ミルクは安眠の友
熱しすぎたミルクは最早凶器といっても過言ではなく、穏やかな酪農の風景を思い起こしながらカップに口をつけたキョーコは、たまらず悲鳴をあげた。
幸い飛び跳ねることはなかったので溢れはしなかったが、彼女の唇は真っ赤になっている。舐めるとピリリと痺れた。キョーコは上唇を下唇で慰めながら本の続きを読み進める。
「魔力……は、……なんだこれ。えーと、辞書、辞書………………プラズマ? 血漿? 人の体のなかのプラズマ部分が魔力になっている人が、ヨーサリです、と……。要するに血って意味かな……うー、だめだぁ。医学に関わる単語は流石に難しいよぉ……」
保健体育中等部用教材。
キョーコがにらめっこしているのはそれだった。ただの教科書ではなく、ヨーサリの中等部で使用される教科書である。子ども向けの教材であっても単語他全てテ・ルーナの言葉で書かれており、流暢にアルヴィンたちと話すキョーコですら読み進めるのに時間がかかっている。
新ヨーサリ国である藤夜皇国。彼の国ではアシタたちもヨーサリについて深く学ぶための教育システムが構築されている。そのなかのひとつに語学教育があるわけだが、キョーコは学年でもトップを争えるほどの勤勉家であった。テ・ルーナ王国と同じ言語を扱うエヴァリカ合衆国への留学経験もあるため、アルヴィンたちとの交流も難しくはなかい。
しかし医学分野の単語はてんで駄目だった。何故なら彼女は理科が壊滅的に出来ないのだ。分野は問わず、『理科っぽい』だけで頭が全く働かなくなるのだと本人は語る。
(勉強になると思ったけど……もうそろそろ寝ないと夜、起きられなくなる)
初実地訓練の日から一日休日があって、そして本日。午後十時から本部にて訓練の続きである。
テ・ルーナ王国はヨーサリの国ということもあり、国を挙げて夜型人間の育成に努めている。
……と、これは冗談であるが、ヨーサリによる奇跡の技により観光国として成り立っている一面もある国故、観光客が真夜中でも街を彷徨くのだ。彼らを対象に商売をする店も少なくはない。流石に十二時を過ぎると街はしじまを取り戻すが、夜がこの国のコアタイムになっていることは否めない。
騎士団特別捜査隊はこの国とその静寂を守る部隊だ。勤務時間が夜になるのも当然のことである。
(この本は取り込もう。あんまりやると疲れちゃうけど、人体構造知識は必須だもんね)
キョーコはホットミルクをちびちびと舐めながら、ベッドの上のパジャマを手繰り寄せる。履いていた靴下だけは脱ぎ捨てて、パジャマに着替え始めた。シャワーは起床後が好みである。
キョーコは着替える片手間に、慣れた手つきで教科書を頭の上にかざした。そうして息をするように自然に、何の違和感もなく、その手を離したのだ。教科書を持った手を。それは落下する。ぶつかれば痛いサイズと重さだ。
ぶつかれば、だが。
結論としてキョーコは痛みに悶えることはなかった。それどころか余裕の表情でパジャマのボタンを留めている。彼女の頭上で掲げられていた教科書は姿を消していた。
(五分ってとこかな)
肩下まで伸びた髪をシーツに散らばす。目覚ましを午後八時半にセットして、キョーコはベッドへとダイブした。
(……ようこそ、極楽の地へ)
山の木の囁き、干し草の匂い、たおやかな乙女たちのさえずり。太陽の抱擁、またあるいは荘厳な月の眼差し。この世の苦しみと憎しみから隔絶された福地の園。
キョーコは意識の中でそこに居た。
誰も自分を気にしない場所。好きな格好で、好きなことをする。先程まではあれだけ読みにくかった教科書が、嘘のようにスラスラと読めた。
血液の中にある液体成分であるプラズマ。それらに魔力を宿す者がヨーサリである。プラズマのなかで魔力が占める割合が高ければ高いほどヨーサリとしては優秀と言われている。
しかしその高さ……つまり濃度が濃過ぎるのも問題だ。濃度六十八。この数字がヨーサリにとっての満点とされている。これ以上の濃度は毒なのだ。百に近づくにつれ、彼らは魔力そのものになってしまうのだから。
(……なんだろう、これ? これは確実に習ってない……)
キョーコはアルヴィンの下で実地訓練を受ける以前、騎士団棟にて座学の授業を受けていた。ヨーサリの歴史も勿論だが、授業のほとんどは倫理的な内容だったと記憶している。アシタと共に生きる未来のため、過去の出来事を振り返る授業だ。テ・ルーナ王国を囲むエヴァリカ合衆国の歴史も勉強した。
人としての地盤を固める研修に文句は全くないが、肝心のヨーサリを学ぶ講座は少なかったように思える。藤夜でもテ・ルーナでも習わないことは各自図書館や実地訓練で学べということなのだろうか。
こういったこともあり、キョーコはなるべく多くの知識を得ようと、王立図書館から毎日数冊知識を借りてきている状況だ。そんな彼女がまたしても新しい未習に行き着く。
(魔石症……?)
『ルキ凝固結晶亢進病』。通称、魔石症。
魔力(血漿)が凝固結晶化する病。体内に魔力が凝固したであろう結晶が出来てしまう病気。患者の多くに症状はなく、また痛みもない。治療法は投薬が主で、直径五ミリを超える石の場合は手術により取り除く。年に一度の採血で魔力濃度を図ることにより予防と発見ができるため、死に至る者は少ない。
(魔力が凝固し、体内から取り除いた結晶が宝石のように輝いていることから魔石症と呼ばれている……)
キョーコはふと楽園の空を見上げた。
自分の濃度はいくつだったか。
気になったら調べたくなる性分なので、一度この魔術を解かねばならない。麗らかな陽気に髪引かれながらも、キョーコは教科書を吐き出した。
ミルクはまだ湯気を立てていて、脱ぎ散らかした部屋着も床に落ちたままだ。時計の針は五分も進んでいない。年頃の娘らしい騒がしい部屋。もうそこは極楽ではなかった。
(確か、この辺に)
積まれた書類は整理されることなくそこに居た。様々なサイズの用紙が適当に積み重ねてある。キョーコはその山をこれまた適当に崩し漁った。積み上げた本人はどこに何の書類があるのかだいたい把握しているようで、目当ての紙切れはすぐに見つかった。書類の左上に封筒もクリッピングされている。封筒にはヨーサリ専用の医療機関名が書いてあった。
濃度五十。
これがキョーコの魔力の濃度であった。
ヨーサリは魔力濃度によってその後の人生が変わってしまう。そう皮肉られてしまうほど、ヨーサリにとって魔力濃度は重要な指数である。高濃度であればあるほど良いが、上限があることは先に述べた通りだ。
(魔力が濃いって言われるけど、超高濃度ってわけじゃなさそう……)
濃度五十以上が騎士団特別捜査隊の隠された入隊資格であることをキョーコは知らない。テ・ルーナでは大っぴらに公開されてはいないものの、魔力濃度で就ける仕事が決まっているのだ。濃度五十以上六十八以下。ヨーサリとしてはこの値の間にいることが最高峰とされている。繰り返すが彼女はこのことをまだ知らない。それが幸か不幸かは分からないが、ひとまず彼女は安心していた。魔石症に自分は程遠いと。
せっかく取り込んだ教科書を途中で吐き出した彼女は、再度時計を確認した。本当にそろそろ床につかないと研修に支障が出る。読み終えた部分をチェックし、キョーコは自身の魔力濃度が記載された書類を付箋がわりにして教科書を閉じた。
(先輩たちはどのくらいなんだろう)
ふと、キョーコは天井を見上げながらアルヴィンのことを考えた。はぐらかされたわけではないと思うが、彼の魔力について詳細を聞くのを失念している。
(銃を使う能力……? いや、そんな単純なわけないか。魔力がなくても銃は撃てる)
犯人に突きつけた一丁の拳銃。
濡れたカラスのような漆黒のそれ。
キョーコは寝返りを打つ。アルヴィンの何ものにも動揺しない強い瞳を思い出した。
(不思議な人だ……)
黒い彼の面影が瞼の裏に溶けていく。
キョーコは夢の中へと意識を蕩かした。
第一章終わり。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回からいよいよ本格的にお話が進んでいきます。