怖かったこと
喉が上から押さえ付けられ、苦しい。
入り口の方にいるシーゼルがすでに剣を構えていたが、ティアンがヒースの額に尖った爪を当ててシーゼルに一瞥をくれたのを見、この距離では間に合わないと判断したのだろう、近付いてくることはなかった。だが明らかに殺気を放っている。
「父さん! 離して下さい!」
カイネがヒースの喉を押さえつけているティアンの腕を引っ張ったが、びくともしない。
「父さん!」
「お前は獣人を馬鹿にするこの男の方を味方するのか!!」
獣の咆哮の様ながなり声で、ティアンが言った。カイネは一瞬ビクッと震えたが、それでもティアンの腕を引っ張るのは止めなかった。カイネの目に涙が滲んでしまっている。
「ヴォルグは私の次にこの一族の中で強い男だ!! その男がアイネに愛情がないなどと、何を知ったかの様に言う!!」
ヒースには、ティアンの怒りの根源が理解出来なかった。それを尋ねたいが、声が出せない。代わりに、カハッという咳だけが出た。
「おいティアン、落ち着けよ」
寝そべっていたザハリがむくりと起き上がって声をかけたが、ティアンの怒りは冷め止まない。
「俺が見定めた仲を誤りだというのか!!」
怒りの原因が分かった。ティアンは一番偉い。ティアンがいいと思った上での婚姻の約束だ。それだけティアンはアイネが大事なのだろうし、アイネにとって最高の伴侶を選んであげたと思っているのだろう。
それが違うと言われたら。この一族の中で一番偉い筈の自分が、人間の子供にお前は間違っていると言われたら、許せない。
この人はアイリーンという人間を妻とはしたが、やはり獣人なのだ。力が強く一番偉い自分に弱い人間が逆らうのは、本来であれば許されないことなのだろう。アイリーンは愛したから許せた。カイネとアイネは、そのアイリーンと自分の子供だから弱くても許せた。皆、ティアンという強い男の庇護下に置けるから、弱くても何を言っても許せるだけなのだ。
根本は、ヴォルグと一緒だ。
ヒースは、息苦しくて少し涙が滲んできた目をぎゅっと開くと、ヒースの上に跨るティアンをじっと見返した。声を出そうとしたが、出ない。だから代わりに、出来るだけはっきりと頷いてみせた。
「お前はまだ言うか!!」
喉が更にぐっと絞められたが、ヒースは目線を逸らさなかった。何でこんな役目を負わされてるんだろうとは思いつつ、カイネがずっと怖くて言えなかったことを代わりに言ってやる為にここまで来たのかな、とも思う。
カイネから発せられていたのは、助けてという信号だ。自分の力ではどうにもならない。だから助けて、と。
段々視界がチカチカしてきたが、ヒースは口をぱくぱくさせて喋りたいという意思を見せた。ティアンの形相は恐ろしいものだったが、少し冷静になったのか、ヒースの喉を掴んでいた毛むくじゃらの手が人間と同じ手に戻り、そしてゆっくりと離した。途端、ヒースの肺に空気がぶわっと入ってきた。はあはあ、と息を整える。
「ヒース、済まない、大丈夫か?」
カイネが身を起こすのを手伝ってくれた。カイネはまた泣いてしまっている。本当に泣き虫だ。後ろを振り向き、シーゼルに目線を送った。物凄い嫌そうな顔をしていたシーゼルが、渋々といった体で剣を鞘に納めた。
「おい、息は出来てるか?」
酒臭いザハリが声をかけてきたので、ヒースははあはあ言いながら頷いて応えた。
「だ、大丈夫」
かなり苦しかったが。ティアンはヒースの上からどくと、先程まで座っていた場所に再度胡座をかいて座った。姿はもう元に戻っていたが、眉間の皺が物凄く深い。
「カイネ、泣かないでよ」
「ぐすっごめん、ごめんヒース」
やられた本人が泣いてないのに、カイネはボロボロと泣き出してしまった。巻き込んでしまった、そう思っているに違いない。だがそれは違う。ヒースにはヒースの目的があるし、ただカイネの為に来た訳ではないのだから。
「ティアン、俺は別に貴方もヴォルグも馬鹿にはしてないよ」
「まだ言うか」
ティアンの声はまだ獣っぽい。いつでも殺れるぞ、そう言われている気がした。そして、恐らくカイネが横にいようがティアンは殺る時は殺るだろう。それが獣人の本分ならば。
でも、ティアンはカイネのことは気にしている。だから、カイネを織り交ぜて話していけば、きっと先程よりは冷静に聞いてくれる筈だ。
どうかまた首を締められません様に。
ヒースはそう祈りつつ、改めて発言を始めた。
「カイネの話を聞いてあげたことはある?」
「カイネの何の話だ」
ぶすっとしていて取り付く島もない。
「アイネの話は聞いてあげた? アイネは、ヴォルグと許嫁になることは嫌がってなかった?」
「何故嫌がる? ヴォルグは一族の中で俺の次に強い奴だ。強い男と番うのが嫌な訳がないだろう」
「アイネには聞いてないんだね」
ヒースがそう言うと、ティアンの口から牙がガアッ! と飛び出てきたが、襲ってはこなかった。ヒースの横にカイネが庇う様にしているからかもしれない。
「ティアン、アイネは何で竜人と一緒に出て行ったと思ってる?」
「竜人の方が強いからではないのか」
成程、そう受け取っていたのか。価値観の違いというものは、本当に厄介だ。
「カイネの話からすると、多分違うと思う」
敢えてカイネの名前を会話に織り込みつつ、ヒースは話を続ける。
「……どう違うんだ。言ってみろ」
半分以上獣の声になりつつ、ティアンが言った。違うと言われることが耐え難いのだろうが、カイネの話と前置きすることで耐えてもらえた様だ。本当に綱渡りである。
「アイネは、ヴォルグが自分のことを好きではないのを知っていた」
「まだ言うか!!」
ヒースは負けなかった。
「言うよ。だってヴォルグは始めからカイネが好きなんだから」
「……え?」
ティアンの眉間の皺が消えた。そして目が泳ぎ出す。恐らく、一所懸命今のヒースの言葉の意味を考えているに違いない。
「カイネ……この人間の言うことは、本当か……?」
ティアンの声は、元の人間と近いものに戻ってきていた。そして声が震えている。ヒースの言葉の意味は理解しても、理解したくないのかもしれない。
カイネを見ると、ボロボロと泣いてしまっている。ずっと言いたくて、でも怖くて言い出せなかったことを、カイネの代わりにヒースが伝えた。それでもまだきっと怖いのだろう。獣人の力関係や力に重きをどれだけ置いているのかはヒースには理解出来ていないが、カイネが怖がっていたことを父親に言うことが本当に嫌だったのは、何となくだが理解出来た。
獣人の中では、カイネは弱い。その弱さを吐露するのは、獣人として育てられたカイネにとっては恥以外のなにものでもないだろうから。それを人間のヒースを頼って言ってもらうこと自体、獣人の価値観からすればあり得ないことなのかもしれない。
カイネはザハリとも親しげだ。だからカイネの中では、どうしても半分は人間で自分は完全な獣人ではないという思いが拭えないのだろう。
それも全て、力が全てだと言い切るこの父親の所為だ。それなのに、父親も集落の皆も大事で、見捨てることが出来ないお人好し。それがカイネなのだ。
「……本当、です」
ようやくカイネが絞り出す様に言った。ひと言出てしまうと、後はもう止まらなくなった。
「あいつはずっとずっとずっと僕を狙って追いかけて来てた! 嫌だと言っても父さんがヴォルグを受け入れてるし、アイネはあいつのことを嫌ってるのに父さんは気付きもしない! ずっと、ずっと言いたかったのに、言えなかった!!」
カイネが叫んだ。
次話は明日投稿予定です。




