ミスラ
後ろにヒース達がいることなとっくに気付いているだろうに、出て来たミスラと呼ばれたその獣人の女性は、完全にヒース達を無視した。これが普通の獣人の対応なのかな、と少しだけ疎外感を覚える。
自分の頬をがっつりと押さえつけられ、しかも顔を間近で覗き込まれて、カイネは焦っている様だ。
「み、ミスラ、怪我っていう程のものじゃないからっ」
「何を言っているんだ、折角の綺麗な顔にこんな傷を付けちゃって。ほら消毒をしてやるからこっちへ」
ミスラはスラリとした身体付きに見えるが、ヒースよりも遥かに力のあるカイネを子供の様に軽々と引っ張って行くと、炊事場の奥へと消えて行ってしまった。
ザハリがその場に座り込んで、言った。
「獣人て奴は、大抵皆人の話を聞かないみたいだぜ。だからまあ、気長に待ちな」
「……」
ヒースが何も言えずその場に座り込むと、ヒースの代わりにヒースの腹がぐう、と返事をした。
炊事場の奥から、「痛い痛い!」というカイネの情けない声と、「男だろ! 甘えんな!」という豪快なミスラの声が聞こえた。多分、水で血を洗われているんだろうなとは想像がついた。
「カイネが以前、女性に相手にされてないって言ってたけど。思ったよりもちゃんと接してもらってない?」
ヒースが疑問をそのまま口にすると、ザハリがんん? という顔付きで答えた。
「ヒースがどういう意味に受け取ったのかは分かんねえけどよ、ありゃ完全に相手にされてねえだろうが」
「どういうこと?」
ちゃんと好かれてるじゃないか。そう思ったのに、違う何かがザハリには見えているんだろうか。すると、ザハリが頭をぽりぽりと掻きながら説明してくれた。この人は、先程ヒースの後を引き継いでくれた様に、何だかんだ言ってお人好しなのだろう。口は悪いが、ついでにちょっと見た目も怖いが、それでも根は優しい人なのだ。
現にヒースが困っていると、すぐに手を差し伸べてくれる。それとも、外の大人は皆親切なんだろうか。奴隷時代が長すぎたヒースにとって、外の世界はまだまだ未知の世界だった。
「男として全く見られてないだろう? カイネの方はもしかしたら意識しているかもしれねえが、ミスラの方は完全にカイネのことを子供扱いしてるもんな」
ザハリはミスラの名前を普通に呼んだ。ということは、ザハリはミスラとは親しくなっているのだろうか。ちょっと羨ましいかもしれない。
「カイネよりは年上に見えたけど」
そして、ニアがヒースのことを子供扱いしていることを思い出した。あ、確かに相手にされていない感はあるかもしれない。でもヒースがキスをした後は真っ赤になってたから、多分今頃はヒースのことをちゃんと男として意識していてくれると嬉しい。
つくづく、あの後のニアの様子を傍で窺えなかったことが悔やまれた。見ることが出来ていたら、絶対可愛い反応が見られたに違いなかったのに。
「ヒースお前さ、ミスラが誰かに似てると思わなかったか?」
ザハリが、急に話題を変えてきた。でも先程確かにそう思ったので、ヒースは素直に頷く。
「でも獣人の知り合いなんて殆どいないし」
そう言いながら、ヒースは一人ひとり顔を思い浮かべてみた。ティアンの家にいるからティアンの親戚だろうか? でも結構キリッとしたきつい目をしていたから、柔和な感じのティアンやカイネの親戚には見えない。次いでヴォルグの顔を思い出してみる。眉間に皺が寄り過ぎてるし筋肉隆々で恐ろしげな雰囲気を持つ獣人、というのが第一印象だったが、それは今も変わっていない。
でも、確かに目元はヴォルグによく似ていたかもしれない。一瞬しか見ていないからはっきりとは言えないが、他に選択肢はない。ということは、そういうことなのだろう。
「えーと、ヴォルグ?」
「そう、正解だ。ミスラはな、ヴォルグの双子の姉なんだってよ」
「双子……」
双子という言葉は知っているが、実際にこの目でお目にかかったことは、多分ない。
「カイネの妹の教育係だったらしいんだけどよ、ついでにこの家の食事の支度もミスラがずっと担当しているらしいぜ」
「他所の家なのに大変だね」
「他所の家って訳でもねえだろう。そもそもヴォルグはカイネの妹の許嫁な訳だしな」
うんうん、とザハリが頷きつつぺらぺらと話してくれるが、この人は何でこんなに色んなことに詳しいのか。
「ザハリ、そういうのってティアンとかカイネが教えてくれたの? 色々詳しいよね」
「いやな、久々に見たいい女だと思って声を掛けたんだよ」
「……」
ヒースが黙ると、ザハリがははっと笑った。
「ここに連れて来られて、蒼鉱石の剣を鍛えろって言われたら、ああこりゃ長丁場になるなと思うのが普通だろ?」
「普通がどれかは分かんないけど、そうかもね」
そもそも、今日まで蒼鉱石の剣を一本鍛えるのにどれだけ時間が掛かるかなんて全く知らなかった。
「まあ外にだって女はいねえけどよ、折角一箇所に滞在するなら出来るだけ楽しく滞在したいし、だったら女を口説くのもまた一興かなと思ってよ、俺は久々にやる気を出した訳だ」
ザハリは、軽くそう言った。一興かな、という気分だけで、自分を拐ってきた獣人の姉を口説こうとする神経が、ヒースには理解出来なかった。やっぱりこの人は、少し、いや大分おかしいかもしれない。
まともなジオが、急に懐かしくなった。ジオは奥手ではあるが、常識を持った大人だった。無茶はしない、節度を知っている人間だ。
ザハリのお喋りは止まらない。基本、話すのが好きなのかもしれない。
「人間には偏見を持ってるのか知らねえが初めて会った時は完全無視だったけど、俺がこの家に火を点けまくって暴れた後はちょっと見直したのか、返事をしてくれる様になってさ」
それはただ単に、返事をしないと自分も危ないと思ったからではないかと思ったが、ヒースはそれについて言及することは控えることにした。言っても詮無いことだ。
「朝昼晩と三食きちっと用意してくれるからさ、その時を狙って話しかけてるんだが、まあなびかねえなびかねえ。こりゃ男でもいるのかと思って聞くと、特に相手もいない様だし、好きな相手もいないみたいだしよ、あんな美女をどうして周りの男共は放って置けるんだと思ってその辺の奴らを適当に捕まえて聞いてみたらよ、カイネの妹を溺愛していたらしいんだよな」
蒼鉱石の剣を鍛えろと無理やり連れて来られた人間が、その辺にいる獣人にミスラのことを聞きまくる。明らかに怪しい行動だ。
「自分の恋愛よりもカイネの妹の面倒。健気だよな? 俺はその話を聞いて、これは慰めてこちらに向いてもらういい機会だと思った訳だ」
「相手の弱っているところを突く感じだよね」
「言い方ってもんがあるだろうが」
ザハリは鼻をフン、と鳴らした。すると、またヒースの腹がぐうううう、と鳴った。
「仕方ねえなあ」
呆れた様に笑ったザハリは、ヒースの頭に手を置いて体重を掛けながら立ち上がると、ふらっと気軽な感じで炊事場へと入って行ってしまったのだった。
次回は明日投稿予定です。




