空腹の限界
ザハリと入れ違いで、炊事場の通路からカイネが出て来た。傷口は綺麗に洗われ、何か薬だろうか、黄色い物が塗りたくられていた。成程、薬を塗られていたから戻ってくるのに時間が掛かったらしい。
「……見苦しい所を見せた」
「いや、まあ、カイネらしいから別に」
腹が減り過ぎてきちんと考えられなかったヒースが心に思ったままを口に出すと、カイネがまたしょんぼりと凹んでしまった。しまったと思ったが、腹が減りすぎて慰める気も起きない。またヒースの腹がぐううう、と鳴った。
「何か食べたい……」
心の底からの願望が、口を突いて出た。
「今ザハリが入って行ったから、多分すぐ用意されると思うぞ」
「何でザハリが入って行くとすぐに用意されるの?」
「ミスラは早くあそこからザハリを追い出したいからだ」
カイネの回答は単純明快だった。
すると、タイミングを合わせたかの様に、炊事場の奥からミスラの声が聞こえてきた。
「だから! 何度も言ってんだろ! ここにフラフラと入ってくるんじゃない!」
ミスラがピシャリと言うが、ザハリには効果がないようだ。
「何だよ、俺は腹を空かせた小僧の為に食事の催促をしに来た親切なお兄さんだぜ」
「何がお兄さんだよ! あんた一体自分を幾つだと思ってるんだい!」
「心も見た目通りの爽やかな青年だぜ」
「中身が腐った奴が何言ってるんだよ!」
ミスラは怒っている様にしか聞こえなかったが、ザハリの声はとても楽しそうで弾んでいる。
「とにかく炊事場は家人以外は男子禁制なんだよ! もう何度言ったら分かるんだい!」
「お? ミスラ、ようやく俺のことも男として見てくれる様になったのか?」
ザハリがそうのたまうと、ミスラの声がぴたりと止まった。どうしたのだろうか。ヒースが耳を澄ましていると、暫くしてから怒りで震えるミスラの声が聞こえ始めた。
「ああああああもうっ!! すぐ支度するから出ていけ!!」
「分かったって、そうすぐ怒るなよ。まあ怒った顔も可愛いけどな」
ザハリはそう言うと笑った。あれだけ怒られながら拒否をされて、よく平気なものだ。ヒースだったら、きっと顔は笑顔のままだけど、もう近寄りたくなくなってしまうかもしれない。母との確執のことを何となくではあるが思い出した今となっては、人から拒絶されるのが恐ろしくて仕方なかった。多分、それは相手が獣人だとしても一緒だろう。
きっとザハリの心臓は、蒼鉱石で出来ているに違いない。ヒースはそう思った。横に座っているカイネを見ると、小さな溜息をついて項垂れていた。恐らくこれは日常茶飯事なのだろう。シーゼルは、と思うと、完全に意識は外に向かっており、絶賛警戒中だった。ザハリもミスラもどうでもいいらしい。
「お前いい加減に……っ!! あ! ちょっと何つまみ食いしようとしてんだよ!」
「小僧に持っていってやるんだよ。腹減りすぎて死にそうになってんだ」
「そう言って今口に咥えたのは何だい!」
「あ、美味いなこれ」
「お? そうだろうそうだろう。これは私が砂漠で採ってきた大蜥蜴を干してから水でじっくり戻したやつを畑で採れた野菜でじっくりことこととな」
ザハリが褒めた途端、ころっと態度を変えて嬉しそうに話し始めてしまった。このチョロさは記憶がある。カイネとそっくりだった。
「え? ミスラ、まさか自分で狩りに行ってんのか? そういうのこそ、その辺の男共にやらせりゃいいじゃねえか。何で食料調達から自分でやってんだよ」
「そ、そういうのは、普通は家長がやるもんなんだっ! だけどヴォルグの奴は訓練ばっかりでいないし、私には伴侶もいないし、だからその……」
ミスラはもごもごと口籠ってしまった。つまり、採ってきてくれる男がいないから、それで自分で捕りに行ってしまっている訳だ。そして本当にチョロい。ザハリは嫌だという態度を見せながら、何故こうもペラペラとそこそこかなり個人的なことまで喋ってしまうのか。
もしかして、獣人は皆こうなんだろうか、という疑問が頭をよぎった。もしそうならば、少し接触方法を考え直した方がいいかもしれない。
「ヴォルグの飯はどうしてるんだ?」
「そ、それも私が……」
「駄目な弟だな! 姉ちゃんのことを何だと思ってんだあいつ!」
「いやでも、アイネを救う為に頑張っていると思えば仕方ないよ」
成程、アイネを溺愛しているというミスラは、アイネを救う為ならば自分の苦労も厭わないということなのだ。アイネは一体どんな子なんだろう、とヒースは初めて思った。カイネの妹だから女版カイネを予想していたが、だったらヴォルグももっと執着しそうだし、そういえばティアンもどちらかというとカイネの方が大切な様に見受けられた。
「本当いい女だな、ミスラは」
「ちょ、ちょっと何言ってるんだいっ」
「次は俺が一緒に狩りに行ってやるよ」
「なっ何言ってるんだ!」
奥では、まだ会話が続いている。段々とミスラの勢いが落ちてきている。ザハリはここで一気に畳み掛けるつもりだろうか。それにしても腹が減った。そろそろ腹と背中がくっつきそうだ。
「ねえカイネ、アイネってカイネに似てるの?」
「どうした突然。――いや、どちらかというと父さん似だな。でも可愛いぞ」
兄馬鹿炸裂の発言が飛び出してきた。ただこの台詞は、自分は可愛いということを前提に出てきている言葉である。指摘した方がいいのだろうかと考えたが、腹が減りすぎて頭が回らないので、止めた。
それにしても、ヒース用に摘んだ筈の食べ物がまだ来ない。というか、ミスラの食事の支度を、どちらかというとザハリが邪魔しているんじゃないかという疑惑が生まれた。絶対今、ミスラの手は止まっている筈だ。
ヒースの腹が、盛大にぐうううううう、と鳴った。それを聞いたカイネが、驚いた顔をした後笑顔になってスッと立ち上がり、炊事場へ続く通路に向かって声を掛けた。
「ザハリ、ミスラ! ヒースがとうとう腹の音で会話を始めたから、急いでくれないか?」
すると、奥からあはは、と明るい笑い声と共にザハリが出て来た。手に持っていたのは、今日の昼間に食べたのと似た、平べったい焼いた白っぽい皮の様な物に肉と野菜が包まれている物だった。
「ほらヒース、とりあえずの繋ぎだ」
「ありがとう!」
ヒースはそれを奪う様にして受け取ると、大きな口を開けてぱくりとひと口食べた。シャリ、と新鮮な野菜が音を立てて噛み千切られる。肉からは少し甘い液体がじゅわっと出てきて、それが口の中で合わさる。
「おいひい……!」
泣きそうになる位、美味しかった。これなら何本でも食べられる。同じ物でももう全然構わないから、腹の中を食べ物で埋め尽くしたかった。
「ミスラ、ヒースが美味いってよ!」
炊事場から大きなお盆にホカホカの料理を乗せて出て来たミスラが、怪訝そうな顔をした。
「ヒースって誰のことだい」
ヒースはもぐもぐと口一杯に頬張りながら、手を上げた。ミスラが、初めて気が付いた様な目つきでヒースを上から下までジロジロと眺める。遠慮もくそもない。
「子供じゃないか」
「ヒースは、僕と同じで成人済だ」
カイネが代わりに言ってくれた。
「何でこんな子供がここにいるんだよ」
聞いちゃいない。
「ヒースは鍛冶屋なんだ」
「子供なのに?」
だから子供じゃない。そう言いたかったが、食べる方が先だった。ヒースは、手に残っていた物を全部口の中に放り込んだ。
次回は明日投稿予定です!




