近付いてきた距離
朝食を敷物の上に並べ終わっても、ザハリもティアンも降りてこない。と思ったら、カイネがお盆に一人分の食事を乗せて「父さんに届けてくる」と言って消えてしまった。どうやら、カイネの髪の毛が切られてしまったことがあまりにも衝撃だったらしく、ティアンは現在半泣きで自室に篭もってしまっているらしい。なんて大人だ。
「ザハリの奴はいつも朝寝坊なんだ」
やれやれ、と腰に手を当てたミスラが、今度はザハリを起こしに上階に消えてしまった。
ヒースとシーゼルは、料理の前でただ待ちぼうけをくらってしまった。暫くしてカイネが降りて来、ミスラに押される様にして欠伸をしながら降りてきたザハリもきてようやく全員が集まる頃には、ヒースの腹はくっつきそうな位ぺこぺこになっていた。
「遅いよ」
思わず愚痴が飛び出たと同時に、ヒースの腹が豪快に鳴った。あはは、とミスラがにこやかに笑いながら、ザハリの隣に座る。ミスラとザハリの距離は遠くもなく近くもなく、この二人は一体昨夜何を話したのだろう、と少しだけ気になった。
「ほら、ザハリ」
「ん」
ミスラがよそった麺が入った汁物を、当たり前の様に受け取るザハリ。ここだけ切り出して見ていると、何だか長年連れ添った夫婦の様に見える。それは何だかいいな、とヒースには思えた。ヒースとニアが並んでいても、こんなに当たり前に一緒にいる様には見えないかもしれない。
何より、ヒースが多分落ち着いてなんていられない。絶対ソワソワしてしまうのが、目に見えていた。
ヒースが、そんなことを考えていた時。
「――ニア?」
ヒースは、崖があるであろう方向から、不意に強烈なニアの気配を感じた。思わず立ち上がると、家の外へと駆け出す。
外はいい天気で雲ひとつない。まだ早朝だからか空の色味は白い。森から発せられた冷たい湿気が、ヒースの温まった身体に押し寄せた。
「ちょっとヒース、どうしたの」
慌てて追いかけてきたシーゼルが、昨日と同様ヒースの前に出ると辺りを見回した。勿論右手は剣の柄にある。
そんなに警戒しなくてもいいよ、そう言おうと思っていた。だけど、口から飛び出てきたのは、全く別の言葉だった。
「ニアがあそこにいるんだ」
「……は?」
シーゼルは思い切り片眉を上げる。ああ、でもこの高揚感は伝えずにはいられない。
「ニアがいるんだよ! ヨハン達の所に着いて、それできっと今俺のことを考えた! 絶対そうだよ!」
ヒースは、自分が笑顔になるのを止めることが出来なかった。先程は、ミスラの前ではあんなに出すのに苦労した笑顔も、ニアのことを思うだけで止めどなく溢れ出てくる。会いたい、会いたい。思いが溢れて止まらなかった。
ヒースが会いたいと思っているこの気持ちは、ニアにも伝わっているのだろうか。互いの髪の毛を身に付けニアの羽根を持っているからだろうが、ヒースにはニアの気配が分かる時がある。そして思うのだ。多分それは、ニアもヒースのことを思い出している時なのではないか、と。
「……ヒース、嬉しそうだね」
少し呆れた様に、シーゼルが笑った。
ヒースは、そんなシーゼルにも満面の笑みを見せる。
「だって、好きなんだ」
「ふうん? どんなところが好きなの?」
「どんなところ……」
どんなところだろうか。滅茶苦茶やるところも好きだし、あの燃えるような色の髪も好きだし、夜空の奥みたいな紺色の瞳も好きだし、ヒースが近付くと「ひっ」というところだって可愛いと思うし、何でも一所懸命なところも大好きだし、勿論あの小さいけれと柔らかい身体だって好きだ。
「うーん……なんだろう」
「あは、難しい質問だったかな?」
シーゼルが、ヒースの背中を押して家の中へ戻るよう促す。それでもまだ興奮は醒めなかった。ヒースは暫く考え込んでから、ポン! と手を叩いた。
「生きてるところ!」
「は?」
シーゼルの表情が、思い切り歪んだ。
「……意味が分からない」
「だから、ニアって凄く生きてるなって感じのする子なんだよ!」
「うん、よく分からないかな……」
シーゼルは、それ以上ヒースに聞いても無駄だと判断したのか、「さ、ご飯を食べようね」と子供を諭す様な口調で言い、ぐいぐいとヒースを中に押し込んでしまった。
再び料理の前に座ったヒースを、カイネが怪訝そうな顔で見てきた。
「どうしたんだ、突然」
そんなヒースは、料理に手を伸ばしながら、カイネにひと言。
「ニアは俺のだから、カイネは好きになっちゃ駄目だからな」
カイネは、訳が分からない、といった風にポカンとした。
「は……?」
「ザハリも勿論駄目だから!」
シーゼルに関しては全く問題ない。シーゼルには、ヨハンという恋人がいるのだから。それに、ニアよりもむしろヒースの方が危険な気がする。
ザハリが、いきなり名指しをされて思い切り眉間に皺を寄せた。パリッといい音を立てて巻かれた料理に包まれた野菜を食い千切ると、それをむしゃむしゃしながらヒースを睨みつけてきた。
「お前なあ……」
苦々しげにそう呟くと、ミスラの方をちらりと見た。ミスラは、そんなザハリを半眼の横目で見ている。
ザハリは非常に居心地が悪そうにもぞもぞと動くと、ボソボソと喋り始めた。
「俺はこういうのは得意じゃねえんだよ……全くよお」
「こういうの?」
ヒースが聞き返すと、ザハリがぐわっとむきになって喋り始めた。
「こういうのだよ! 真面目に俺の想いとかをさらけ出すこと! 分かんねえのかよ!」
「分かんないよ、ザハリのことはよく知らないし」
ザハリとは昨日会ったばかりだ。分かるはずがない。ヒースが真面目に返答すると、ザハリがサラサラの白の長髪を片手でぐしゃぐしゃにし出した。そして、チラ、とヒースを見た。
「……あー、俺は、昨日ミスラに誓ったんだよ」
「誓った? 何を?」
ヒースが尋ねると、カイネも興味深そうに少し身を乗り出してきた。シーゼルは全く興味がないのだそう、料理を小さくもぐもぐしているだけだ。
ザハリの目は泳ぎまくっている。こういうのが苦手というのは、本当のことらしい。
「ミスラだけを、心からあ、あ、愛しますってな!」
すると、横にいたミスラがにっこりと笑った。昨日までの焦りは、全く見えない。えらい変わりようである。
「だから、俺のことをその、あの……」
「信じて欲しいって言われたんだよ」
にっこりとして、ミスラが言った。そんなミスラの横で、ザハリが顔を両手で覆っている。指の隙間から見える少し浅黒いザハリの頬が、ほんのり赤くなっている。どうやら盛大に照れているらしい。
この人は、口では軽いことを言っていたけど、案外初心なところもあるみたいだ。ヒースは少し意外な思いでザハリを見ると、ザハリが指の隙間から目を覗かせて、思い切り睨みつけてきた。やはりこの人は人相が悪い。
「だから、私は信じてやることにしたんだよ」
ミスラはそう言うと、ザハリに笑いかけた。それは、何の迷いもない明るい笑顔だった。
ようやく顔を見せたザハリが、口を尖らせながら後を引き取る。
「……まあ、そういうことだ。だから、俺は他の女を見ても流されるつもりはねえし、それにこの集落にだって他の女はいるが、俺は元々ミスラしか見てねえし」
「そっか、他にも女の人っているのか」
「そりゃそうだろ、ここは人間の世界とは違うからな」
ヒースにとっては女性が全くいない世界の方が日常だったので、言われるまでその認識が薄かった。
「まあ、てことだ。分かったらさっさと食って、作業開始だ」
「昼には戻っておいでよ、待ってるから」
ミスラが笑顔でそう言う。その瞬間、ザハリの口の端が嬉しそうに緩んだのを、ヒースは見逃さなかった。
次話は書けたら投稿します!




