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天界の虚空に広がる雲海の上に、水晶や瑠璃、玻璃、瑪瑙によって作られた雅な宮殿があった。
その宮殿に住む金色の袈裟を纏った一人の高僧がいた。彼は宮殿からゆっくりと歩を進めつつ出て来ると、雲海の上に降り立った。
そして雲海の上から下界を見下ろした。
天界は霊界の一つ。雲海の上からも地上のことが克明に見えるのである。
高僧の視線の先は当時中国南部を支配していた大陳帝国の天台山に向かっていた。そこでは後に天台大師と呼ばれることになる智顗が、大乗仏教の真髄を著した経典『妙法蓮華経』の研究をしていた。
この智顗の『法華経』研鑽の日々を天界より見守っている彼こそ、智顗の師である慧思である。
「青は藍より出でて藍より青し、というが智顗の学は慧思より出でて慧思より深し。もう既に彼は生前の私を越えておる。嬉しい限りだ。」
天界の慧思は涙を流しながら愛弟子の研鑽の日々を見ていた。
「愛弟子の生長が嬉しいですか?」
慧思の背後で一人の少女が語った。
緑色の透き通るような服を着ておきながら、体が透けて見えることのないその少女は、慧思の後姿を美しい絵画でも見るかのように見つめていた。いや、彼のオーラに見惚れていた、といっても良いかもしれない。
偉大な宗教家というのは単に頭脳が優れているだけでなく、死して尚残る偉大なオーラがあるものである。慧思のそれも、偉大なる宗教家に特有のものであった。
「当然だ。彼と私は過去世で、共にお釈迦様の教えを学んだ縁なのだ。」
智顗が慧思の下に入門したのは蔵和二年(西暦五六〇年、皇暦一二二〇年)のことであった。彼は十八歳の時に戦火に遭い両親を亡くし、幼いころから親しんでいた仏教に人生を奉げようと決意していた。
そんな智顗を見た慧思は、彼がかつてインドにおいて共にお釈迦様の説法を聞いた同士であると見破ったのである。
彼の才覚は陳の皇帝である宣帝にも認められ、天台山で道場を開き修行すると聞いた時に宣帝は勅命で彼を慰留したほどであった。
「しかしながらこの『法華経』の教えを中国以上に必要としている国があるのです。」
「倭国、か。」
慧思はかつてその少女から告げられた国の名前を口にした。
倭国を支配していた筑紫朝廷(九州王朝)の歴史は、日本列島をつくられた神である伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いを行った時に、太陽の神である天照大御神、月の神である月読尊、海の神である素戔嗚尊を始めとする神々が誕生したことに始まる。
その中でも最も貴い神は天照大御神であった。太陽神が女神である神話の国は珍しい。砂漠の世界であるアラブでは太陽は残酷さの象徴であるらしいが、この国において太陽は大自然に恵みを与える愛の象徴であった。
しかし、最近の倭国は混乱に満ちている。
賢称三年(西暦五七八年、皇暦一二三八年)に筑紫朝廷の太子は暗殺され、鏡當三年(西暦五八三年、皇暦一二四三年)には新羅の軍が筑紫から播磨の一帯を焼き討ちにした。
太子が暗殺され新羅との戦いで皇族も多く戦死した筑紫朝廷において、新たに皇太子に擁立されたのは、多利思北孤であった。
彼は仏教に通じており仏法によって日本を治めようとの野望を抱いていた。しかし、彼は仏法を伝える師に恵まれなかったのである。
時は天台大師智顗がまだ『法華経』の研究を始めたばかりの頃。彼が後に完成する天台教学がこの時点で多利思北孤の耳に入らなかったことは当然のことである。
「如意輪観音様の頼みであれば倭国に仏法を伝えるため、再び転生するにやぶさかでない。」
「慧思様、私に様付けはおやめください。私はただの龍女ですから。」
「貴女が単なる龍女でないことは判る。」
そう言いながら慧思は振り向いた。慧思の顔を龍女は光悦に満ちた表情で見つめる。
「あ、お恥ずかしい所を・・・・お判りでしょう、私は衆生の一人にすぎないのです。」
「それは私も同じだ。」
「慧思様は下界において出家せられた。」
「それが果たして正しかったのか、私は知らない。」
「俗世に交じっていてはいつまでたっても悟りは開けないでしょう。」
「悟りを開くことが修行の目的だろうか?」
慧思の問いかけに龍女は黙る。
「俗世に交じって衆生を救済しなければ、本当の意味での菩薩道を成就することはできない。」
「それでは王様に生まれ変わられますか?」
「それも良いが、あまり政治に心を捉われるのも困る。」
「しかし、俗世の人間と交わり道を説くおつもりなのでしょ?」
そういう龍女の頭を慧思は静かに撫でた。
「お前の方が俗に塗れているな。」
「でしょ?私が如意輪観音だと言って後悔した?」
「ふふっ、後悔はせんよ。」
「どうして?」
「お前には能力があるからだよ――この私の守護神をするだけの能力がな。」
慧思に言われると龍女は照れたように俯いた。
「で、倭国の皇族に生まれたら良いのかな?」
「ダメとは言わないけどお薦めしないわ。」
龍女は再び顔を上げる。
「妙法蓮華経、の『蓮華』の二文字が筑紫には欠けているの。」
「ほう、それはなかなか面白い表現をする。仏法を学んだものにしか通じない言い方だな。」
「それぐらいじゃないと貴方の守護神は出来ないわ。」
そう言いながら龍女は東の倭国のある方角を見る。
蓮華の花は太陽信仰の象徴であった。蓮の花は一つの中心から多数の花弁が出て綺麗な形を彩っている。古の僧侶はこの蓮華の形に太陽を中心とする宇宙を見ていたのである。
歴代の筑紫朝廷の王者は太陽の女神である天照大御神を祭祀してきた。それがいつの頃からだろうか、天照大御神よりも月読尊を熱心に祀るようになったのは。
「で、蓮華の花はどこに咲いているのだ?」
「大和の国に咲いていますわ。」
それに対して九州王朝の王子である磐余彦大王を初代とする大和王朝は、熱心に天照大御神を祭祀し続けた。
大和で傍系の男大迹大王が即位した時、彼は自分で傍系であることを自覚しているからか、娘の荳角女王を伊勢に派遣するほど熱心に天照大御神を祭祀した。一方、筑紫はその頃には伊勢に斎宮を遣わすことはしなかった。時の筑紫の磐井天皇は乱に遭って非業の死を遂げ、この時から筑紫の命運は変わった。
「やまと――良い響きであるな。」
「八方を纏める、という意味が込められているの。」
「それは良さそうな土地だ。」
「私は罪を犯して大和の王族に生まれることができない身。それで今はただの龍女に落ちぶれました。しかし、慧思様ならば・・・・慧思様ならば、きっと今の倭国を救えるであろうと思うのです。私は天界から慧思様を全力で、全力でサポートします。」