交渉開始
月明かりの下で、ヒースは、ニアの手を握った。ニアは何も言わず、意思の強そうな目でただ大きく頷き返してくれた。
ヒースには、それで十分だった。これでまた、頑張れる。
「……じゃあ、また」
「うん」
二人は暫し手を取り合ったまま見つめ合っていたが、やがてヒースの方から離した。一緒にいたいが、まだ一緒に連れて行くことは出来ない。あのミスラだったら受け入れてくれるとは思うが、ミスラの優しさに甘えてばかりではいられない。
ハンがヒース達に声を掛ける。
「じゃあ、次は直接来てくれ」
「分かった」
もう次はどの機会に行けるか分からない。カイラも到着した今、下手にカイネに手を出そうとする者も現れないだろう、という話になったのだ。
「必ず、満月よりも前に一度は来るから」
「……頼んだぞ、ヒース」
ハンの言葉に、ヒースは深く頷いてみせた。
カイネが、ぎこちない笑顔をカイラに見せて手を振った。そしてくるりと背を向けると、ヒースの前で屈む。
「ほら、乗れ。大分遅くなってしまったからな、ミスラが怒る」
「うん、そうだね。……帰ろう」
ヒースがカイネの背におぶさると、カイネは行きの時と同様に一気に加速する。後ろを振り返っている余裕など、一切与えてはくれなかった。
多分、カイネ自身が後ろ髪を引かれている。だから振り向かない様に、こうして全速力で走っているのだろう。
カイネが、崖の端まで来ると一気に跳躍した。
「うえっ」
行きよりも、落下速度が早い。しかもかなりの距離がある。
「あ! こらヒース! 僕に向かって吐くなよ!」
カイネが慌てて叫んだが、もうヒースには、返事をする余裕など残されてはいなかった。
◇
ダン! とそこそこな勢いで着地した先は、ザハリの鍛冶場だ。辺りはすでに暗くなっており、当然のことながらザハリはいない。
「ちょ、ちょっと待って……」
ヒースは岩壁に手を付けてしゃがみ込むと、更に頭も壁に付けて暫し耐えた。目の前がぐらんぐらんする。これは、完全に酔ってしまった様だ。
「ヒース、大丈夫か?」
カイネが若干呆れた風に声を掛けてきたが、ヒースはただ首を横に振ることしか出来ない。
「仕方ない、少し休めばいい」
「ん……」
空を飛んでも酔わない皆が羨ましい。一体どうやったら酔わなくなるのか、ニアにでも聞けばよかった。実験好きなニアなら、もしかしたら何か知っていたかもしれない。
次に会った時は、とりあえずキスをした後にでも聞こう、とヒースは思った。キスをしても、ニアはあわあわしただけで嫌がってはいなかった、と思う。ということは、きっと三度目をしても嫌がりはしない。多分。
ふうー、と深い息を吐き、胃もたれを何とか回復させるべく呼吸を整える。少し落ち着いてきたかな、そう思ったその時。
森へ続く細い通路の向こうが、何だか騒がしくなってきた。ガヤガヤという声だけでなく、怒号も聞こえる。すると、ひょっこりと来た時に見かけた男の子が顔を覗かせた。男の子は、ハッとした表情に変わると、背後へ向かって叫んだ。
「ヴォルグ様! カイネ様、こんな所にいたよ!」
「え? 一体どうしたんだヴィド」
カイネが男の子に声を掛ける。すると、ヴィドと呼ばれた男の子の後ろから、物凄い形相でヴォルグが飛び出してきた。
「カイネ! 今までどこに行ってたんだ!」
カイネは一瞬ビクッと反応したが、すぐに縮こまった身体をピシッと正すと、答えた。
「ここにいただけだ! 炉の様子を見てたんだ。僕が定期的に確認しているのは知ってるだろう?」
「炉……? あ、ああ、何だそうか」
怒り混じりだったヴォルグの雰囲気が、途端大人しいものに変わった。
ヒースから見えるカイネの背中。腰のあたりにあるカイネの拳はきつく握られており、手のひらに爪が食い込んで赤くなってしまっている。嘘がすぐバレてしまうカイネが、ヴォルグが怖くて仕方ないカイネが、懸命に耐えていた。
「ヒースが少々疲れていてな、体調が戻るのを待っていた」
さりげなく人の所為にしたカイネだが、まあこの際疑われない為にはいい言い訳だった様だ。何故なら、ヴォルグはヒースがそこにいることに今更ながらに気付いた様な素振りを見せると、鼻で笑ったからだ。
「情けない人間だ」
腹立つなあ、と思っても仕方のない程、馬鹿にし切った口調だった。だが、ヒースはヴォルグと喧嘩がしたい訳ではない。熱しやすく冷めやすいヴォルグと、何とか話し合いまで持っていかねばならないのだから。
「で、僕を探していたのか?」
カイネが、ヴォルグを見上げながら尋ねる。ヴォルグは大きく頷いた。
「レイスが怪我をした。消毒用の酒を探したが、酒瓶があり過ぎて分からなかった」
すると、カイネが納得した様に言った。
「ああ、ここのところザハリ用の酒をどんどん増やしていたからな」
「ザハリに聞いても分からんというし、それでお前を探していた」
「そうか。レイスはどんな具合なんだ?」
見ている内に、カイネの拳から段々と力が抜けていくのが分かった。頭の切り替えをしたんだろうな、と何となく思った。
それはヴォルグも同様なのだろう、先程までの激昂は鳴りを潜め、今は互いに冷静に報告をし合っている様にしか見えない。
「腕にかなり深い傷が出来た。縫合が必要だ。それもあってお前を探していた」
ヴォルグが言うと、カイネが頷いた。
「縫合か。分かった、すぐ行く」
ヒースはやっとこさ立ち上がり、ヨロヨロとカイネの元に向かっていたところだった。そんなヒースに向かって、カイネが済まなそうに言う。
「ヒース、悪いが先に行っている。お前は、具合が良くなったら戻ってくればいい」
「……ん、分かった」
カイネが走り去る。その後をついて行こうとしたヴォルグの服の裾を、ヒースはガッと掴んだ。
ヴォルグが、沸々と煮えたぎる油を思い起こさせる様な怒りを顔に浮かべ、ゆっくりと振り向いた。
「……何の用だ、人間」
ヒースは負けなかった。
「俺はヒースだよ」
「人間は人間だ」
「ヴォルグは獣人獣人って呼ばれたら返事するのか?」
ヒースは喧嘩を売っているつもりは一切ない。だが、この言い方はヴォルグの気に触った様だ。
「……殺されたいのか、人間」
「俺を殺したら、蒼鉱石の剣の完成が遅れるだけだよ」
ヴォルグのこめかみが、ビキキッと筋張った。怒ってる怒ってる、と思ったが、ここは乗り切るしかない。
「……俺に何の用だ、人間」
「ヒース」
更にこめかみの筋が立ちまくった。まあ随分と素直に表情筋に現れるものだ。
「……ヒース! これで満足か!? 一体何なんだ!」
すぐに折れるあたり、やはりミスラと同じチョロさを感じたが、勿論そんなことは絶対言わないし顔にも出さない。出した瞬間、多分獣化した手の爪で心臓をひと突きされる。
「怪我、してるんでしょ?」
ヒースがそう言うと、ヴォルグが眉間に深い溝を作った。乗ってくるかは賭けだ。でも、ヴォルグなら乗ってくる。そんな気がした。
「俺、奴隷だったから、獣人が怪我した時に痛みを誤魔化す為に何を使っていたのか、知ってるんだ」
「……嘘をついていたのが分かったら、殺す」
ヴォルグの怒りの度合いが、下がったのが分かった。ほら、乗ってきた。ヒースは思った。
「作業現場は、坑道の時もあったんだ。そこで落盤事故があって、監督者の獣人達が何人か巻き込まれた」
その時、ヒースは見ていた。そして治療に必要な物も、ちゃんと。
「それを教えたら、俺の話を聞いて欲しい」
ヒースの言葉を聞いた瞬間、ヴォルグの牙がグワッと飛び出した。
次話は明日、頑張ります!




