とりあえずおまじない
ヒースがニアの目を覗き込むと、ニアの目が揺らいだ。
「ニア、泣いた跡がある」
ヒースがニアの頬についた砂埃の筋に指で触れると、ニアの瞳にじわじわと涙が浮かんできたではないか。
「ニア!?」
「ご、ごめんヒース、こんなんじゃ情けないよね」
ニアがそう言って顔を背けようとしたので、ヒースは急いで言った。
「おまじない! おまじないするから!」
「え? ちょっとヒース待っ」
こういうことをすると、ジオ辺りがギャーギャー言うのは分かっていたが、泣いているニアには一にも二にもおまじないだ。今までこれで泣き止まなかったことはないし、それに純粋にただキスしたい。
ヒースは、ニアを抱き締めたまま顔を斜めにしてニアの唇にキスをした。ふに、と柔らかい感触が、堪らなくいい。
が、一切反応がないので薄っすらと目を開けてみると、ニアは目を大きく開けて顔を真っ赤にしているじゃないか。
ヒースは渋々顔を離すと、ニアに尋ねた。
「大丈夫?」
「だ、だ、だ……」
「顔赤いよ」
「そ、そ、それはヒースが……っ」
真っ赤になっているということは、ヒースとのキスに少なからず照れているということか。嫌がられていたら嫌だが、照れているならまずまずなんじゃないか。
ヒースは、念の為聞いてみることにした。
「おまじない、嫌だったか?」
「あっそっそうかっ! これおまじないだからっ! あ、あはははっ!」
「キスだよ」
「ブッ!」
ニアが吹いた。袖で口を拭っている姿も、小動物みたいで可愛らしい。
「キスすれば涙が止まるから」
「えっ! いや、そうなんだけどね! だけどやっぱり突然キスはっ」
「嫌だった?」
そして同じ質問を繰り返す。嫌だったかよかったかを聞きたいのに、ニアはちっとも答えてくれないから。
「俺におまじないのキスされるのは、嫌か?」
腕の中にいるニアに、懇願する様に尋ねる。真っ赤になっていたニアが、更に真っ赤になって俯いた。
「い、嫌とかそういうんじゃなくて、びっくりするっていうか、キスなんてしたことなかったし、その」
「じゃあ俺が初めて?」
「ブッ……!」
「家族とかは数に入れないでよ」
ヒースがニアの顔を覗き込むと、暫く視線を逸していたニアが、観念した様にヒースの目を捉えた。
「……か、家族以外はヒースが初めてよ」
「じゃあ俺でおしまいにしてよ」
「ゲホッ!」
ニアが咳き込んでしまったので、ヒースはニアの背中を優しく撫でた。
「言ったでしょ? 好きだって」
「……う、うん」
「返事は急がなくていいけど、他の人にキスしたりするのはやめて欲しい」
「しっしないってば! する訳ないでしょ!」
ニアが蒸気が出てきそうな程真っ赤になって反論したので、ヒースは安心して笑顔になって頷いた。
「よかった」
「そ、そう、よかったわね、あは、あはははっ」
「キス、いいだろ? じゃあもう一回……」
ヒースが顔を再び近付けると、ニアがヒースの口を手のひらで押さえて押し返した。
「ヒース! 待って待って、今それどころじゃないんだってば!」
「何だったっけ」
ニアに会ったら色んなものがどこかに行ってしまった。何だったっけ、とヒースは首を傾げる。
「話をさせて! 事情説明! それでなんでヒースがアンリ様と一緒なのかも、教えてっ」
アンリ様。それを言われてようやく、ヒースは少し離れたところで「近寄るな」と言われたが為にこちらに近づいてこないアンリがまだそこにいることを思い出した。
アンリを振り返ると、アンリはまだ裾を捲くったままにっこりとして立っている。相変わらず謎な人だ。ヒースはニアに向き直る。
「……いることを忘れてた」
「アンリ様の存在を忘れられるって、ある意味凄いよヒース」
「どういうこと?」
「聞いてないの? その前に、何も感じなかった?」
「何が?」
ヒースとニアは顔を見合わせると、もう一度アンリを見た。
「……『様』? どういうこと?」
妖精界のことは正直殆ど知らないに等しいが、だが『様』を使う相手は少なくとも自分よりは目上の者にあたる位、世間の常識をあまり知らないヒースだとて知っている。
ニアが、ヒースを信じられないといった表情で見上げた。
「そういえば、さっきあのアンリ様に抱きついてここまで来たけど、身体は何ともないの?」
「身体って、意味が分かんないんだけど」
アンリは毒の研究をしているから、それに関する何かだろうか。
「……本当に分からないの?」
「うん、何が?」
獣人達と話す時とは違い、ニアからは色々と学ぶことの方が多い。それに、ヒースがあれこれ考えながら聞き出さなくても、ニアの方が知識が豊富だから様々なことを教えてくれる。
ヒースは、そこでハッと気付いてしまった。もしや、ニアはそんなヒースのことを面倒くさいとか思っていやしないだろうか? ヒースが時折獣人族と話していて感じる時がある様に。
「ニア、俺のこと馬鹿だと思ってない? 大丈夫? 面倒くさくない?」
急に不安になってそう尋ねると、一瞬きょとんとしたニアが破顔した。
「ヒースは馬鹿じゃないでしょ。突拍子もないことを時折やるけど、何だって一所懸命で、それで面倒だと思ったこともないよ」
「本当?」
「うん、どうしてそう思ったのかは分からないけど、大丈夫だから安心して」
「よかった」
とりあえず馬鹿にはされていないらしい。ただでさえニアの方が年上のお姉さんだから、なるべく子供っぽくは見られたくなかったが、知らないことが多すぎて質問ばかりしていると、どうしても子供っぽくなってしまう気がするのだ。
「とりあえず話を戻していい?」
「うん」
そういえば、アンリについての話の途中だった。
ニアは、ヒースの腕の横からひょっこりと顔を覗かせると、離れた所で待機しているアンリに声を張り上げて尋ねる。
「アンリ様! ヒースにはアンリ様のことはお話しされていないんですかー!?」
その問いに、アンリはよく聞こえる様に両手で口を囲って返事をした。
「今朝会ったばっかりだから、まだ何もー!」
「え? じゃあ私から話していいですかー!?」
「いいよ―!」
もっと近付いて話せばいいのに、とヒースは思ったが、出来ない理由があるんだろう。とりあえず状況が掴めないので、ヒースは待った。
待っている間に、大岩の影に投げ出された足の人物がこちらを覗き込んで来たのが見えた。やっぱりハンだ。その投げ出された足の付け根付近に見えたのは、――血だった。
「ハン!?」
ヒースはニアを見ると、慌て始める。
「ニア、ハンは怪我をしてるのか!?」
余裕のなくなった表情と声色で尋ねたヒースに、ニアは重々しく頷いた。
「足を怪我して、だから立てないの」
「どうして!?」
「それを今から説明するから」
「アンリも知り合いなんだろ? 俺には何が何だかさっぱり分からないよ」
ハンが怪我をするなんて、余程のことがあったに違いない。
「……襲撃!?」
獣人族は誰もここまではやって来なかっただろうことは、昨日のレイスの件でよく分かっている。ということは、魔物の襲撃があったのだろうか? 砂漠にはよく出るらしいので、もしかしたらここまで来てしまったのでは。
ヒースの焦りに、ニアがヒースに腕を回すと、とんとん、と背中を叩いた。途端、いつの間にかガチガチに力の入っていた身体の筋肉が緩む。
「ヒース、落ち着いて」
「……あ」
ふう、と息を吐くと、いつの間にか釘付けになっていたハンの血のついた足からわざと視線を逸した。
「ごめん」
「ううん。――アンリ様、そこで待ってて下さーい!」
ニアがアンリにそう言うと、ヒースの背中を押してハンの元へと連れて行ったのだった。
次話ですが、今週はムーンライトで掲載中のBLの追い込みと週末のハロウィンに向けての短編準備の為お休みします。
一週間後の月曜日に次話投稿します!
よろしくお願いします!




