12
勝照三年(西暦五八七年、皇暦一二四七年)十一月のこと。
「迹見殿はどこだ~。」
一人の武人が押坂彦人大兄王の屋敷の庭を歩いていた。
「坂上殿、何をされているのか?」
ふと、回廊の上から少女の声がした。
「あ、坂騰王様!」
「お兄様の舎人を探しているのか?」
押坂彦人大兄王の妹で宇遅王の姉である坂騰王は、16歳の少女にしては落ち着いた声で語りかけた。
「はい、今後の打ち合わせもしたいと思いまして・・・。」
「そうか、遊ぶ約束をするために会いたいわけではない、と。」
それを聞いた武人は、一瞬ドキッとした顔になる。
「打ち合わせということであれば、蘇我馬子殿の使いに来られたのでしょうか?」
「いえ、そういう重大な用事ではありません。ただ、少し会う約束をしていましてね。」
「そうなのか。」
そう言いながら坂騰王は目の前の武人――蘇我一族に仕える坂上駒子の顔を見た。
「そう言えば、私が幼い頃は駒子殿に三輪山に連れて行ってもらいましたね。」
ふと、親しみを込めた声で坂騰王がいう。
「そうです、女王様。あの頃はよく押坂に来る機会がありましてな、迹見殿ともあの時にお会いしたのですよ。」
「そうだったのですか、私の幼い頃なので記憶にあまりありませんわ。」
「あの頃は彦人様もまだ子供でしたからな。」
そう二人が話をしていると、一人の男が駒子の横から声をかけた。
「坂上殿ではないか!久しぶり!」
「おお!迹見殿!」
そこにいたのは押坂彦人大兄王の舎人(側近)である武人の迹見赤檮だった、
「失礼、坂騰王様とお話し中であったか、無粋な真似をして申し訳ない。それでは。」
「いやいやいやいやいや、ちょっと待て!俺は貴様を待ってたんだぞ?」
「何?お前がこの私を待ってただと?正月にお祝いの品の一つもよこさないお前が、か?」
「それは貴様も一緒だろ!正月どころか、俺の子供が産まれても挨拶すらしないくせに!」
「なんだ、お前はその事を根に持っていたのか。申し訳ない。坂騰王様とのお話を邪魔したことも、重ねて申し訳ない。じゃあ、またな。」
「違う違う違う!貴様が振った話題だろうが!貴様が見つからなかったから、時間潰しに坂騰王様と話をしていただけだ!」
「なんとまぁ、レディを暇つぶしに使うとは・・・・・お前がそのような男だとは思わなかった。絶交だな。」
「いや、そういう意味では・・・・なぁ、いつまでこのやり取りを続けるんだ?」
「すまんすまん、あ、坂騰王様、御前でしょうもないやり取りをして申し訳ございませんでした。」
そう言って迹見が逆登王に向かって頭を下げると、坂上も一緒に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ二人の邪魔をして申し訳ありません。」
そう言いながら、笑いをこらえた顔で坂騰王は去って行った。
「で、駒子。何か大切な用事でもあるのか?」
「大切な用事はないが、お互いの近況は確認しておきたいな。」
「お互いの親分の近況、ではないのか?」
「そうともいう。」
「それじゃあ、まずはお前の親分の様子を聞きたいな。どうだ?」
「どうだ、って。まぁ、元気だぞ?」
「私の親分のことはどう思ってる?」
「押坂彦人大兄王様のことも悪くは思ってはない。ただ、仏法にどこまで理解があるのか、それだけを気にしている。」
「そうか。池辺王様とは?」
「仲は良いぞ。まぁ、彼には野心が無いからな。」
「そうなのか。確かに、最近うちの親分は池辺王様とは仲が良いな。厩戸王様の誕生がきっかけになったようだが。」
「それはちょっと微妙な問題がある。厩戸王様がまだ赤子なのに注目を集め過ぎている。池辺王様の後継者は田目王様だ。」
「まぁ、確かに田目王様の方が兄だわな。」
「どうして貴様の親分がまだ赤子の厩戸王様をそんなにリスペクトするのか、こっちの親分はちょっと訝しんでいる。」
「子供が好きなだけだろ。赤子は可愛いものだ。」
「赤子ならばどこにでもいる。」
「無論、池辺王様と仲良くしたい気持ちもあるだろう。」
「それならば池辺王様の長男である田目王様にも接近するはずだ。」
「何が言いたい?」
「うちの親分は色々と疑り深い性格でな。貴様の親分にはもしかしたら田目王様と距離を置きたい事情があるのでは、という推察だ。」
「そんなバカな。まさか、まだまだ子供の田目王様が大王位を狙っているという訳でもあるまい。」
「田目王様は、な。田目王様に近い存在だと、どうだ?」
「うん?まさか、池辺王様が大王位を狙っているのか?」
「な、訳ないだろ。それだと貴様の親分は厩戸王様のことも遠ざけるだろうよ。」
「そうだろ?それじゃあ、どういうことなんだ?」
「難波王様のことは知っているか?」
「うん?あ、そういえば彼は田目王様と仲が良かったな。もしかして――」
「あくまで推測だ。うちの親分もそうと決めつけているわけではない。」
「俺もだ。うちの親分が難波王様を疑っているとは思いたくない。」
「その逆もな。」
「ああ。まさか、難波王様が大王位を狙っているとも思いたくないしな。」
その後、二人は互いの私生活の話題になった。一通り話題が尽きると坂上駒子は去っていった。
迹見が坂上を見送った後ぐらいに1人の女性が押坂彦人大兄王の宮殿に向かって走ってきた。
「うん?あ、あの人は・・・。」
迹見は見覚えのある女性の姿を視界に認識した。
「あ、赤檮殿!」
「菟名子じゃないか、どうしたんだ?」
「ちょっと、馴れ馴れしく声をかけないで!」
「馴れ馴れしく、って、俺と菟名子の仲だろ!」
「もう!誤解を招くことを言わないでよ!私は大王の采女で子供もいるのよ?」
「誤解も何も仲が良いのは事実ではないか!それとも、そんなに俺と友達だと思われるのが嫌なのか?」
「ちょっと、今は本当に急いでいるの!」
「うん?何があったんだ?」
「何って、もう!大変なのよ!早く殿下を呼んで!」
「早くって、この夕方に・・・。」
「いいから早く!大后様が大変なの!」
「え?大后様が?」
迹見赤檮は慌てて押坂彦人大兄王を呼んできた。
「赤檮が慌てていたが、何があったのだ?」
「大変なんです!大后様が食事中に意識を失われたんです!」
「何だと?一体、母上に何があったんだ?」
「それが判らなくて・・・。」
「迹見!今すぐ母上の下に向かうぞ!」
押坂彦人大兄王は迹見を連れて大后広姫の屋敷に向かった。
「母上!母上!しっかりしてください!」
押坂彦人大兄王は広姫の手を取って必死で声をかける。その後、押坂彦人大兄王の妹の坂騰王と宇遅王も駆けつけてきた。
三人の子供は広姫に声をかけているが、広姫からは反応はない。
「一体、何があったのですか?大后様は元から体調が悪かったのですか?」
迹見は使用人に聞く。
「いや、そんな素振りはなかったが・・・。」
「食事をすると本当にいきなりで、驚きましたよ。」
彼らは口々に言う。
「食事を?夕食ですか?」
「ええ、そうです。」
「今日の夕食は何だったのですか?」
「基本いつも通りではありましたが、確か・・・。」
すると采女の大鹿菟名子が言った。
「鯛醤よ、難波王様が送ってきたの。」
「難波王?ちょっと、菟名子、こっちに来てくれ。」
「何なの?」
「いいからこっちに!」
迹見は人気のない所に菟名子を連れて来て言った。
「ちょっと、難波王の周辺で不穏な空気があるという噂がある。」
「え?」
「彼か彼の母が広姫様を暗殺し、押坂彦人大兄王様を蹴落として大王位を狙っている、というのもあり得ない話ではない。」
「そんな、まさか・・・・。」
「しかし、難波王の鯛醤を食べてからこうなったのだろ?タイミングが良すぎないか?」
「確かに・・・・。」
「とりあえず、難波王が怪しいことは大王様と解部につたえてくれ。」
「・・・・仕方ないですね。」
菟名子はため息をついた。
「ねぇ、赤檮。もしかして、再び王族同士が争い合う時代が来るの?」