サナ
翌朝、カイネはヴォルグの膝の上で目を覚ました。
「えっ?」
ヴォルグは胡座をかいており、更に腕組みをしながら厳しい表情のまま寝ている。起こさぬ様にそっと膝枕から抜け出そうと身動きした途端、カイネのこめかみがズキッと痛んだ。
「つ……っ!」
しばらく床に肘をついた体勢で耐えていたカイネだったが、痛みが治まったのを見計らい、今度は急ではなくゆっくりとした動きでずり這いで後ろに下がる。
目の前には、穏やかな息をしながら横たわっているレイス。背後には、壁にもたれかかって毛布に包まっているヒースとリオがいた。
カイネが時折ズキズキするこめかみに耐えつつ立ち上がると、家の奥で物音がする。カイネがそちらへ移動すると、奥の台所からサナが出て来たところだった。
「あ、カイネ様! 大丈夫ですか?」
「サナ、あの、僕は一体……?」
カイネがふらふらしながらサナに尋ねると、サナはカイネの手を引いて隅に置いてある小さな椅子に座らせた。
「今、水を持ってきますから」
「ああ、すまない……」
サナが入れてくれた白湯入りの器に口を付けると、カイネはそれを一気に飲み干した。それを見下ろしていたサナが、カイネに向かって深々とお辞儀をする。
「カイネ様、昨夜は本当にありがとうございました……!」
カイネは慌ててサナの腕に触れ、サナを起き上がらせようとした。
「やめてくれサナ。僕は族長の息子なのに、大して何も出来てやしない。昨日はたまたま僕が役に立てただけで」
「カイネ様、カイネ様はご立派ですよ!」
サナは、笑顔でカイネに話し続ける。
「それに、ヴォルグ様もカイネ様のお陰で主人は助かったと、カイネ様が煙を吸われて寝てしまっている時に仰ってましたよ!」
サナの言葉に、カイネはぎょっとした顔をする。
「ヴォルグが……?」
「はい、なので感謝する様にと」
「……あいつ、昨日から何か様子がおかしいな……」
カイネが独り言をいうと、サナはリオと一緒にグースカ寝ているヒースを微笑ましげに見た。
「私にはヴォルグ様が変かどうかはよく分かりませんけど、あの人間の男の子とも随分と打ち解けている様子でしたよ」
「ヒースと? まあ確かに、ここに来る辺りから二人で何やら話し込んでいるとは思っていたが……」
ヒースは、口を少し開けて幸せそうに寝ている。と、リオが寝返りを打ってヒースの顔面に肘を落とした。ヒースはビクッと反応したが、しばらくするとそのままスーッという寝息が再び聞こえ始める。
「……あれでよく寝ていられるな」
カイネが呆れて言うと、サナがくすくすと笑いながらカイネの手の器を受け取った。
「不思議な人間ですね。アイリーン様も種族など気にされないお方でしたけど、それでも一族に馴染むにはかなり苦労されてましたのに」
「母が……そうだったのか?」
カイネが尋ねると、サナが意外そうに言った。
「カイネ様はご存知なかったのですか?」
カイネはこくりと頷く。
「父さんに母のことを尋ねると、今でも涙ぐんでしまうのでな、どうも聞き辛くて」
すると、サナがふふ、と可笑しそうに笑った。
「当時は私もまだ子供でしたけど、ティアン様の入れ込み具合といったらそれはもう凄かったですよ。人間なんてと反対する者は片っ端から力ずくで黙らせてしまって。それをアイリーン様が嗜められてティアン様がしょんぼりするのが、私達子供の間では可笑しくて可笑しくて」
「父さんが? 母は……そうか、そういう感じだったんだな……」
カイネの目が柔らかく細められる。サナは、二杯目の白湯をカイネに手渡した。
「母の記憶はぼんやりとしたものしか残っていないが……か弱い印象しかなかったな」
「ティアン様はいつも尻に敷かれてましたよ。しかも、それを喜んでいる風でした」
カイネの目が見開かれる。
「え? 父さんが?」
「ええ」
サナが頷く。
「ティアン様が変わってしまわれたのは、アイネ様がお腹にいる頃からでしたね。アイリーン様の具合が良くなく、起き上がれる日が減るにつれて、段々と笑わなく、アイリーン様を外敵から守るかの様に頑なになってしまわれて」
「え? 昔からああじゃなかったのか?」
「勿論ですとも」
サナが微笑むと、カイネは信じられないといった様子でサナを見つめ返した。
「アイリーン様がお亡くなりになられてから暫くは、すっかり覇気がなくなられておりました。カイネ様が成長するにつれて少しずつ立ち直られている様には見えましたが、カイネ様がアイリーン様に似て来られるのを見るティアン様のお姿は、何というか……現実から目を背けている様に、私には見えました」
サナは、静かな口調でそう言った。
「サナ……」
「カイネ様に対するティアン様の態度は、具合が悪くなられてからのアイリーン様に対する態度と同じ様に思えるのです」
カイネは、ただ唖然とサナを見上げるだけで、何も言わない。
「また失ったらどうしよう、だったら閉じ込めてしまえと。……カイネ様は、独り立ちしようと頑張っていらっしゃるのに、ティアン様もヴォルグ様も、まるで弱い生き物を守ろうとするかの様に見える、と主人がぼやいておりました」
カイネは、レイスのいる方向を見た。
「レイスが……?」
サナの微笑みは只々優しいものだった。
「カイネ様が窮屈で苦しそうだ、と」
その言葉に、カイネは視線を膝の上の手の中にある器に落とした。
「窮屈……か。皆にも、僕のことはそう見えてるんだな……」
「ですが、カイネ様?」
「ん?」
カイネが再び顔を上げると、サナが変わらず微笑みながら言った。
「カイネ様は、前お見かけした時よりも随分と変わられましたよ」
「え? 僕が?」
カイネはそう尋ねると、自分の肩までしかなくなった髪を触った。
「これの所為か?」
「ふふ、違いますよ。なんだか生き生きとしている様に見えたんです」
「生き生き……?」
カイネは、不思議そうに首を傾げる。頷いたサナは、再びヒースと寝ている我が子の方に目を向けた。
「あの人間のお陰でしょうか? 不思議な雰囲気を持つ子ですものね。あのリオが一瞬で懐くなんて、驚きましたし」
サナがそう言うと、カイネはハハ、と笑った。
「ヒースはな、敵意が全くないんだ。始めから警戒心なんか全くなくて、こんなんでよくこれまで生きてこれたと思ったものだ」
「だからかもしれませんね」
「……え?」
サナが、子を見守る母親の眼差しで二人の方を眺めながら、言った。
「だから、これまでも誰かがあの子の傍にいて守っていたのではないでしょうかね。近付く者は、リオやカイネ様や、ヴォルグ様だってそうですけど、あっという間に皆の様に気を許してしまう。だから争いに巻き込まれなかったのでは」
「あいつは基本呑気だからなあ」
カイネもふふ、と笑うと、器に入っていた白湯をくいっと飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「――うん、大分マシになった様だ」
「それはよかったです。食事も用意しますので、まだ横になられていても大丈夫ですよ」
「え? いやしかし」
「あの人間の子がいなくなると、リオが悲しみそうなので」
サナが小さく笑うと、カイネは「ああ」という納得の表情で頷いた。
「だけど、カイネ様」
「ん?」
急に低くなったサナの声に、カイネが不審そうな表情に変わる。
「警戒心がない故に、悪意を持って近付く者には抵抗がないのではないか、と少し不安なものを感じました」
「悪意……?」
サナは真剣な表情で頷いた。
「どこにでも、必ず一定数はいるのです。理解出来ない闇を持っている者が」
「……どうしてそんなことを思った?」
カイネのその問いに、サナは静かに答えた。
「私は母親ですから」
その言葉に、カイネはただサナを見つめ返すことしか出来なかったのだった。
次話は明日書けたら投稿します。




