18
同年3月3日。
「この時期に伊勢の斎宮になるのか・・・。」
押坂彦人大兄王は溜息をつく。
「心配しないでくださいな、お兄様。私はきちんと務めを果たせますから。」
「そうか・・・。」
彼は目の前にいる妹の宇治王の笑顔を見ながら、何とも言えない不安に捉われていた。
「そんな不安そうな顔をしないでください、お兄様!天照大御神様に仕えられるとは、とても名誉なことではありませんか!」
「それはそうなのだがな、私も妹がそのような大任に就くのは嬉しいのであるが、本当に良いのか?」
「何が、ですか?」
「伊勢は遠い。何かあっても、俺がお前を守ることは出来ないんだぞ?」
すると、宇治王は噴き出した。
「これまでお兄様が身を張って私を守ったことがあって?」
「あ、いや、それとこれは別の話だろ。」
「心配しないでくださいまし。池辺王の護衛も付いていますから。」
「う~ん、ま、わかった。だからな、忘れるなよ?お前は俺にとって、とても大切な同母妹なんだ。亡き母上をこれ以上悲しませたくない。」
「私も同じ思いですわ?安心して下さいな、お兄様。」
そう言って、宇治王は出発してしまった。
(別に今生の別れと言う訳では無いのだが・・・。)
同じ屋敷に住んでいた妹がいなくなるのは、寂しいものである。
数日、いや、急げばその日のうちに伊勢まで行くことは、不可能ではない。
会おうと思えば会えるのだ、寂しがることは無い、と押坂彦人大兄王は自分に言い聞かせる。
門から宇治王の姿が見えなくなると、彼は一度家の中に入った。
(まだ1年は始まったばかりだというのに、本当に色々なことがあり過ぎた。)
正月には中国で陳が滅亡した。倭国では筑紫朝廷の天皇が崩御し、多利思北孤が即位したばかりだ。
これを受けて筑紫朝廷は改めて伊勢の斎宮を選定することにしたが、筑紫には適当な女王がいない。そこで大和の方に話が回ってきたのだ。
(ああ、本当に寂しいものだ・・・。)
押坂彦人大兄王は、未だに母親の死から立ち直れていない。
「大丈夫ですか?」
妻の大俣王が声を掛ける。
「次期大王の位も池辺王に譲るつもりだそうですね。」
「それ以外、何の手があるんだ。」
「まぁ、それはそうですけれども。」
「俺はもう、大王になんかなる気はないんだよ。母上の下に逝きたいものだ。」
「そう哀しいことを言わないでくださいまし。池辺王もすっかり気を遣って、妹君の付き添いをされているではありませんか。」
「ああ、確かに彼は良くしてくれて入るな。」
「そりゃそうですよ。王族同士対立して良いことなど、ありませんわ。」
「確かにな。」
だが、それでも、彼は心の中にある一抹の不安を拭い切ることが出来なかった。
「ちょっと、出掛けてくる。」
しばらくたち、彼は忍坂から飛鳥まで来ていた。すると綺麗な花が目についた。
「桃の花が綺麗だなぁ。」
桃の節句、という風習もまだない時代ではあるが、押坂彦人大兄王は桃の花を眺めて落ち着いていた。
ふと、桃の木の隣を見ると、松の木があった。
「変わらぬものの象徴、か。」
桃の実も松茸も、どちらも美味しいものの象徴であるが、松については冬も夏も変わらぬ緑だ。そんな松を見て、何となく安心感を覚える。
「どうなされたのですか?」
ふと、子供の声がする。振り向くと一人の子供と女官らしき女性の姿があった。
「あ、君は・・・。」
「厩戸王です。」
「そうだよな。君も散歩か?」
「ええ、そうですね。緑を見ると心地良いのです。」
「その年で緑の素晴らしさに気付くとは、流石は厩戸王だな。」
そう押坂彦人大兄王は言ったが、厩戸王には今一つピンと来なかった。
「緑って、泳いでいるような感じがするんですよね。」
「泳ぐ?」
「ええ、私にとって、緑は泳いでいるイメージです。」
「そうか・・・。」
まぁ、子供には色々な感性があるものだ、と思いつつ、押坂彦人大兄王は厩戸王に訊いてきた。
「ところで厩戸王、桃の花と松の葉とではどちらが好きかな?」
「桃と松ですか・・・。やっぱり、松ですね。」
「ほう、桃の花は泳いでいないからか?」
「いえ、桃の花はやがては散ってしまうので、哀しいのです。昨年も、桃の花が散ってしまう時は哀しかったものです。」
「そうなのか・・・。」
(やはりこの子の感性は天才だ、そもそも、この歳で昨年のことを覚えている子供などいない。)
そう思いつつ、女官の方を見てみた。
「君は?」
「私は小野日益姫と申します。」
「ほう、小野氏の女官か。」
「はい、厩戸王様の乳母をさせていただいております。」
「そうか、私は押坂彦人大兄王だ。」
「それは失礼しました、大王殿下におかれましてはご機嫌麗しゅうございますか?」
「ああ、ごきげんよう。そなたの父は?」
「お蔭様で。」
「そうか。それにしても、中々賢い御子であるな。」
「確か、御子様が生まれた時に乳母をつけることになったのは、押坂彦人大兄王様の震源があったとか。」
「そういうこともあったかな?何せ、いずれは大王になるかもしれぬ御子だからな。」
「いえいえ、次の大王は押坂彦人大兄王様でしょ。」
「いや、叔父上でいいんじゃないか?」
「池辺王様も素晴らしい方ではありますが。」
「気張らなくていい。斎宮になる妹と親しくしているのは、やはり大王になりたいからだろう。こちらもわざわざ護衛をして下さっていることには感謝している。」
「いえいえ、やはり押坂彦人大兄王様も大王位が欲しいでしょ?」
「巷でどういう噂があるかは知らんが、こちらはここ数年、母上のことを思い出してそれどころではなくなっているんだよね。」
「あ、それは失礼しました。」
「妹が斎宮になったのも、私が大王になる布石とか言う人がいるけど、私は妹に斎宮なんか、してほしくなかった。残された、大切な、大切な、家族なのに。そう簡単に伊勢へと出せるものか!」
「ああ、だけど、妹君と言われますと、坂騰王様も居られますよね?」
「そう言う問題では無いだろ!確かに、坂騰王がいるだけでかなり救われている面もあるが・・・やっぱり、もうこれ以上、家族が離れ離れにはなりたくないんだよ・・・。」
「そうですか、ただ、家族が離れ離れになりたくない、と思いも強すぎると我の想いで却って人を不幸にするかもしれませんよ?」
「え?」
「あ、いえ、失礼しました。差し出がましいことを。」
「いや、別に良いのだが・・・。何か言いたいことがあるのか?」
「いや、折角宇治王様が念願の斎宮になったのですから、それを祝福してあげませんと、と思い。もしも押坂彦人大兄王様の願い通り宇治王様が大和に戻られてもですね、それが宇治王様にとって幸せなことかどうか。そんなことよりも、宇治王様に何か贈り物でもされたらどうですか?」
「ふむ。贈り物か。何を送ればよいのだろう?」
「押坂彦人大兄王様の屋敷には桃の木はありますか?」
「ああ、私の屋敷にもあるよ。」
「では、その花を送らせるのはどうでしょうか?」
「なるほど、それはそうか。良い話を聞いた、ありがとう。そなたの父上によろしくお伝えしてくれ。」
「どういたしまして。」
「厩戸王、すまんな、こちらの話で時間をとって。」
「いえいえ、気にしないでください、叔父上。」
「厩戸王・・・私はそなたの叔父ではない、従兄だ。」
「あ、そうなんですか?従兄上?」
「・・・また話そう。ごきげんよう。」
「ごきげんよう!従兄上!」