だった。
一体何事かと都へ急いだが、街をぐるっと囲む壁の周りには、どう考えても人ではない者共で形成された軍が取り囲んでいる。
見ると、人間は男女子供別に仕分けられ、捕まっていた。
見る限り魔族の襲撃があった様だが、人間を殺すつもりはない様だ。
「マルク……!」
何とかして中に入り、マルクの無事を確認したかった。折角、折角これからだったというのに。これから、心を入れ替えて頑張ろうと思っていたのに。
すると、草むらに隠れて逃げてくるひとりの男が視界に入った。急ぎ駆け寄り声を掛けると、男は腕にも顔にも酷い火傷を負っていた。
男は、貧民街に程近い場所にある宿屋に宿泊している旅人だった。男の話によると、騒動の発端は貧民街から上がった火の手だったらしい。
貧民街は家屋が密集し、火が燃え移りやすい。その為、地域の住人も消火活動に駆り出された。男はこの街の人間ではなかった為、面倒事はごめんだと逃げることにした。万が一飛び火し、逃げ遅れるなどごめんだからだ。
ふと貧民街の方を見ると、大勢の獣の群れが家屋の上を飛び回っているのが見えた。手には松明らしき物を持って。
これは付け火だ、しかも魔族によるものだと瞬時に悟った男は、このままここにグズグスしていては焼け死ぬか奴隷として一生を過ごすことになる、と急ぎ外へと向かった。
貧民街に隣接する城壁は、その治安の悪さと地域の重要度の低さから、軍の警戒が最も薄い場所だった。そして、そこを狙われたのだ。
「どこの街も、大抵貧民街から魔族に侵入されたと聞く。上には報告が行ってないのか、手が回らなかったのか……」
男はそう言うと、お前達も早く逃げろとサイラス達に告げ、立ち去った。
貧民街がある辺りの上空は、黒煙と白煙に下から噴き上げる炎が反射し、まるでそこだけが夕方の様に見えた。
為す術もなく立ち尽くしていると、不思議な形をした影が横切って行った。驚き見上げると、それは一匹の竜だった。それが、王宮の天辺に止まったと思うと。
あり得ない量の業火を吐き、まだ燃えていなかった場所も全てを炎で包んでいったのだった。
◇
あれから、ニールと助け合いながら行動する内に、生き残った人間と群れる様になり、反乱組織に組み込まれることになった。
それまで、色々な出来事があった。真っ直ぐな目をしていたニールは、徐々にその目の輝きを失っていった。
元々、半分タガが外れていた様なものだったサイラスが堕ちるところまで堕ちるのは、簡単だった。ニールも、そんなサイラスにつられたのだろう。かつての面影がない程に、歪んでいった。
サイラスとニールに共通するのは、激しい怒りと恨みだ。
魔族の奴らが、職を奪い、妻を奪い、あの優しかったニールから良心を奪い、サイラスの人の心も奪っていった。
何の罪もないマルクを殺したあいつらには、殺されても文句は言わせない。奴らがやった様に、サイラスも奴らから大切な人を奪うのだ。
だから、誓おう。自分が死ぬその直前まで、目に入った魔族は全て排除し続けると。きっとそれが、マルクへの最大の餞になるから。
次話は水曜日に投稿します!




