新たな教訓を得る
ヒースの語る些細な話を、リオは実に楽しそうに聞いていた。あまりにも楽しそうなので、ついつい自分の恋の話までしてしまうと、ヴォルグがじろりとヒースを睨みつけてきた。恋の話は、ヴォルグの前では禁句なのかもしれない。特に、横に恋い焦がれるが想いが叶わない相手が座っている場合は。
カイネは時折レイスの妻のサナと一緒にレイスの身体を拭き、ヒースはその汚れた手ぬぐいをリオと一緒に表で洗った。毒が染み出している汗だ。飲水とは絶対に混じらせてはならないと、二人が手ぬぐいを洗った水は、二人で集落の端までわざわざ捨てに行った。
カイネの家には戻るなと言われたのにこれはいいのか、とちょっと不思議に思ったが、中にはサナもいる。元々ヴォルグはカイネをどうこうしようという気はないし、ヒースの隣にはリオがいる。要は、カイネにもヒースにも、他の獣人が傍についていればいいのかもしれなかった。
何度目か水を捨てに来たその帰り、空を見上げるとそこには大きな月が浮かんでいた。もう、殆ど真円に近い。これからまだヨハン隊の魔族を殺したくてうずうずしている人達と話をしないとならないが、もうそこまで日数は残されてはいないということだ。なんとかして、また明日にでもここを抜け出して、今度はヨハン達の元へと行きたかった。
ただ、今度はヴォルグの許可がある。だから、こっそりと隠れて会いに行く必要はなくなった。
ヴォルグに運んでもらうとどうも酔ってしまうので、出来たらカイネに連れて行ってもらいたいものだが、今夜は全員レイスの元からは離れられない。毒が抜けるのに一日程度と言っていた記憶があるので、下手をすると明日の夜までここに留め置きされる可能性もあった。
ひとりで行く訳にも行かないし、ミスラにおんぶしてもらうのもさすがにどうかと思う。あとはヒースが知っている獣人はティアン位だが、ティアンはそこそこ喧嘩っ早い。万が一ヨハン隊の誰かが暴走してティアンに襲いかかったが最後、ティアンはそこにいる全員を殺しかねない。そして、ティアンにはその力があるとヒースは思っていた。
それに、そもそもあの人は読めなさ過ぎてヒースはちょっと苦手だった。
横を歩くリオは、眠そうに欠伸をしている。そういえば、もうとっくに夜中だ。子供だったら、起きていたら怒られる時間帯である。
「リオ、帰ったら寝たら?」
「やだ! 俺、父ちゃんの役に立ちたいもん!」
リオは一蹴する。確かに、集落の偉い人二人が自分の家に来て自分の父親を看病してくれているというのに、息子のリオが何もせず寝ている気にもなれないのだろう。だけど、よく考えたらヴォルグだって何もしていない。レイスが獣化した時の抑え役だが、今のところその徴候もないので、ヴォルグはヒースと一緒で、ただごはんを食べにきただけの状態だ。
それに、正直ヒースも眠かった。ニアと会ったことが昔のことの様に思える程、疲れ切っていた。日中にきっちりと鍛冶屋の仕事をこなしている所為もあるが、それよりもヴォルグだ。ヴォルグが人を荷物の様に抱えてぴょんぴょんやるものだから、あれで疲れが一気に出たに違いない。
吐き気は疲れを助長させる。今回ヒースが学んだことだった。
「俺も少し横になりたいし……」
ヒースがリオの説得を続けようとしたところ、レイスの家から男の怒声が聞こえてきた。ヒースとリオは顔を見合わせると、家の方に近付く。
玄関から中をそっと覗くと、ヴォルグが腕を獣化させて暴れるレイスを力任せに押さえつけているところだった。酔木に火を付けようとしているカイネの腕には、数本の血の線が出来ていた。そこそこ、深い傷だ。
途端、ヒースの目の前に、あの日の床に流れる血の筋がまざまざと現れた。斬られた勢いで飛び散った血に混じり、心臓に押し出されて傷口から血がビュッと飛び出ている。
「ああ……っ!」
ヒースの身体が硬直し、父とカイネの姿が重なる。分かってる、これは違う、違うんだ、なのにどうしても消えてくれない。
「ヒース! 戻ってきたか! 悪いがこれに火を点けるのを手伝ってくれ!」
カイネの声が聞こえるが、ヒースの足は動かない。手だけでなく、身体にも震えがきた。震えるな、これは違う、違うんだから。
そう思うのに、足がすくむ。
すると、小さな手がヒースの手を握った。
「ヒース、怖いのか? こんなに震えてるぞ!」
リオだった。リオが、グイッとヒースを引っ張って自分に向かせた。自然と、目線がカイネ腕に流れる血から逸らされる。
あの、胸を鷲掴みにされる様な気持ちが、和らいだ。
「……リオ」
「大丈夫か? 顔色が真っ白だぞ? ただでさえ元々白いのに」
小さな新しい友人が、心配そうにヒースを見上げている。
「ごめ……血を見るとどうしても……」
呂律もうまく回らない。自分がガクガク震えているのが分かった。何故だろう、母のことを忘れている時は血を見てもこんなことはなかったのに。母のことを少しずつ思い出していく度に、血を見ると身体が金縛りにあったかの様に動かなくなるようになってくる。
何かがおかしい。それは分かっているのに、その原因が分からないのがもどかしかった。
「ほら、屈めよヒース」
リオが偉そうに言うので、ヒースは素直にリオの前に膝をつく。すると、リオがヒースの首に手を回して抱きついた。
細っこい腕。身体もちっちゃいのに、ニアを思い出した。
「ほら、怖くない怖くない、俺が付いてるから!」
「……あは」
小さな、だけど芯が通ったリオの言葉に、心の強張りが解されていく。目尻を、涙が伝った。
「ありがと、リオ」
ようやく、震えない声が出た。
ヒースは顔を上げると、リオの肩を持って正面からリオを見た。
「もう大丈夫。あの匂いは危ないから、外にいて」
「本当に大丈夫か?」
「ああ。レイスに早くあげないとだから」
「?」
「後で説明する」
ヒースは立ち上がると、腕で涙をぐいっと拭い、カイネの元へ向かった。
「カイネ、悪いけどなるべくそれを見せないでくれないか」
ヒースが傷口を目を細めながら見て言うと、カイネはすぐに袖の中に傷口をしまった。見なければ大丈夫だということを、ヒースは学びつつあった。
「火種は」
「これを」
蝋燭立てを見てカイネが言う。蝋燭は大分縮んでおり、傷も相まってうまく火を付けられないらしかった。
「サナには、酔うから離れるように言ってあるんだ。まさかレイスが急に暴れるとは思わなくてな」
はは、とカイネが額に汗を浮かべながら笑う。半分獣化したヴォルグが、ギロリと二人を睨んだ。
「雑談はいい、早くしろ……!」
「そうだな、急ぐ」
遠慮なく暴れる仲間を、傷つけることなく押さえつけるのには神経を使うのだろう。ヴォルグの顔は真剣そのものだった。
ヒースは蝋燭を持ち、パイプも持つと、両方を傾けて火を点けた。
「いい? ふかすところまではやるけど、俺はレイスにはやらないからね」
「分かっている。集落の仲間でないお前にそこまで頼む程、僕達は落ちぶれてはいない」
このやり取りを聞いてヴォルグの腕がざわ、と毛羽立ったが、こればかりは出来ない。ヒースは火がついていい感じに燃えてきた火を消すと、パイプに口をつけて吸った。喉には入れず口の中に留め、それを出す。
パイプをカイネに渡すと、ヒースはヴォルグの視界を遮る様にして立った。
次話は明日書けたら投稿します。




