空を行く
アンリが支える腕の力は細い身体なのに力強く、魔力を持った妖精族の男性は見た目に反して相当内に秘めた力があるのだとヒースは知った。
「カイネに崖の方って言われたんだけど、どの辺かな?」
アンリが手を離したら、ヒースは腕の力だけでは空中でアンリにしがみついていられる自信はない。男と正面から密着しているのはどうかと思うが、落ちるのは嫌なので、ヒースは必死でしがみついていた。当然のことながら、手を離すことが出来ない。ヒースは顔を進行方向に少しだけ向け、方向を確認しつつ言った。
「あそこの、崖の中腹に少し引っ込んだ所があるだろ? あそこ」
「んー? どこだろう?」
アンリは、場所を確認する為だろう、どんどん上へ上と登ってしまい、今やふたりは完全に空の真ん中に浮かんでいた。
「指差してよ」
「無理言うなよ! 無理! 落ちる!」
「あはは、君って結構怖がりなんだねえ」
「手を離したら落ちるのが分かってて、怖くない訳がないだろ!」
ヒースが半べそをかきながら訴えると、アンリがあははと笑った。
「飛べないってそんな恐怖と向き合わないといけないんだねえ。俺、妖精でよかったって今この瞬間思ったよ」
アンリの言葉にさすがにイラッとしたが、今現在ヒースの生死はこの男の手に委ねられている。まだ殆ど知らないと言っていいこの細い男は、ヒースにとって信用するにはまだ早かった。
「谷があるだろ?」
とりあえず、なんとか口頭だけで説明するしかない。ヒースはこわごわと振り返ると、今いる場所から見える景色で説明を始めた。崖の頂上よりも遥か上空から見下ろす形になっているので、アンリが分からなかったのも見て理解する。崖の中腹なんて、見えない。
「谷、あるねえ」
アンリが呑気に答える。
「右と左は分かるだろ?」
「君さ、俺のこと馬鹿にしてない?」
「いや、念の為。最近、会話してても通じないことが多々あったから」
ヒースがそう言うと、アンリがあははと笑った。
「ああ、獣人達でしょ? 本当素朴というか単純というか、なのに妙にプライド高いし。こっちの意図は一切読まないし、笑えるよねえ」
「アンリもそう思った?」
意外だった。アンリこそ、人の話を聞かないというか理解しようとしない種類の人かと、なんとなく思っていたから。
ヒースの言葉に、アンリが柔和な笑みを浮かべる。ガリガリに痩せ頬もこけ気味でぱっと見はちょっと不気味だが、笑うとこちらもつい笑顔になってしまいそうな不思議な雰囲気を持っていた。
「人間と妖精族は、その点では考えが似てるのかねえ。でも俺は獣人族のそういった純朴なところが居心地がよくていいけどな」
「まあ、皆素直だよね」
好き嫌いもはっきりしているし、一旦打ち解けてしまえば、それまでのことが嘘だったかの様に全力で受け入れる。人間の様に表の顔と裏の顔があるわけでもなく、あまりにも意思表示が真っ直ぐな為、始めは信じられなかった。だけど、やっぱり獣人達はそのまま目に見える通りの人達だった。よくも悪くも。
「まあいいや。で?」
この話はとりあえずおしまいらしい。ヒースとて急いで皆の元に向かいたいのは確かだったので、異論はなかった。
「右側の崖の、谷の出口の所。そこの中腹に、切れ込みがあるんだ。そこだよ」
「了解、じゃあちょっと下がるね」
アンリは、そう言うと羽根の動きをぱたりと止めた。
ヒースは、嫌な予感がした。これはあれだ。絶対あれだ。
「――っうあああああああ!!」
やっぱりそうだった。
ヒースとアンリは、足から自由落下していた。風が物凄い勢いで足元から吹き上がり、ヒースの髪の毛が逆さに立つ。アンリの細く長く美しい薄い金髪も逆立っているが、日の光に当たってキラキラ輝いているのが腹が立った。
当然のことながら、胃の中身が逆流を始める。
「は、吐く! 吐く! うおおおえええっ!」
ヒースは口を閉じ、口に少し溜まったものを飲み込もうと必死になった。胃酸混じりなのか、喉が痛い。
「え、汚いなあ」
アンリは嫌そうな表情を浮かべると、羽根の向きを変えて空気の抵抗を受ける。そのお陰で、物凄い勢いで地上に落ちていっていた勢いが収まると、飛び出そうになっていたヒースの胃が定位置に戻った気がした。
「苦手なら最初から言ってよ」
ヒースは残っていた吐瀉物をなんとか呑み込むと、涙目になりながら反論した。
「こんな真っ直ぐに落ちるなんて思ってなかったんだよ!」
「だってねえ、こんなに上に登ってきちゃったし」
「登る必要なかったでしょ!? ああもう、口の中が気持ち悪い!」
そしてやっぱり喉がヒリヒリする。ここのところ、毎日の様に吐き気に襲われていないだろうか。
「でんぐり返しするといいって聞くよ」
「は?」
アンリがにっこりと笑いながら、徐々に降りながら崖に近付いていく。それだって胃のむかむかを呼び起こしたが、さっきのよりは遥かにマシだ。まだ抑えていられる。
「妖精族の子供でもさ、酔う子がいるんだよ。そういう子には、でんぐり返しさせるんだ」
「それ、効果あるのか?」
「あるんじゃない? 知らないけど」
知らないのか。この人は、どうも掴みどころのない人だ。ヴォルグの様にいきなり襲いかかったりはしてこないだけマシなのだろうが、全く読めない。
飛んでいるとゆっくりと感じるが、近付いていく速度は体感よりも早い。崖の頂上まであと少し、というところで、真っ青な鳥がこちらに向かって一直線に飛んできた。
「――カル!?」
ヒースと共にいるクリフを獲物扱いして、ヒースに幻覚の様なものを見せた魔鳥だ。青い身体に赤いトサカ。目は魔物の特徴の赤だ。それが、飛んでいるアンリの横を並走し始めた。
「へえ、君カルっていうの? こんにちはー」
アンリは、呑気にカルに挨拶をしている。この人、大丈夫だろうか。ああ、でもニアは鹿だった時のクリフと会話をしていたから、もしかしたらこの人も会話が出来たりするのだろうか。
ヒースが様子を窺っていると。
「崖の上? うん、分かったよ」
「やっぱり会話出来るの?」
「なに、やっぱりって」
アンリがにこにこしたまま問い返した。
「いや、一緒に過ごした妖精族の子も、鹿と喋ってたから」
「じゃあその子かなあ? 妖精族の子が崖の上にいるって」
「え!?」
ヒースはぐりんと振り返り、凸凹な頂上を探す。一見、人影は見当たらない様だ。と、以前カイネと会話をした大きな岩陰に、人影らしきものを発見した。
「アンリ! あそこだ!」
ヒースが片手を離して指を差す。
「おっと、落ちるよ」
アンリがずり落ちそうなヒースを抱え直したが、ヒースはそれどころではなかった。ニアがいるのだから。
「ニア、なんだってあんな所に!? それに何でカルがそんなことを知らせに!?」
シーゼルが帰ってこない理由と、何らかの関係があるのだろうか。不安がヒースを襲う。
と、アンリが静かな声で尋ねた。
「今、ニアって言った?」
「え? うん、ニア。俺の好きな子だよ」
一応だけど、牽制のつもりで言っておいた。まだ恋人ではないけど、というか多分弟扱いされていてまだ当分はそんな段階に行けそうにないけど、それでもヒースが狙っていることだけは事前に言っておいて損はない。
「赤い髪の?」
「え、知ってるの?」
すると、アンリは優しげな笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「うん、よおく知ってるよ」
「え……」
「へえ……君はニアが好きなんだ、いい子だもんねえ」
そう笑うアンリに、ヒースは笑い返すことが出来なかった。
次話は明日投稿予定です。




