風呂場での争い
カイネの背中越しに目に飛び込んできた光景、それはヒースが追うには速すぎて分からなかった。
シーゼルが蒼鉱石の剣を振るう度に湯気がどんどん氷の粒となっていき、やがてそれは複数のつららの形を取る。宙に浮いたつららが、湯気の向こう側にいる敵に向かって一斉に飛んでいった。
「こんなもの!!」
獣化した腕がそれを弾くと、何本かがシーゼルの肩を掠めていく。パッと血が散り、更に獣人の鋭い爪が同じ箇所を抉った。ビシャッ! と血が湯気に当たって落ちていく。
思わずヒースは叫んだ。
「シーゼル! 死んじゃ嫌だ!!」
すると、獣化した腕がピタッと動きを止めた。シーゼルは少し後ろに下がって間合いを取る。勿論素っ裸だ。
「……もう一人いたのか? 人間の男と二人で風呂に入ったのではなかったのか?」
獣化していた腕が、人間の腕に戻った。それでもまだ太い腕だ。
「ここに入って来るなと何度言えば分かる!!」
カイネがその人物に向かって怒鳴ると、立ち上がった。手に持っていた手ぬぐいを腰にさっと巻き、侵入者の目から隠す。いつでも逃げられる様にだろうか、膝を曲げて少し屈み気味だ。
「今日来たばかりの客人を風呂に招待していたんだ! それがお前に何の関係がある!」
男の革靴を履いた足が見えた。筋肉が盛り上がった分厚い太もも。もう一歩こちらに寄ってくると、湯気の中から見知った顔が現れた。
ヴォルグだった。
剣を構えて警戒し続けているシーゼル、湯船の手前で腰を屈めているカイネ、そして湯船に浸かったまま小刻みに震えているヒースを見て、それまで肩で息をして怒気を発していたヴォルグの雰囲気が一気に落ち着いたものに変わった。逞しい肩が、落ちる。
「出ていけ、お前はここにいるべきではない」
カイネが冷たく言い放った。すると、これまでの態度から一転、ヴォルグは素直にくるりと背中を向けると、ポツリと「済まなかったな」とひと言呟き去っていった。
その後ろ姿を睨みつけていたシーゼルが、苛立たしげに吐く。
「……何だったの、あれ」
シーゼルが血で汚れた蒼鉱石の剣をパッと振ると、ヴォルグの血が飛んで行った。そしてヒースを見て、顔色を変えた。
「……ヒース!?」
シーゼルの切羽詰まった声色に只事でない雰囲気を感じ取ったのだろう、カイネもヒースを振り返ると、大きく目を見開いた。
「ヒース、どうした」
心配そうな表情で、湯船の前に片膝を立てる。ヒースは、唖然として突っ立っているシーゼルに向かって震える手を伸ばした。心臓があり得ない程にバクバクと音を立てており、耳にうるさい。
シーゼルが慌てて駆け寄ってくるとヒースの伸ばされた手を掴み、湯船に足を浸けてしゃがむとヒースの肩を抱いた。ヒースの歯はガチガチと音を立て、どうしても震えが止まらない。別に寒くはないのに。お湯は温かいのに。
「……まさか、僕が殺されちゃうと思った?」
シーゼルはそう言うと、右肩に出来てしまった爪痕をちらりと見た。三本の筋の内一本は傷が深く、血がダラダラと流れ出てきている。ヒースはかくかくと頭を振ると、シーゼルの反対の肩に額を付けた。
シーゼルが、空いた方の手でヒースの頭を撫でる。そうしてもらっている内に、少しずつ落ち着いてきた。息苦しさも段々と治まり、ヒースはそのままふーっと長い息を吐くと、顔を上げてシーゼルを見た。
「……飛んだ血を見た時、思い出しちゃって」
「思い出した?」
ヒースは小さく頷いてみせた。
「父さんが殺された時、さっきみたいに血が一杯飛び散って、最後には一杯床に血が流れてきて、それでその後から覚えてないんだけど……」
「ヒース、僕は生きてるよ」
シーゼルが優しくヒースの頭を撫で続けながら、笑って言った。
「死んでないよ。僕は君のお父さんじゃないし」
「シーゼル、その言い方は」
カイネが眉を顰めたが、シーゼルのその直接的な言葉は、ヒースも想像し得なかった位にヒースの心の深くに染み込んでいった。そうか、そうだった。なんでそんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「そうだ……よね! シーゼルは父さんじゃないじゃないか!」
「ヒース?」
カイネは怪訝そうな表情を浮かべているが、ヒース自身はまるで霧が晴れたかの様な気分を味わっていた。
ニアといる時は、母さんのことを時折思い出した。あれは多分同性だったからだろう。怖くなったりするとニアも優しく接してくれたが、そうだあれだってそもそもニアは母さんじゃないし全くの別人だ。
「関係ないんだよ、ヒース」
シーゼルの肩から垂れ落ちる血が、湯の上に落ちて広がっていった。
「僕は僕、君の父さんは父さん。同じ様に見える出来事も、全く同じ結果にはならない。起こり得ないよ。だって僕は君の父さんじゃないし」
ね? とシーゼルが首を傾げながら笑いかける。ヒースはそれを見て、笑顔になってこくこくと頷いた。そうだ、本当にそうだ。一緒な筈がないのに、ヒースはいつも父さんと母さんのことを他の人に当て嵌めようとばかりしていた。そんなこと、何の意味もないのに。
カイネが、訳が分からないといった表情で二人を見比べる。
「シーゼルは、なんでそんなことが分かるんだ?」
ふん、とシーゼルが鼻で笑った。
「そんなの、何度も同じことを思ったからに決まってるんだけど。お坊ちゃんの君には分からないか」
「お前な……」
カイネが少し苛ついた様に軽く睨みつけたが、その後ふう、と肩を落とした。
「でも、その通りだ。僕は知らない。母は亡くしはしたが、殆ど覚えてはいないしな。目の前で大切な人を殺されたこともなければ、大切な場所を奪われたこともない」
「……まあ、それでも別にいいんじゃない? 嫌なことがなけりゃないで幸せだろうし」
シーゼルは冷たく言い放つと、ヒースの頭をポン、と触ると立ち上がって蒼鉱石の剣を右手で握った。そして左手を肩の傷に翳すと、肩周りの空気が凍って来ているのが見えた。
「あーつめた」
手を離すと、血はもう止まっていた。
「カイネ、それ、揃えるから」
シーゼルはこんなことがあっても、続行するらしい。さすがはシーゼルだ。
カイネは曇った表情のまま、先程の位置へと戻ると大人しくシーゼルに背中を向けて座った。
「前髪も切っちゃおう」
そして何故かシーゼルは急に楽しそうだ。そんなシーゼルのお陰ですっかり元気を取り戻したヒースは、決して仲はよくないが歩み寄りを見せつつある二人の様子をゆったりと眺めながら、先程何故ヴォルグがあんなにも憤怒に染まり急襲してきたのかを考え始めた。
大方の予想はついていたが、多分あれは嫉妬だ。
カイネが風呂にヒース達と向かったことを、あの薄暗い中で見ていた者がいたのかもしれない。その者が、きっとヴォルグに伝えたのだろう。そしてきっと、ヴォルグは勘違いをした。
カイネは、人間の男と二人で風呂に行ってしまったと。
それをどういう意味にとったか、恐らくヴォルグの頭に血が昇ってしまったに違いない。聞いた瞬間からここに飛んで来るまでの間、嫉妬に駆られてとにかくその人間を排除してしまおうと考えたのか。そうでないとあの見境のない攻撃に説明が付かなかった。
一体どれだけ惚れられてるんだろうか。
ヒースは、髪を切られながらドキドキそわそわしている風のカイネを見ながら、そっと小さな溜息をついた。
次回は書けたら投稿します!




