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蓮と藤  作者: 讃嘆若人
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 勝照二年(西暦五八六年、皇暦一二四六年)、陳の年号では至徳四年のこと。

 陳の後宮で益々権勢を深めていた(ちょう)(れい)()であったが、彼女の周りにはイカガワシイ巫覡(ふげき)がひしめいていた。


璃茉(りま)よ、何か新しい情報が手に入ったようであるな。」


 麗華が一人の巫女に声をかける。璃茉と呼ばれた巫女は麗華に対して恭しく頭を下げながら言った。


「殿下、いよいよ(ちん)の毒が手に入りました。」

「ほぅ、あの鴆の毒が手に入るとは!私も運が良いか、悪いか、判らない女だわ。」


 鴆は中国の伝説の毒鳥である。大きさは鷲のようであり、黒っぽい紫の体から鮮やかな緑色の羽毛が生えており、赤い(くちばし)と黒い眼の怪鳥である。毒蛇を餌にすると言われ、そのためかその羽毛には猛毒がある。

 南中国に棲むというこの怪鳥は、過去に多くの暗殺事件に用いられてきた。一方、この鳥が姿を現すと国が亡びるという言い伝えもある。陳の前の王朝が梁だが、その梁のさらに前の宋の皇帝は鴆が現われたという話を聴き、鴆の毒による暗殺を恐れたのと、鴆の登場で国が亡びることを憂えたのとで、鴆が現われたという山を丸ごと焼いたと言われている。


「困ったわね。本物であれば国が亡びる兆し、偽物であれば使い道がない。かと言って、迂闊に効力を試すわけにもいかない。どうしたものか。」

「殿下、幸いにも毒は充分な数があります。まずは小者を殺すのに用いて、効果があれば本命を狙うのに使うとどうでしょうか?」

「ほぅ、それも良い手だわ。とは言え、バレないように小者を殺すことなど、できるかしら?下手に噂が流れても困るのよね。」

「殺しても大したことにならないから小者なのです。とは言え、殿下の敵を殺すと如何に小者でもあらぬ噂が立ちましょう。そこで、外国の要人を殺せばどうでしょうか?仮にこの事が表沙汰になっても、異国の者を殺したとなれば罪に問われることはありますまい。」


 ここで璃茉の脳裏に浮かんだのは、陳と対立していた隋や梁の人間のことであった。敵国の官吏を殺して何が悪い、ということである。

 だが、張麗華は「外国」と聞いて別のことを連想した。


「そうよね、夷蛮の者を殺しても罪には問われないわ。」


 麗華にとって「外国」とは「中国ではない国」のことである。「中華」の外にある「夷蛮」の民は文明を知らない野蛮人であり、それを殺しても罪に問われることはない――麗華は璃茉の言葉の意味をそう解釈した。


「そう言えば、東夷の民でよりによって仏教等という邪教を学びに我が国に来た男がいたわよね。彼もその国では高官であったらしいけど。」


 一瞬、璃茉は麗華が何を言っているのか、理解できなかった。麗華は恐ろしく記憶力が良い。どんな些末なことでも覚えているので、周囲の人間が彼女の話についていけないことは日常茶判事である。


「確か百済とかいう国だったと思うけど。」


 それでようやく、璃茉も了解した。


「日羅という百済の高官が南嶽(なんがく)大師の下で仏法を学んでいたそうですね。」

「ええ、この帝都で邪教を弘めていた慧思の弟子よ。彼を試しに殺してはどうよ?」

「仰せの通りにします。」

「璃茉、必ずやり遂げなさい。吉報を待ってます。」


 璃茉は張麗華の命令通りに鴆毒をもって百済行きの商船に乗り込み、百済へと向かった。巫覡は占いや呪術に頼りがちな船乗りたちと関係が深い。百済に行くこと自体は容易であった。船長も航海の安全を祈ることを条件に璃茉の乗船を許したのである。

 幸いにも嵐にも遭わずに百済に着いた璃茉は、日羅を探した。


「言葉が全く通じないのには参ったわね。東夷の蛮人は人間の言葉も喋れないのかしら?」


 璃茉は中国語でぼやく。


「日羅、日羅・・・・仕方ないわね。」


 璃茉は木切れを探し、そこに「日羅」と漢字を刻んで道行く人に聞きまわった。百済人の多くは文字が読めないが、一部に反応してくれる者がいた。

 何とかコミュニケーションを取り、日羅の屋敷に着く。


「漢語が判る人はいる?」


 璃茉は門番に言う。門番は最初意味がわからなかったが、なんとか身振り手振りで璃茉が中国人だと知り、中国語の判る書生を連れてきた。


「日羅に何か御用でしょうか?」

「私はね、南嶽大師様の弟子の智顗(ちぎ)の使いできたの。日羅様に逢わせてくれる?」

「承知しました。少々お待ちください。」


 そう言うと書生は中に入り、暫くするとまた出て来て言った。


「是非ともお話をお聞かせ願いたいそうです。」


 璃茉は書生に案内されて日羅の応接間に来た。日羅は先に座っており、机の上には二人分のお茶が置かれていた。


「君が智顗の使いの者かね。どうぞ、お茶でも飲んでゆっくりしていってくれ。」

「ありがとうございます。」


 璃茉はゆっくりと座る。


「懐かしいなぁ。私が陳に百済から行ったのは八年前のことだ。その後、百済でも北朝側の力が強くなったが、一昨年十一月にようやく私の主張が採用されて再び陳に朝貢するようになったんだ。今年も陳へ朝貢使を派遣する予定だ。」

「それは、ありがとうございます。智顗様は慧思様の弟子でありまして、慧思様の後継者として仏法を説かれています。」

「そうなのか。君は仏法についてどれぐらいの知識があるのかね?」

「私は単なる使いの女に過ぎませんわ。ただ、十界論というものを少しばかり習いました。」

「十界論、とは?」

「この世には十の世界がある、という話です。」


 璃茉は百済に来る直前に覚えた智顗の教説を思い出しながらしゃべっていた。


「その十界の名前は?」

如来(にょらい)界、菩薩(ぼさつ)界、(えん)(がく)界、声聞(しょうもん)界、天界、人界、阿修羅(あしゅら)界、畜生(ちくしょう)界、餓鬼(がき)界、地獄界の十界です。」

「ほう、人界の上に如来界と菩薩界、縁覚界、声聞界の四つがある、ということか。如来界は悟りを開いた世界であろうが、天界と菩薩界、縁覚界、声聞界の関係は如何に?」

「天界は輪廻転生の中にある世界ですが、菩薩界、縁覚界、声聞界は輪廻の外にある世界ですね。」

「そう智顗は言っているのか。ちょっと待ってくれ、ゆっくり話を聴きたいからちょっと『法華経』を持って来る。」


 そう言うと日羅は少し席を立った。その間に璃茉は自分の側のコップに鴆毒を入れる。無論、それを飲むようなことはしなかった。

 暫くして日羅が書生を連れて部屋に戻ってきた。書生は『妙法蓮華経』と記された書物を複数持っている。書生が『法華経』全巻を置いて立ち去る間に日羅が自分と璃茉のコップを入れ替えたのを璃茉は見逃さなかった。


「まず確認しておくと、智顗上人の言う天界には欲界天も色界天も無色界天もみんな含まれるのかな?」

「ええ、そうです。」

「それではだね、この方便品のところを見てほしいのだけれども、ここに声聞というのが出て来る、それと辟支仏(びゃくしぶつ)だね、この辟支仏というのは仏というからには如来なのだろうか、それとも縁覚なのだろうか?」

「ああ、はい、これは小乗の仏ですね。なので縁覚です。」

「そうか。君は中々賢いね。」


 そう言いながら日羅はお茶を呑んだ。「しめた」と思い、璃茉も自分のコップのお茶を呑む。


「そう言えば、ここには犀角はないんだよね。」

「ええ、そうでしょうね。」


 璃茉は笑みを浮かべる。


「もうすぐお別れですね。それにしても、鴆の毒だと良く見抜かれましたね。」

「かつて陳に行ったときに、諜報機関の人間もたくさん潜入させたからね。情報収集を怠ると国が亡びるからね。」

「そうですか、しかし、私の意識はしっかりしていますよ?あ、いや、鴆の毒では意識は失わないのでしたね。いずれにせよ、毒が回っているのは私ではなく――」

「君ではなくて、誰に回っているというのかい?今、君は毒が回っているかのように動けていないではないか。」


 そう言って一息ついた後、日羅は死んだように動かない璃茉に向かって言った。


「まだ意識はあるはずだから言っておこう。君は確かに賢い人間だ。だから、暗殺においても裏をかいていると思った。だからこそ、私は裏の裏をかいて二回コップを入れ替えたのだよ。」


 そして、不敵に笑いながら続けた。


「これまで私を殺そうとしたものは沢山いるけれど、誰も殺せなかったのは神の導きか、仏の慈悲か。いずれにせよ、私には生きて行うべき使命があるということだね。――折角(せっかく)だから、君がわざわざ支那から持ってきてくれた貴重な鴆の毒は倭国の父上にお渡しするよ。」


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