リアリティ批判をする人の何が問題なのか
6/3 18:00
「スネ夫の髪」の話を追記。
ある日、ツイッターでこんなつぶやきが回ってきた。
>作品が認められない時「コレはこういう理由でダメだ」と色々な人に言われる。だけどそれはほぼ全て無視していい。ダメだった理由なんて後になってみれば誰にだって言えるし、数限りなく存在するからだ。問題だったのはただ1つ「自分が思い描いた良さを他人に伝えきれなかった事」だ。
これに関して僕は賛成で、けだし名言だと思う。
「ダメな理由」をなくしても、「面白い」にはならない。
作者は「自分が思い描いた良さを他人に伝えること」を、真っ先に意識するべきだ。
タイトル「リアリティ批判をする人の何が問題なのか」に関してだが、勘違いのないように言っておくと、僕はすべてのリアリティ批判がよろしくないと考えているわけではない。
問題なのは、「闇雲なリアリティ批判」である。
ただリアリティがないことそれ自体を批判するリアリティ批判が問題だと考えている。
先のツイートに戻ろう。
作品にとって最も大事なのは、「自分が思い描いた良さを他人に伝えること」である。
リアリティというのは、そのための「手段」であるべきだ。
「手段」であるべきなのであって、「前提条件」であるべきではない。
「リアル(現実)」と「リアリティ(現実感)」は違う、という意見がある。
これをどこで切り分けるか。
リアリティがないと、作品世界に没入できない。
ゆえにリアリティが大事だ。
これなら分かる。
リアリティのない物語はそれ自体クズだ。
存在価値がない。
これは分からないし、分かりたくもない。
まずリアリティ(現実感)というのは、ある程度、個々人の受け取り方によって変わってくる部分がある。
その作品にリアリティを覚えるかどうかは、人それぞれ。
リアリティ至上主義者は、ここを認識できていない気がする。
例えば、格闘技を経験したことのない作者が、格闘シーンを描写したとしよう。
それは格闘技の素人には、リアリティのあるシーン──つまり、現実感のなさに足を引っ張られることなく作品世界に没入し、楽しめるシーンとして映るかもしれない。
一方、格闘技経験者から見たら、「いやいや、それはないでしょ」となって、作品世界への没入から覚めてしまうかもしれない。
リアリティとは、感じ方に読者それぞれで個人差があるものだ。
そのことをまず、大前提として認識する必要がある。
だから、リアリティがあるかないかという話をする場合、「あるかないか」ではなく「どのぐらいあるか」という見方をしなければならない。
リアリティが30の作品は、100人中30人の読者がリアリティを感じる。
リアリティが70の作品は、100人中70人の読者がリアリティを感じる。
そういうものとして、リアリティをジャッジしなければならない。
そう考えると、「リアル(現実)」と「リアリティ(現実感)」とを、完全に綺麗に切り分けることはできないようにも思う。
そしてもう一つの視点がある。
リアリティのない作品には、本当に没入できないのか、という視点だ。
リアリティという言葉が持つイメージの話になる。
僕はこの命題に関して考えるとき、『不思議の国のアリス』という作品を念頭に置く。
もしくは、それ以外の童話、神話、おとぎ話──何でもいいのだが。
『不思議の国のアリス』に「リアリティ(現実感)」はあるのか。
こう問われると、イメージのレベルでは、「あれをリアリティと呼ぶのは何か違う」という引っ掛かりを覚えるんじゃないかと思う、
現実感はないが、没入感はある。
そういう作品の在り方が、一つの方向性として存在するのではないか。
さらにもう二つ。
『不思議の国のアリス』という作品の「魅力」が、「リアリティ」を前提として作れるかどうか。
及び、リアリティを作ることによる「煩わしさ」の増加を、どう考えるか。
例えば、白ウサギが言葉をしゃべれることを見て、その時点で「リアリティがない」と思って作品を読む気をなくすという読者は、多くはないだろうが、存在はするはずだ。
じゃあ彼らのために、白ウサギが言葉をしゃべれる理由について、作品中の文章を用いて長々と説明するべきなのか。
これは違う、というのは、分かると思う。
また、もし仮に、白ウサギが言葉をしゃべれる理由に関して、作者が十分な理論武装を用意できなかった場合、作者は「言葉をしゃべれる白ウサギ」が登場するという展開を切り捨てて、そこに人間を登場させるべき、という話になるだろうか。
これも違う、というのも、分かる話だろう。
さて、再び最初のツイートに戻ろう。
作品にとって最も重要なのは、「自分が思い描いた良さを他人に伝えること」だ。
そのためには、どの部分のリアリティが、どの程度必要だろうか。
リアリティというのは、このような作品の魅力を伝えるための「手段」として用いられるべきもので、あらゆる作品における絶対の「前提条件」などでは断じてない、と僕は主張したい。
「自分が思い描いた良さ」が主で、「それを的確に伝えるための手段」が従だ。
この主従関係を逆転させて、リアリティが確保できないから魅力的なビジョンを切り捨てる、なんてことはするべきじゃない。
「スネ夫の髪」は、右から見ても左から見ても正面から見てもあの形で、3Dにしたらとんでもないことになる。
でもそんなことは、ほとんどの子どもは気付かないし、気付いても笑って済ます。
藤子・F・不二雄が完全なるリアリティ主義者だったら、スネ夫のあの髪型はこの世に生まれていなかったか、あるいは読者から指摘された時点で全然違う髪型に「改善」されてしまっていたことだろう。
それは、僕らが知っているスネ夫の髪型よりも凡庸で、魅力に欠ける髪型であったかもしれない。
作者が「スネ夫の髪」を漫画上で常にあのように見せたいのであれば、リアリティなどえいやっと蹴っ飛ばすしかないというわけだ。
ただし、リアリティこそが「自分が思い描いた良さ」の根底になっている、というケースもある。
この場合には、リアリティの喪失が「良さ」の喪失になるため、リアリティを大幅に犠牲にするような展開は避けたほうが良いだろう。
そして、作品のリアリティのなさについて批判をする人は、まずその作品の魅力がどこにあるのか、作者がどういう「良さ」を表現しようとしているのか、それを見抜くところから始めてほしい。
そうした意識のない「闇雲なリアリティ批判」は、建設性のない、作者を攻撃するだけの愚者の批判と知るべきだろう。
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