ハンとカイネ
半ば夢の中に漂っている気分でアンリの首に縋り付いていたハンが正気に戻ったのは、赤壁に掘られた住居の中に寝かされて暫く経ってからだった。
「ハン、大丈夫か?」
「あれ……? ここは……」
低い男の声がした方向を向くと、カイネが真面目な表情でこちらを見ているではないか。
「カイネ? え? 何で君が?」
「ハン、貴方はアンリに連れて来られたんだ。覚えていないか?」
何となく覚えてはいるが、アンリに対する敬愛の気持ちに満ち溢れて無我夢中だった為、自分がどこにいるかなどどうでもよかったのだ。
頭を動かし、洞窟の中に作られたと思われる広い部屋に寝かされていることを知った。
「ここってもしや……イテテ!」
起き上がろうとした瞬間、右足上部がズキズキと激しい痛みを訴え始める。アンリを見ている間は、痛みなど一切感じなかった。あれは、形容し難い感情だった。男に惚れたなど、悪夢だと思いたい。だが、ハンの中にまだ残るアンリに対する気持ちは、幸福感に満ちたものだ。
だから余計に、恐ろしかった。
カイネがハンの横に膝を付くと、ハンの背中を支えて寝かせる。起きた勢いで剥がれた薄手の綿布団を肩まで上げると、ポン、と安心させる様にハンの肩を叩いた。
「傷が深い。いきなり動くと開くから、まだゆっくり休んでおいた方がいい」
「開くぞって、え⁉」
サイラスに横殴りに斬りつけられたそこは、意外なことに怪我人の取り扱いに慣れている様子のニアがさっと止血してくれ、比較的すぐに出血は収まった。だが傷は深く、ズキズキとそこに心臓があるかの様に激しく痛み、ひと晩寝ることすらハンに許してはくれなかった。
お陰で体力はごっそりと削られ、ヒースと再会した時は精神的にも限界ギリギリの状態に陥っていた。
アンリの言うことが正しいのなら、ヒースはその強い魔力の所為で、他人の苦しみや悲しみなどの強い負の感情に引っ張られやすい。あの時、ハンは正にその状態で、混乱するな、落ち着けと自分に言い聞かせても言うことを聞かない心が暴走した結果、ヒースまで巻き込んでしまった。
人よりも長く生きているというのにこの体たらくで、自分の情けなさに反吐が出そうだった。
だが、アンリの、あれは魔力なのだろう。不可思議な吸引力で激しく惹きつけられた瞬間、悲しみも痛みも全てが瞬時に消え去った。「崇拝」だと言っていたが、崇拝どころではない。あれは、全てを持っていく、恐ろしい力だった。
自分の足がやけにスースーするなと思ったら、怪我をした方のズボンの足が根本から切られている。頭を少し上げると、こびりついていた固まった血は綺麗に拭き取られ、清潔な包帯で患部が巻かれていた。
「……カイネが縫合してくれたんだな。ありがとう」
アンリとヒースの会話で、カイネが縫合出来ると言っていた記憶があった。アンリの魔法の影響を受けている間に、傷の手当から何から全て済ませてくれたのだろう。
ハンが謝辞を述べると、カイネがフッと笑った。笑顔になると、途端に柔らかい印象を与える。最初に会った時とは違い髪が短くなったからか、以前の様な女っぽさは鳴りを潜めていた。
「貴方なら問題はない。敵意がないことは以前会った時に分かっているし、それに集落の数名は貴方の顔を覚えていたからな」
顔を覚えていたということは、ここに連れてくるまでの間に、獣人達の間でハンを受け入れるかどうかの話が為されたのだろう。つまり、アンリにメロメロになっていたあの姿を見られていることになる。……まあ、あれについては忘れよう、とハンは思った。
「そうか……よく覚えててくれたな。最後にここに来たのは、カイネが生まれる前の話なんだがな」
遥か昔に、この集落に行商人として幾度か訪れたことがあった。ハンが住んでいた街を出た後で、まだ街が魔族に襲われる前迄の間の話だ。人間の国と魔族の国の境界線に住まう彼らを通し、商売をすると同時に種族間の橋渡しが出来ないか、そう考え始めた時期でもあった。
今でも捨てられないその思いが、今回の騒動を招いたのか。人間達の争いを考えると、心が痛む。だが、獣人族の方はこうして明らかに部外者であるハンを受け入れてくれている。そう考えると、始めに奪われた人間側の恨みが、ハンが考えていた以上に深かったのだろう。
ハンとて、襲撃で初恋の人を亡くした。だが、血縁である弟のクロは、生き延びた。街を離れて大分経ってしまっていたからか、街を訪れる度に、自分ひとりが取り残されている様な違和感を覚えたのは事実だ。周りの人間と自分の時の進み方が違うことに加え、離れている期間に状況は刻一刻と変わっていく。
だからかもしれない。ハンが覚えた恨みと、ヨハン隊に限らずナスコ班の者達が抱えていた恨みは、その深さが全く異なったのだ。
「それは、これまでの貴方の行動によるところが大きかったからだろう。決めたのは僕じゃない、父だからな」
「父……ってことは、確かティアン、だったか」
時折、族長である父親と共に商談の場に現れたのを覚えている。優しそうな顔の獣人な記憶があったが、カイネとは似ていない。
カイネは、こっくりと深く頷いた。
「ザハリがかなり肩を持ってくれたお陰もある」
「ザハリ……あいつ、元気にしてるのか?」
「ああ。とても楽しそうにやっている」
カイネの言葉に、ハンはくはっと笑ってしまった。
「あいつは……本当に自由だなあ」
「確かにそうだな」
カイネは生真面目な表情で賛同する。半ば拐われたも同然の獣人側も同意見なのだから、さすがはザハリと言うしかなかった。
同じエルフの血が入っていても、ハンとザハリではその生き方からしてが全く違う。ハンは人との繋がりを断ち切ることが出来ず、うじうじとすぐに悩む傾向にある。
反対に、ザハリはその場その場を刹那的に生きていた。ハンよりもエルフの血が濃いからか、始めに会った時から最後に会った昨年まで、殆ど外見に変化はない。ハンが人の倍の長さを生きるとしたら、ザハリはそのハンの倍近い様だ。
関わり合いになったところで、どうせ先に逝かれる。それを悟っているからか、職業である鍛冶屋以外については、ザハリは来る者拒まず去る者追わずの方針を貫いている様に見えた。
そこまで達観出来れば楽なのかもしれない。ザハリを見て、幾度となく思った記憶が蘇る。だが、やはりそれはハンには無理だった。そんな器用な生き方が出来ていたら、今頃苦労はしていないのだから。
ふと、この場にいて然るべき人物がどこにもいないことに気が付いた。
「カイネ、ニアは? ええと、妖精族の赤い髪をした女の子。一緒に来なかったか?」
ハンが尋ねると、カイネが笑顔になった。
「彼女がヒースの想い人なんだな。想像していたのとは違ったが、優しそうな人でよかった」
「はは……少し変わった子ではあるけど、いい子だよ」
ハンにはいまいち読めない子だったが、ヒースが好きならいい人なのだろう。ヒースには、人の本性を見抜く目があると信じているハンにとって、ヒースがいいと言えばいいのだ。
「そう、そのニアだが、暫くまともに風呂も入れていないし非常に疲れた様子だったので、集落の女性に面倒を任せた。だから安心してくれ」
「ニアが大人しく言うことを聞いたのか?」
アンリについていくことすら抵抗していたのに、呑気に風呂に入ることを素直に受け入れたとは思い難い。すると、カイネが悪戯っ子の様な表情で言った。
「まあ、そこはアンリの出番だ」
「ああ……」
無理矢理言うことを聞かせたのだ。可哀想に、とハンは心からニアに同情したのだった。
次話は明日…投稿予定かもです。




