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蓮と藤  作者: 讃嘆若人
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 勝照五年(西暦五八九年、皇暦一二四九年)正月元旦の南京。正月とはいえ、祝賀モードではなかった。


「もう、この国の滅亡は近いのでしょう。」


 給事中・殷不害は天台大師・智顗の寺で思わず溢した。


「国と言うのものに拘るものではありませんよ。貴方の子供も隋にいるではありませんか。」

「それはそうなのであるが・・・。」


 殷不害の子供は隋の官吏である殷僧首だ。今や、敵方である。


「いざ、自分と我が子が敵国同士になりますとな。」


 この時、隋と陳とは全面戦争状態になっていた。昨年十月、隋の文帝は五十万以上の大軍を南下させ、陳を亡ぼしに来た。隋軍が南京に迫るのも時間の問題だ。

 街は静かである。逃げ足の速いものは既に逃げた。残った人間は何かのために買い溜めをして、ひっそりと家の中に閉じこもっている。


「病気は治しても政治は治せませんか?それだと本物の信仰とは言えませんね。」


 そう言って智顗は微笑む。


「この儂の中にすら仏性がある、という有難い教えを聴いた時には病気など吹き飛んだものであるが。」


 殷不害は高級官吏でありながら病弱であった。様々な道士や巫覡に問い合わせても治らなかった。特に年を取った後は「老衰でしょう」と言うものまで出てくる始末であった。

 そんな時にであったのが、高僧の誉れの高い智顗であった。永陽王の紹介で智顗にあった殷不害は、一切の衆生に仏性が宿るという彼の話に聴き入り、気がついたら病気も治っていた。


「仏性があるのであれば、どうして政治は上手くいかないのでしょうか?」

「仏の世界に国境はありませんからね。無いものに捉われては上手くいかないのも当然でしょう。」

「智顗殿はこの国が亡びても良いといわれるのですか?」

「本当に、この国は亡びるのでしょうかね?」


 そう言いながら智顗は微笑む。


「私のことを売国奴だという者もいました。『南嶽大師様は愛国者であったのに、智顗は売国奴だ、愛国心がない』と。確かに、私は言いました、仏の世界に国境はない、と。しかし、中国が亡んでも良いとは、言っていませんよ。」

「国を守れ、とも言っていなかった気がするが。道教とは違い、仏の教えは愛国の教えではないであろ?」

「そうでしょうか?私には老荘の教えがそもそも国を愛することを説いているようには見えませんが。」

「それはそうだが・・・。」

「昔、摩訶陀国の阿闍世王が戦争をした時、釈尊はこう言われました。『阿闍世王は常に悪に親しんでいる。征服は憎しみを生む。征服されたものは惨めである。しかし、安らぎを得、煩悩を断った人は幸せに生きる。その人には征服も敗北も無縁である』と。」

「ほら、仏教は国のために闘うことを否定しているではないか。無論、智顗殿のように悟りを開いたものは陳が隋に征服されても、煩悩を断っているから征服も敗北も無縁の生活が出来るだろう。しかしな、この年になっても煩悩の深い儂には土台無理な生活だ。」

「さて、その阿闍世王の前の頻婆娑羅王の時代のことです。国境付近が騒がしくなり、頻婆娑羅王は軍を派遣して騒乱を鎮圧しようとしました。しかし、摩訶陀国の仏教徒の複数の将校は考えました、『この争いは不殺生、非暴力を説く釈尊の教えに反するのではないか?』と。」

「その通りであるな。しかし、軍人ならば戦わなければなるまい。」

「ええ。そこで、その将校たちは軍人を止めて出家することにしたのです。」

「なるほど。僧侶になれば戦わずに済む。」

「ですが、頻婆娑羅王の訴えでそれを知った釈尊は激怒しました。釈尊は『私は不殺生の名の下に国に対する義務を放棄して良いと言った覚えも許した覚えもない』といい、王の麾下にあるものを王の許可なく出家させることを禁じたのです。」

「ふむ、そう言うことならば、仏教は愛国の教えであるともいえるな。」

「問題は、その『国』とは一体何なのか、ということです。」


 その時、突如として外が騒がしくなった。


「何事だ?まさか・・・。」


 殷不害は嫌な予感がした。寺の門の方へと向かうと、外の騒ぎが聞こえてきた。


「城門が破られたぞ!」

「北狄の大軍が攻めてきた!」

「軍隊は何をしている!」

「兵士どもが戦わずに逃げたらしいぞ!」


 南京城の中は大混乱に陥っていた。


「殿下、あまりにもあっけなさ過ぎますな。」


 隋軍を率いて南京城に入場した唐公李淵は総大将である晋王に言う。


「そうか?陳は弱体化しているという専らの噂だったからな。」

「しかし、私が聴いた限りでは、梁平定の際にももう少し抵抗はあったということですが。」

「ま、一応、伏兵等には気を付けるべきではあるな。」


 すると元帥の高熲が口を挟んだ。


「彼らはもしかしたら、道家の呪術に嗜んでいるのかも知れませんぞ?」

「道家の呪術?」

「ええ。皇帝陛下も言われていたでしょ、偽帝の首入らぬ、しかしイカガワシイ巫覡は殲滅せよ、と。」


 隋軍の最先頭を引いていたのが殷僧首であった。父親が陳の人間であるからもっとも危険な前線に送られている。無論、後ろには督戦隊がいて、彼が裏切ろうものなら直ちに攻撃する手はずを整えている。の、だが、そもそも陳の抵抗があまりにも弱かったため、殷僧首の軍はほぼ無傷で南京城に入場し禁中へと向かっていた。


「あっけないな・・・。」


 殷僧首は呟く。だが、勝って兜の緒を締めなければならない。殷僧首は声を張り上げて全軍に命令した。


「気を抜くな!偽帝を生け捕りにするまで戦いは続くぞ!」


 殷僧首の号令により、兵士たちは豪華に飾られた陳叔宝の宮殿に殺到する。


「陛下!隋軍が攻めてきました!」


 袁憲は結綺閣の入り口で大声を張る。


「・・・そうか、中華が夷狄に敗れる日が来たか。」


 そうぼやきながら、皇帝陳叔宝は張麗華と妹の寧遠公主とを連れて出てきた。


「陛下、国が亡びるときも毅然とした態度で望んでくださるよう、お願いします。」

「待て!朕は逃げるぞ!」

「逃げるって、陛下・・・。どこに逃げるというのですか!」

「井戸の中だ!行くぞ!」


 そういうなり陳叔宝は愛妃と妹を連れて駆けだした。


「陛下!陛下は中国の天子ですぞ!」

「本当に朕が天子ならば天が見放すものか!」


 袁憲は唖然として追うこともできなかった。すると数人の兵士たちがやってきた。


「汝は何者ぞ!」


 兵士の一人が声を張り上げる。


「余は大陳帝国尚書僕射袁憲なり!」

「そうか、皇帝の居場所は知っているか?」


 この時、思わず魔が差したのだろう、袁憲は素直に言ってしまった。


「井戸の中だ。」

「そうか、天命に随った態度、感謝する。因みに覚えておけ、私の名は隋の丞官、殷僧首だ。」

「殷給事中の倅か・・・。」

「そうとも言うな。ではまた。親父の誼のようなのでここでは首は刈らぬ。」


 そういうなり殷僧首は部下と共に井戸を探しに行った。


「隊長、ここに井戸があります。」

「そうか、人がいるかどうか試してみよう。」


 そう言って殷僧首が井戸の中に石を投げると声がした。


「何者だ、朕に石を投げるのは!」

「なんだ、井戸の中にどんな蛙がいるかと思ったら、思わぬ大物が潜んでいるようだな。そのまま餓死するか、助け出されるか、どっちが良いか?」

「あんたが朕を助けるというのか?」

「あんたをわざわざ殺しても意味ないよ。で、どうだ?助けてほしいか?」

「助けてくれ!朕にはまだまだ作りたい詩がある!」

「ほう、そうか。」


 殷僧首は部下に紐を井戸の中へ垂らすよう命じた。


「殷僧首様、なんか重いですぞ・・・。」


 紐を引き上げている兵士の一人が言う。


「そうか、さぞかし暴飲暴食をして太った蛙であるな。ゆっくりでも良い、しかし、決して落とさぬようにしろよ。」


 そうは言ったものの、中々引き上げることができない。


「おい、お前ら、大丈夫か?その蛙、どんだけ太ってるんだ?」


 殷僧首は流石に部下の体力が心配になる。


「殷僧首殿、そっちは順調かね?」


 後ろから声がするので殷僧首は振り返ると、予想外の人物に慌てた。


「高元帥閣下!」


 そこにいたのは元帥として陳討伐軍を率いている義寧県公高熲であった。


「こちらに賊帝がいると聞いてきたのだが。」

「はい、今、井戸から引き上げているところであります!」

「そうか。」


 すると引き揚げ作業中の兵士たちからどよめきの声が上がった。


「これはなんだ!」

「女が二人もいるぞ!」

「は?ちょっと待て、陳叔宝だけじゃないのか?」


 殷僧首がそう言いながら確認すると、紐の先には陳叔宝に張麗華、寧遠公主の三人が連なっていた。

 三人が引き上げられると、高熲はその内の一人の方を向いて言う。


「お前が張麗華か?」

「そうですけど。早速私を戦利品になさりますか?」

「この女を連れていけ。公開処刑だ。」


 高熲は近くの部下に命じた。


「手加減するなよ。妲己並みの悪女に温情は必要無い。」


 そこへ晋王と唐公がやって来た。


「これはこれは、晋王殿下に唐公殿下。悪女は処刑ということにしましたが、残りの二人はどうしますか?」

「どうして処刑にするのだ?」


 晋王が言うと高熲は臆することなく答えた。


「この女こそ、例の巫覡の親玉です。イカガワシイ巫覡は殲滅せよ、との勅命ですので。」

「まぁ、良い。この賊帝の妹は父上の後宮に入れることになっている。」

「晋王殿下、賊帝の妹を後宮にですか?」


 唐公李淵が訊いた。


「そうだ。」

「あの嫉妬深い皇后陛下が認めますかね?」

「その時は李淵、お前が貰ってやったらよい。」


 そうした会話を聞いて陳叔宝が言った。


「張麗華が殺されたのか・・・。」

「安心しろ、お前は妹と娘を差し出すと殺さない。」


 そう言って晋王は意味深に笑う。


「娘?」

「ああ、陳婤とかいう娘は余のものだ。なぁに、可愛がってやるだけだ。」

「ちょっと、殷僧首。」


 司令官たちのやり取りを呆然と眺めていた殷僧首に、高熲が声をかける。


「お前は智顗という男の寺を接収せよ。晋王殿下は仏教に関心があり、智顗という高僧に会いたいと言っている。」

「あ、はい、承知しました。」


 殷僧首は天台大師智顗のいる寺へと向かった。


「隋国秘書丞、殷僧首である!この寺を接収に参った!」


 そう宣言すると、一人の初老の男が出てきた。


「殷僧首か、立派になったな。」

「父上!」

「儂はこれでも陳の給事中。儂の首を刈りに来たのかな?」

「いえ、私は智顗殿をお迎えに参っただけであります。隋は陳の官吏を殺すことはありません。」

「そうか、しかしな、我が子よ、忠臣は二君に仕えずというのだよ。智顗様は私が呼んでくるから、しばし待たれよ。」


 そういうなり殷不害は奥へと向かった。


「智顗様、倅が来ましたわい。」

「そうですか。国境がなくなった今、父子ともに仲良く暮らしたら如何ですか?」

「そんなことして何になります、儂にとって中国とは、この陳の国だけですわい。」

「二十年以上も長安に住んでいた自分を許せませんか?」

「人生、色々ありました。母を亡くした時は、北朝の奴らが許せなかった。なのに儂は生活のために北朝の地で暮らした。生活のために、不孝の罪を犯したのですよ。」

「自分を許せないものは人も許せませんよ。」

「もう良いのです。既に覚悟は決まっております。」

「判りました。止めはしません。」

「倅をよろしくお願いします。」


 この日、殷不害は鴆毒を飲み自害した。智顗は晋王の下で保護され、長安に暮らすこととなった。

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