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「全く、あまりにも良い話が無さすぎる。」
筑紫の皇太子・多利思北孤は頭を抱えていた。彼は倭国の皇室の傍流の出でありながら、今の天皇の皇太子が暗殺されたことを受けて、急遽皇太子になった経緯を持つ。
「どうして百済の情報が入らないのだ?」
「殿下、それは申し訳ございません。」
多利思北孤が求めているのは、百済の外交政策である。百済と新羅は元々倭国の朝貢国であり、特に百済と倭国の間には人事交流もあった。
その百済が、倭だけでなく隋にも朝貢している。さらには昨年の11月には陳にも朝貢した。あまりにも節操がない。
天子は地上に一人しかいないはずが、二人も三人も天子と認めて朝貢するのである。一体、どういうつもりか訝しくなるのは仕方のないことだ。
「阿利斯登、お前の息子からは何の連絡もないのか?」
そう言われ、葦北阿利斯登は返答に窮した。
「殿下、息子の立場もあります。あまり百済のことを詮索するのは難しいのです。」
「それもそうか・・・・。」
阿利斯登は肥後の豪族であるが、息子の日羅が百済の政治家として出世していた。
「別に他の天子を認めるのは、余は構わないのだ。」
多利思北孤の言葉に阿利斯登が「え?」という表情になる。
「仏教においては天子というものは一人ではない。天子が一人と言うのは中国人が勝手に決めたルールだ。どうして倭国の者が従う必要があるだろうか?」
「それはそうですが・・・・。」
「そうだろ?私が百済について気になるのは、別のことだ。」
「別のこと?」
「隋にも陳にも接近する、ということからどうも百済はどうしても中国と近づきたいように感じる。そして、近ごろ、我が国に多くの百済人が入ってきているという情報がある。」
「はい。」
「嫌な予感はしないか?」
「え?」
「かつて新羅がこの倭国に攻めてきたことがあっただろ。」
「はい、数年前のことですね。」
「新羅がどうして播磨にまで侵攻できたのか、と考えると、我が国に多くの間諜が潜んでいたとしか考えられない。」
「はい。」
「最近の百済人の多さを見ると、もしや百済も、と思ってしまうのだ。」
「なるほど・・・・。」
確かに当時の朝鮮半島では諜報合戦が盛んであった。百済も一度、諜報の失敗によって国を滅ぼしたことがある。
――約百年前、高句麗には「道琳」という大物スパイがいた。
彼は、無実の罪で国を追われて、百済に亡命した。無論、これは自作自演である。道琳のことを、百済が信じるように、わざとそうした話をでっち上げたのだ。
さらに、道琳は官僚ではなく、一介の僧侶にすぎなかった。僧侶と雖も、当時は国家権力に組み込まれているのであるが、官僚と比べると、疑われにくい。
当時の百済の国王は、賭博が好きであった。当時の百済では、囲碁の勝負に金を賭かける博打が流行していた。道琳は、賭博はしなかったが、囲碁は得意であったので、百済に亡命すると、王宮の門番の者にこう言った。
「私は幼少のころから碁を学んで、たいへん上手になりました。王様は囲碁がお好きだと聞いております。どうか、王様の側近の方に申しあげて下さらないでしょうか?」
この話を聴いた王の側近が、試しに道琳と囲碁を取ってみると、果たして、中々の名手であったので、王に紹介することとした。王は道琳をかなり気に入って、上客として丁重に扱い、時間があれば道琳と囲碁を取ることにした。
かなり、王が道琳と懇意となったある日のことである。
王は、道琳の前でくつろぎながら、碁を打っていた。
「君も、くつろぎたまえ。」
そう、王は道琳に語る。道琳も姿勢を少し崩したが、どこかぎこちない。
「道琳よ、何か、気になることでもあるのかね?」
王は、気になって道琳に尋ねた。
「いえ、申し訳ございません。少し気になることがあっただけですが、王様には申し上げないほうがよろしいでしょう。」
「何を言うのか、私と君はこうして毎日のように囲碁を打つ仲ではないか、気になることがあれば、何でも言いたまえ。」
「しかし、王様が不快になるかもしれない話であります。」
「私の政治に何か、問題があるとでもいうのかね?」
「そういうわけではございません。王様は本当に素晴らしい方であります。・・・ただ、それに近い問題ではあるのですが――」
「何かね?遠慮せずに言ってみよ。」
「わかりました。しかしながら、私は、異国の人間なので、もしかしたら、大きな勘違いをしているかもしれません。そのことで、失礼があったとしても、お許しください。」
「いいとも。何でも、正直に言いたまえ。」
「この国は、四方には素晴らしい景観の山や、海に川に恵まれていて、誠に素晴らしい国です。しかし、にもかかわらず、王様の住んでいる宮殿は、私の故国の高句麗の王の宮殿と比べても、見劣りするのであります。私は高句麗を追われて百済の者となりました。百済こそが、私の本当の祖国であると思っております。にもかかわらず、その百済の王宮が、高句麗の宮殿よりも見劣りするのは、本当に残念なことであります。」
「そういうものかね?」
「はい。高句麗に負けないぐらいの豪華な宮殿に、王様には住んでほしいと思っております。」
「そうか。」
「王様の住む宮殿の立派さは、国家の威信にもかかわります。憎き高句麗の王よりも、自国の王が貧乏であると知ると、国民も悲しむでしょう。」
「なるほど、わかった。考えてみる。」
こうして、百済の国王は道琳のアドバイスを聞き入れて、自分の王宮を豪華なものに改築した。それにかかった費用は、国家の財政が傾くほどの者であったので、国民の王への不満は高まっていた。
百済の財政が悪化した情報は、道琳から高句麗へと報告された。
元徽三年(西暦四七五年、皇暦一一三五年)、高句麗は百済へ総攻撃としかけ、首都を占拠し、一時期、百済を滅ぼす大圧勝となった。
今の百済は、その後、再建された国である。一時的とはいえ、諜報戦での敗北が国を亡ぼすことを知った各国は、さらに諜報合戦を繰り広げることとなった――
このように当時の朝鮮半島の諜報合戦は激しいものがあった。当然、一度諜報で国を滅ぼした百済も、諜報の技術は磨いているはずだ。
「殿下も囲碁の棋士にはお気を付けください。」
阿利斯登がそういうと多利思北孤は笑った。
「その心配には及ばない。しかしながら、間者には充分に注意しないとな。」
そして暫く間をおいてから多利思北孤は言う。
「ところで、息長真手王なんだが、どう思う?」
息長真手王は仏教導入を進める多利思北孤に否定的な皇族であった。
「それは、息長真手王様は名誉を与えると満足されると思いますが・・・・。」
息長真手王は信念があって仏教に反対しているというよりも、保守的な性格なだけなのだ。自分に栄誉が与えられたならば強く反対することはあるまい、というのが阿利斯登の読みであった。
「なるほどな。それは大いに参考になる。」
それから暫く自分の領地についての一通りの報告を終えると阿利斯登は退出した。阿利斯登が退出すると多利思北孤は息長真手王を呼ぶように命じた。
一方、退出した阿利斯登は百済に渡った息子のことを思い出していた。この頃の阿利斯登には、息子の日羅の苦悩など知る由もなかった。親孝行な日羅は、父親には良い報告しかしなかったのである。