忍びの道 鉄心
1
水音ささやく沢の川べり、一人の男が焚火の前に腰かけていた。顔まで覆う全身黒装束、唯一除く生身の眼光は、暗く、鋭く、鋼のように冷たく輝く。
男は懐から仕事道具を取り出し、丁寧に手入れを始める。苦無、手裏剣、鎖鎌、一つ一つの不備を確かめ、磨き上げ、火で燻して光を消す。光の反射は、なければないほど好ましい。闇に溶けざる鋼の輝きは、闇に生きる者には邪魔である。
丹念で執拗な整備により、心を刃へと研ぎ澄ます。
これは一つの儀式である。抜け忍殺しに必須の鉄心、眉一つ動かさぬ非情さは、日々の細々した所作を積み重ねて作られる。道具と己を一つとし、初めてなせるものである。彼自身もまた、「標的」を狩るための一振りの刃となる。これより先、かつての仲間は「人」ではなく「標的」となる。
焚火の炎に男の瞳が照りかえる。
これより先は修羅の道。帰り道に仏は居ませぬ、光の指さぬ外道なり。
2
薬師に化けて村に入ると、男はまず村長の家を訪ねた。情報の少ない日々の中、少しでも娯楽が欲しいと、長に頼まれる。
「戦のほうは、いかがなもので?」
問いかける長の声音には不安がにじむ。時は戦国、乱世の時代。この村のすぐそこまで、地元の野武士が迫っている。しかしそれは口にはださない。むしろ自分が殺した後に野武士が荒らせば、この村に痕跡は残らない。
計算高くそう考え、男は言葉巧みにはぐらかし、標的のことを聞き出した。そして予想だにしない事実に驚いた。
「……子供?」
「ええ。生まれるのは……そう、あとひと月というところでしょうか」
好々爺といった表情で顔をほころばす村長に、男はただ黙り込む。
「今日はいかがなさるので? よろしければ一夜でも、泊ってゆかれては?」
その申し出に小さく頷き、通された部屋にて刃を磨く。
抜け忍狩りが男の任務。標的には死あるのみ。かつての友も今日の敵、一度、道を違えれば、もはや一筋の情もなし。心に刃を置いて鉄心と為す。たとえその標的が、腹に子を持つ女であっても。
忍びとは、人にして人に非ざる獣なり。忍びの道は外道魔道の類なり。ただ刃を研ぎ澄ます、殺しの道具にすぎぬなり。
3
夜半、丑三つ時。音もなくとある家を訪れた男は、家の壁板の前でぴたりと止また。家の中に、かすかに身じろぐ気配がある。明らかな同輩、しかし動きは鈍い。やはり身重であるがゆえか?
一言、男は声をかける。
「殺しに参った」
「……」
返事はないが、気配はある。
動揺はさそった。この隙をつけば容易に殺せる。命を絶てる。腹の子供の命ごと。
しかし男は、続けて尋ねた。
「幸せか?」
「……」
返事はない。が、気配はあった。それで察する。
「そうか」
武器を収め、背を向ける。闇に溶けるその背中を、朧な月影がさやかに照らす。
忍びの道は非情の道。情ある者には生きるも歩むもままならぬ。人の道とは交わらぬ、悪鬼羅刹の道である。
そして、一月が経過し、小さな産声が上がった。
4
夜半、丑三つ時。
沢を行軍する一団があった。くだんの噂にあった、あの野武士集団である。
ふと、一人の野武士が倒れた。
「おい、どうした?」
助け起こそうとしたもう一人が、倒れる。三人目が何事かと顔を向け、はじめて気づく。倒れた二人に、手裏剣が刺さっている。それが死因と察した瞬間、その男もまた倒れる。
一気に集団が騒然とした。その混乱を縫って一つの影が忍び寄り、闇夜に苦無をひらめかせた。
多勢に無勢。しかし怯まず、退かず。
鍛え上げた鉄心は、死の恐れなど感じない。ただ、挑むのみ。
5
一年の月日たち、幼子が大工道具の手入れをしていた。母親が、わずかに苦笑しながらそれを見守る。
「あなたは、伯父さんにそっくりね」
首をかしげる我が子を抱き上げ、母は墓参りに連れてゆく。
村はずれに、無縁仏の墓がある。
そこに誰がいるのか、子供は知らない。村人も知らない。ただ、かつて忍びであった一人の女だけが知っている。
かつて村を守った、一人の忍びがいたことを。
それでも女は語らない。
それが世を忍ぶ、忍びの道であるがゆえに。