【2オーダー目】 無謀過ぎる開店構想
「ふっふふーん♪」
帰宅するなり、鼻歌全開でリビングに入る。
俺史上最もご機嫌な下校タイムはきっと傍目に見れば気持ち悪いほどニヤニヤしていたことだろう。
だが今の俺にとっちゃ「フン、なんとでも言うがいい」状態だ。
なぜなら、
「白咲さんと一緒……白咲さんと一緒……白咲さんと一緒~。グフフ」
ああ、駄目だ。自然にニヤついてしまう。いやー、生きてて良かったわー。
黒板に俺、松本、山本、白咲さん、その他女子二人(全く見てもいないので誰であるかは不明)の名前が並んだ時の興奮……マジで心臓が止まるかと思った。
「あら、随分帰りが早いじゃない」
ソファーに座り余韻に浸って一人ニヤついていると、母さんがリビングに入ってきた。
なぜか意外そうな顔をする母に俺の一途な愛が生んだ奇跡を自慢してやろうと思ったのだが、先制パンチで繰り出された言葉は一瞬にして俺を現実に引き戻すものだった。
「耶枝の話はもう終わったの?」
「……………………あ」
忘れてたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
時計を見ると午後三時二十分。間に合うわけがねえ!
「ダッシュで行ってくる!」
言って、返事を待たずに駆け出した。
着替えもせずに愛車のビッグスクーターに跨り、エンジンを吹かして法定速度ギリギリでブッ飛す。
そんな必死さも虚しく、指定された一つ隣の駅の側にあるファミレスに到着した頃にはとっくに約束の時間を過ぎてしまっていた。
あぁ、浮かれた俺のお馬鹿さん。
叔母さん怒ってるかなぁ……基本的にほんわかしていて温厚な人だし、そうそう怒ったりしている姿も見たことはないんだけど、そもそも二人きりで会うこと自体気まずいってのに。
どんな顔して会えばいいんだよ、一体何の話をするんだよ、何の罰ゲームですかこれ?
「はぁ……」
漏れるのは溜息ばかり。
とはいえ駐輪場に立ち尽くしていても憂鬱さが増す一方なので諦めて店に入ることにした。
客はそれなりで空いているテーブルもあまり多くない。
店員さんに声を掛けられる前に叔母の姿を探したいのだが、知らない奴と目とか合ったら気まずいという理由でガン見出来ないせいで効率が悪く、もはやただの挙動不審な童貞だった。
あーまじで帰りてぇ~、と思っていると、
「優くーん♪」
どこからか俺の名前を呼ぶ声がした。
いや、別に俺の事だと断定出来るわけでもないのだろうが、この柔らかくて甘ったるい女性の声には聞き覚えがある。
その方向を見ると、探し人である女性がこちらに駆け寄って来ていた。
そっちから見つけてくれたのは嬉しいんですけど人前で俺の名前を叫ぶのは止めてくれませんかね。すげえ注目されてるんで。晒し者状態なんで。だから何の罰ゲームだよ……。
「あの、遅れてすいま……」
「優君久しぶり~♪」
言い終わる前に凄い勢いで抱きつかれた。
顔を抱え込む様にしているせいで良い匂いだし、胸が顔面に来てなんかちょっと天国じゃねこれ?
「何ヶ月振りかなー。背伸びた? 髪切った?」
解放されるやいなや、にこやかな顔でどこぞの森田さんみたいな事を言い始めたこの女性。
名前は桜之宮耶枝。続柄叔母。以下省略。
目の前にある顔はいつ会っても等しく、とても若々しい笑顔で若者好みの服装や軽く当てたお洒落なパーマも相俟ってとてもアラサーの子持ちには見えないどころか大学生を自称しても疑われない詐欺レベルの外見だった。
「あの、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。それでそれで?」
「そ、それで? えーっと……あ、遅れてすいませんでした」
「それは気にしないでいいよー。学校終わってすぐだもんね、間に合わなくても仕方ないもん。それ以外の理由があったら怒るけど」
「…………」
怒るのかよ。あぶねー、笑顔に騙されて『すっかり忘れちゃってて……』とか言っちゃうところだったよ俺。
「ねね、他には? 優君」
「他にって……なんかありましたっけ?」
挨拶もした。
遅れたことも謝った。
他に何を求めているのだろうか。
まさか手土産でも寄越せと? 買ってきてないです、すいません。
「もー、もっと言わなきゃいけない言葉があるでしょー。会えて嬉しいですとか、相変わらずお綺麗ですねとかっ」
頬を膨らませながらそんなことを言われた。
いわゆる女性に対するリップサービス的なものをお求めであられたらしい。
そんなもん彼女いない暦がそろそろ年齢を追い越さんばかりの勢いの俺に分かるわけがない。
「いや、会えて嬉しいですよ? 相変わらずお若いですし」
取り敢えずそのまんまを口にしてみた。
若く見えるというのは事実だし、まあ綺麗な人だとは思う。だからといって甥っ子にそんなことを言わせて、もとい言われたからどうだというのか……。
「もう優君ったら口が上手いんだからん♪ さ、席あっちだから取り敢えず座ろうよ」
それでも伯母さんは満足したらしく、席へと案内しようと俺の手を引いて歩き出す。なにこの茶番……必要ある?
いつ会ってもこの人の性格はよく分からん。
と、溜息を吐きつつ為されるがままに席まで付いていくと、どうやら窓際の一番角のテーブルだったらしく、そりゃ入り口付近から見つけるのが難しいはずだと一人で勝手に納得しつつ、壁際の席に飲みかけのカップが置いてあったのでその正面の通路側の椅子へ腰を下ろす。
しかし、なぜか伯母さんは俺の隣に座った。
「え? ていうか……他にも誰か来るんですか?」
「ううん、来ないよ? どうして?」
「いや、隣に座るからてっきり」
これではまるで二人して誰かを待ってるみたいな図だ。
「おかしいかな?」
「おかしいっていうか……話がしづらくないですか?」
普通に考えればどう考えてもおかしいんだけど、それをハッキリ言ってしまうのもどうかと思うわけで、咄嗟に出て来た言い回しは我ながらナイスなチョイス。
「いいじゃない、こっちの方が近いしさ」
でも納得はしてくれなかった。近かったら何がいいのかは一切理解出来ない。
「そういえば優君、ここから見てたけど随分おっきなバイク乗ってるんだね」
しかも勝手に話が終わっている始末である。
こうして会話をしていると徐々に記憶が蘇る。
この人は姉である母と話しているのを見ていても、あまり理屈が通用しないタイプの人間だった。
苦笑いしながら「仕方ないわねぇ」と伯母さんの主張を受け入れている母を会うたびに見ている気さえする。
「ただの中型のビッグスクーターですけどね。別に原付でもよかったんですけど、あれじゃ色々面倒かなーと」
「面倒ってなにが?」
「交通ルールというか法律が。法定速度だったり、二段階右折だったり制限が多いじゃないですか」
「ふぅん」
確実に理解していないだろうことは明らかだったが、それでいて全く興味がなさそうに相槌を打たれたので何も言えない。
これ以上この人と雑談しても楽しませる自信ゼロな俺はひとまず飲み物を注文し、さっさと本題に入ることに決めた。
「それでですね、伯母さん。本題なんですけど……」
「……オバさん?」
こめかみがピクつきました。笑顔のままで。
一言目で地雷を踏むとかどうりでマインスイーパとか苦手なわけだ。
本人の認識とは字も意味も違うのだが、この人はどうにもオバさん扱いされるのが嫌いらしく、うっかり口にすると大抵笑顔で怒る。俺が言ってるのは親類関係上の叔母って単語なのに……。
「……耶枝さん」
「なあに?」
「さっそく本題なんですけど、俺に用があるんですよね? ていうかなんで摩耶さん経由で呼び出すようなことを?」
「だって~、優君メールしても全然返してくれないんだもん」
耶枝さんはそう言って唇を尖らせる。
あの母親に伝言を頼んだりするから色々ややこしい思いをしているに違いない。と思うのだが、きっと理解はして貰えまい。そもそもメールなんて来てたっけか?
「すいません、登録してないアドレスは基本的に確認しないもので」
「えええぇ!? わたしのアドレス登録してくれてないの!? 優君……もしかしてわたしのこと嫌い?」
「は? いやいや、別にそういうわけじゃないですって」
強いて言えば苦手な部類だけど。という補足は悲壮感漂う耶枝さんの顔が自重させた。
「ただ、主義として家族と彼女以外は電話帳に登録しないってだけです」
「むー、なんで家族と彼女だけなの?」
「それはほら、万が一彼女に携帯チェックされた時にあらぬ誤解を受けないようにと思って。よくあるじゃないですか、別れる原因とかで」
ソースは3ch。
しかし、耶枝さんはどこか納得いってなさげだ。
「ふぅん……ていうか優君彼女いるんだ。わたし聞いてないなー」
「いや、いないですけど」
仮にいたとしてもあんたに報告する義務はないのでは?
「いないうちからその主義貫いてるの!?」
「へ、変……ですかね?」
「絶・対・変だよ!」
……そんな力一杯言わなくても。
予行演習とか大事じゃん?
もしも白咲さんが意外と嫉妬深いタイプだったら大変だし、僅かな可能性であっても漏れなく消し去らねば。
「ていうかさ、そもそもわたしは姉さんの妹なわけじゃない?」
「まあ……そうでしょうね。そりゃ」
「だったらわたしも家族の部類じゃない?」
「うーん……そう、なんですかね?」
全く血は繋がってないけど、確かに関係図的にはそうなるのか。
戸籍上は親類だし、難しいことは分からないけど否定するほどの違いはないと思わないでもない。
「まあ、大きく分ければそうかもしれません」
ということで肯定しておいたものの、誘導尋問が始まっている気がするのはなぜだろう。
「じゃあわたしのアドレスは登録しなきゃいけないんじゃないかな?」
「…………」
しなきゃいけないまでの理屈はどこにもない気がするんだけど……多分これは首を縦に振るまで言い続けるパターンだ。
ドラクエでよくある【はい】を選ぶまで延々同じ質問を繰り返すやつ。
そんなわけで渋々了承する他ないらしい。まあ、理屈的には間違っていないけども。
「分かりました。あとで登録しておきます」
「今がいいな」
寂しそうに言われた。
「いや……あとで」
「今がいいな~」
一転、なぜかニコニコしだした。有無を言わさぬ感じが怖い。
「じ、じゃあアドレスの頭の方教えてもらえますか? 受信箱から検索しますんで」
「ローマ字でサクラから始まるやつだよ」
さっそく検索してみると、四十件ぐらいヒットした。
思ってたより送られてるし……そりゃこれ全部無視したら頑なにもなるわ。
「えーと……新規登録っと」
せめて彼女が見ても親族だとすぐに分かるようにしておかなければ。あ、い、う、え、お……
「優くーん。わたしの名前に一つでも「お」なんて文字が入ってたかなぁ?」
ギクウ!
え? なに? 俺声に出してた?
チラリと横目で耶枝さんを見てみると、耶枝さんは肘を立てた手に顔を乗せつつ、
「…………(ニコニコ)」
さっきよりもっと笑ってる! 限界を越えた笑顔になってる! スーパーサイヤ人3みたいな笑顔になってますよ!?
「そ、そうですよね~。【お姉さん】って登録しておきたかったんですけど、さすがにちょっと馴れ馴れしかったですよね~。ははは……」
「やだなぁ優君ったら。そんな風に思ってくれるのは嬉しいけど、さすがに娘の方が歳が近いわたしじゃ無理あるよ~。普通に【耶枝さん】でいいよ。別に『さん』はなくてもいいし」
「……はい」
……すげー面倒臭いんですけどこの人。
綺麗な薔薇には刺があるというが、この人の優しい笑顔と声色には服従させる圧力がある。
「登録出来ました。それで、本題なんですけど」
何回言うんだよこの台詞。
しかしようやく耶枝さんも「うん。そうだね」と気を取り直すように返してくれた。
ついでに言えば、やっぱり正面に誰も居ないのに二人並んで座っている姿はどこか間抜けだった。
その程度の事など気にならないらしい耶枝さんはお構いなしに、
「えっとね、何から話したらいいかな」
と、切り出した。
顎に指を当て考える素振りを見せる耶枝さんの表情はふんわりしているが、この人のことだ。一切の油断は出来ない。
ぶっちゃけ「明日地球を滅ぼします」とか言い出す可能性だってゼロだとは言い切れないレベルの変わった人という認識すらある。
耶枝さんは何気なく俺から視線を外し、窓の外を眺めた。
「わたしさ、旦那が死んじゃったじゃない?」
「いや、死んでないでしょ。離婚しただけで」
この耶枝さんは高校生の時に結婚し、娘を出産したものの数年足らずで離婚している。
だからって全く死んでなどいないのだが、何言ってんのこの人? 何ドラマが始まるの? それ俺もキャストなの?
「それでね?」
「…………」
「それでね?」
「……はい」
そうですか。ツッコんだら負けというわけですか。
「莉音も大きくなったし、家で引き籠もってるのも退屈だから働きにでも出ようかなって思ったんだけど、今更パートっていうのもなんか違う感じだし、だったら自分でお店を開けばいいんじゃないかなって思ったの」
「また随分唐突な話ですね……」
言いたくはないが、表現を変えれば安直、愚直とも言う。
ドキュメンタリーとかでよく見る、思い付きと過信で事業を始めて借金まみれになる人みたいな発想だ。
「ちなみに……どういうお店を開きたいんですか?」
一応聞いてみた。
「喫茶店!」
満面の笑みだった。冷めている自分がとても残念である。
「なんていうかね、アットホームな雰囲気でさ、軽食とか飲み物をメインにしつつもこういうファミレスみたいに長い時間お喋りしちゃう様な気軽な空間を作りたいの。ちゃんとお客さんと接して、朝コーヒー飲みに来る習慣の店にしてもらったり、お昼休みに足が向いちゃうような居心地の良いお店っていうか憩いの場みたいな感じ? 夕方まではそういう喫茶店風にしつつ夜はちょっとメニューを変えて、ちょこっとお酒とかつまみになるようなものも置いたりしてね。夜は仕事帰りに一杯とか、晩ご飯になるようなメニューもあって友達と一緒にご飯食べに寄っちゃうようなさ、つい足が向いちゃうようないろんな人にとっての馴染みの店にしてもらえるようなお店にしたいの」
「なんていうか……壮大な計画ですね」
それしか言えなかった。
言いたいことは分かるが、正直言ってそういう店を目指したとしても理想と現実のギャップが大きくなるというか、無理に色々な要素を取り入れようとしすぎて中途半端になるんじゃないかと思う。
ちょこっと聞いただけの話でしかないが、この耶枝さんは子供を産んで少し経った頃から数年間うちの店で働いていたことがあるらしい。お酒とかを取り入れようとしたがる理由はそこにあるのかもしれない。
だからといってそんな思い付きと願望丸出しの計画が実現出来るかどうかは別の話だと思うと同時に、なんとなく俺が呼ばれた理由が分かった気がした。
「そうでしょー、価格も抑えて気軽さを出しつつファミレスと違って冷凍物は極力使わない。そんな安らげる暖かさのあるお店。名付けてファミリー喫茶だねっ」
「ドヤ顔で言われても……というか、さも革命的なアイディアだと言わんばかりですけど割と使われてる表現ですよね、それ」
「発想の目新しさは別に必要ないんだよ。問題はそれを実現出来るかどうか。アットホームを売りにしている店はいっぱいあるけど、客の側がそれを感じられるお店って絶対的に少数だと思うもん」
「まあ、それは同意出来ますけど。つまり話っていうのは……」
俺が言うと耶枝さんは、
「うん、その通り」
と、頷いた。
まるで、もう大体分かっちゃってると思うけど、と言わんばかりに。
実際もう大体分かっちゃってるんだけども。
「わたしのお店を手伝って欲しいのよ、厨房担当として」
「そういう話だと薄々気付いてはいましたけど」
「優君なら実績も経験もあるし、わたしも信頼してお願い出来るじゃない?」
「ない? って言われても……」
正直、同意を求められても返す言葉に困る。
確かに会うたび気さくに接してもらっていたのは事実だが、信頼関係が築けていたかというとそこまで深い仲ではなかったと少なくとも俺は思うのだが……。
「ちなみにお店の名前はね【chaleur de la famille】にしたんだ」
俺の心情などお構いなしに話を続ける耶枝さんは、店の名前だと言って無駄に良い発音で英語っぽい文章を口にした。
シャルールデラファミーユ? と、聞き取れたままに口にしてみると、
「そ、シャルール デ ラ ファミーユ。フランス語で家族の温もりっていう意味だよ♪」
思い付き全開な行動の割にそこだけ無駄に凝ってる!
何そのオサレな感じ? 客側だったら絶対入れねえよ。
「ていうか……もう名前まで決めてあるんですね」
「そりゃそうだよー。もう店も出来てるんだから」
「ええぇ!? もう店が出来てんスか!? 行動はええ!」
「えへへー、そうでしょ。いつでもオープン出来る状態にしてるんだよーん」
「いやいやいや……」
褒めてるんじゃねえよ。先走り過ぎだろどう考えても。
「それでね、あとはアルバイトを何人か雇って、わたしが店長だからもう一人アルバイト以外でちゃんと信頼出来る人を厨房に入れたいと思ったの。バイトに厨房は任せられないし、だからって他に頼れるアテもないしさ」
「それは分かりますけど……順序おかしいですよ絶対。バイトは別としても店を建てはしたものの厨房で働く人が居ない、なんて洒落になりませんよ」
「それは大丈夫だよ。この計画を考えた時から優君に来てもらうってちゃんと決めてたもん」
「決めてたって……」
勝手に決めんな。
と言いたいのは山々だが、この人はきっとその理屈がおかしいことを自覚していない。
辛うじてそんな本音を飲み込んだものの、しっかり顔に出てしまっていたらしく耶枝さんは悲しそうな顔をした。
「え……もしかして、優君お断りしようとしてる感じ?」
「そういう意味じゃなくてですね、俺も春休みにお暇を貰ったばかりなのでちゃんと給料が出るならお手伝いすることは吝かではないんですけど、それならそうともう少し早く言ってくれないと困るというか、もし俺がまだうちの店で働いてるままだったら耶枝さんの計画そのものが台無しになっちゃう可能性があったわけじゃないですか」
俺はついこの間の春休みに入る前までうちの店でほとんど毎日働いていた。
学校が終わってから午後十時まで何年もの間ずっと、それこそ中学生ながら学校に許可を貰ってまで働いた。
家業であることで労働基準法的にも問題なかったし、手伝いをして小遣いを貰う程度の意味ではなく、しっかりと給料を貰う従業員扱いだった。
こんな捻くれ高校生であっても、それはただただ親に感謝しているからであったし、給料だって小遣い以外に触りもせず、毎日六時間を小さめの居酒屋で厨房もホールもこなしながら過ごす事に不満も疑問もなかった。
そんな生活を続けているうちに高校生にして調理師免許の取得条件を満たしてしまった俺は親の薦めもあって少しでも親の役に立てるならと受験することを決め、そして合格する。
それが高校一年から二年に上がる春休みのこと。
「四月から新しくアルバイトを入れることにしたから」
と、俺がお役御免を言い渡されたのはその二日後の出来事だった。
一瞬にして高校生兼リストラリーマンの誕生である。
そんな身勝手があるかとあの時は随分と揉めたものだ。といってもほとんど俺が一方的に悪態吐いてキレてただけだけど。
そんな経緯もあって、俺が耶枝さんの話を受けられない可能性だって大いにあったのではないか、ということを言いたかったのである。
しかし耶枝さんは、
「それなら心配ないよ。優君今はお店の手伝いしてないでしょ? それってわたしがお願いしたからだもん」
と、笑った。
「……なんですと?」
なんかサラッと衝撃のカミングアウトをされた気がする。
「俺が店の手伝いをお払い箱にされたのって……もしかして耶枝さんが?」
「そうだよー、ちゃんと姉さんに頭下げてお願いしたんだから」
「まじですか……ていうか、お願いって?」
「姉さんだけじゃなくて義兄さんにもだけどね。ネタばらしをしてしまうと優君の両親にお願いしに行ったんだ。優君をわたしに下さいーって」
「…………」
分かった。今理解した。全てを。
両親は俺が耶枝さんのやろうとしている店を手伝えるようにするためにアルバイトを雇い、俺が店に居なくてもいいようにしたのだ。
『あんたには他にやることがあるんだから』
としか説明してもらえなかった春休みの出来事。
それはこの事を言っていたと、調理師免許の取得を勧めてきたのもこれを見越してのことだったと、そういうことなのか。
今日家を出る前、「耶枝のことよろしくね」と言っていた意味も、全ては繋がっていたというわけだ。……ていうか、
「それならそうと先に言っとけよおおおぉぉぉぉぉ! そんなサプライズいらねえだろぉぉぉぉ! 俺はてっきり要らない子になったのかとマジでヘコんでたんだぞコノヤロォォォォォォ!」
取り敢えず立ち上がって絶叫しておいた。もう人目も何もお構いなしだった。
「よしよし、優君大丈夫だよー。優君はちゃんと要る子なんだから」
耶枝さんはそう言って俺の頭を撫で始める。
いや、元はと言えばあんたが原因なんですけどね。そもそもなんだよ要る子って……。
思いつつ、すでに手遅れなほどに周囲の視線が痛かったので大人しく腰を下ろす。冷静になる前からクソ恥ずかしかった。
「取り乱してすいません……なんというか、ちゃんとした理由があったと知ってどこかホッとした俺もいてなんだか複雑なんですけど、概ね理解はしました」
「よしよし♪ 優君は偉い子だね」
まだ頭を撫でている耶枝さんはさておき。
要するに耶枝さんが俺を自分の店で使わせて欲しいと俺の両親に頼んだってわけだ。
危なっかしい性格は言わずもがなの耶枝さんのことだ、両親も知った人間が傍に居た方が少しは安心出来るという側面もあったのかもしれない。
「それでうちの両親に了承してもらったってことですね。俺の知らないところで、勝手に」
「そうなの。めちゃくちゃお願いしたんだよ? 反対されまくりだったからさ」
そりゃ反対するだろうさ……。
でもこの人反対しても聞かないしな。渋々了承させられる両親の絵が容易に頭に浮かぶ。
「なんだか……わたしに下さい、なんて結婚の許可を貰おうとしてるみたいですね」
「あははっ、言われてみればそうだねー。いっそ本当に結婚しちゃう? わたし優君だったらいいよ?」
「いや、いいです。それよりもですね」
「即決で拒否られた!?」
大袈裟に仰け反る耶枝さんはスルー。
これ以上おふざけに付き合っていたらいい加減話が前に進まない。
「手伝うにしても色々と知っておかないといけないことがあると思うので、もう少し具体的に教えて貰えませんかね。メニューとかも含め」
「うぅぅ……なんだか優君のわたしの扱いが酷い気がするよ。メニューとか食材のことはこっちに纏めてあるからこれを見て」
そう言って、耶枝さんは足下に置いていたブランド物のバッグからクリアファイルを取り出し「はい」と俺に差し出した。
中には結構な量のコピー用紙の束がクリップで綴じられてある。
一枚目をめくってみると、各種メニューがリスト化されていた。商品名に原価に販売価格を添えた表がズラリと並んでいる。
まずは飲み物。
ソフトドリンクが十数種類に喫茶店らしくコーヒーも何種類もある。
定番のブレンドやブルマン、モカ、キリマンジャロなど豆も色々。メニューの方もダッチやエスプレッソからラテ、カプチーノやフラットホワイトなんてものまである。
そして二枚ほど用紙をめくってみると料理のリストに変わる。
パスタ類や丼物などの定番メニューにサンドウィッチやホットケーキ、オムライスなどの喫茶メニューに加えボルガライスやタコライスといった珍しい物もあった。
夜の部専用メニューと書かれた用紙にはアルコールが数種類に肴となるメニューが並んでいて、飲み屋に寄せすぎないようにという耶枝さんの言葉通り定番メニューを除けば揚げ物がいくつかと魚類関係ぐらいだ。この辺りのメニューはうちの店を参考にしたらしく見覚えのあるものばかりだった。
さらに次の用紙にはデザートの一覧。
アイスクリームやパフェ、ババロアや杏仁豆腐に自家製チーズケーキなんてものまである。作る手間が少ないものばかりとはいえ、メニュー多すぎるよこれ……。
それだけに耶枝さん一人でこれだけ準備をしただなんて思いの外しっかり出来ているじゃないかと感心しかけたが、よく見ると仕入れ先までほとんどうちと同じだった。
「この仕入れ先ってうちとほとんど同じですけど」
「そうだよ。優君のパパに口利きしてもらったの。安くしてくれるし信頼も出来るっていうから是非ってお願いして」
「そうですか……」
なんだろうこの気持ち。
自分でも不思議なことに、放っておいたら両親に迷惑が掛かる一方なんじゃないかという予感が増すと同時に、そうさせないためにも俺が頑張らなければという変な責任感が芽生えてきた。
この人の計画は行き当たりばったりな上に人任せな部分が多すぎる。
一緒にコケてやれるほどの甲斐性もない俺だからこそ、せめて目の前でコケさせないようにしなければ……そんな気持ちだ。
自己保身のためとはいえ完全に扇動されている感が否めないが、それでも文句を言ったり責めたりするのではなく自分でどうにかしないとマズいと思わせるあたりが耶枝さんの武器なのかもしれない。嫌な武器だ……。
「ちなみにいつオープンするんですか、これ」
「今週の土曜日っ」
「やっぱり何もかもが急過ぎる!」
今日が水曜日。つまりはあと二日しか猶予ねえ!
店自体は完成しているという話だけど、それにしたっておかしいだろ。三日前から頑張るってテスト勉強感覚かよ。
「大袈裟だなぁ優君は。ほら、思い立ったら吉日って言うでしょ?」
「計画性がなさすぎでしょ……さすがに」
せっかくちょっと頑張ってみる気になったそばから……前途多難すぎる。
これはもはや俺一人が頑張ってどうにかなる問題じゃない。仲間が必要だ。
いくら俺が「友情? 何それ食べられるの?」精神の持ち主であれど、フォローしてくれる常識人の味方なくして立ち回れるレベルではない。
こんなことになるならツイッターでもやっとけばよかったと激しく無意味な後悔をした。
「……俺と耶枝さん以外のスタッフってどのぐらい居るんですか?」
唯一の緩和策に一縷の希望を託し、用紙をしまいながら聞いてみる。
「まだ居ないよ? それはこれから、っていうか明日決まると思う」
「……なぜ明日?」
やはり前もって行動などしていなかった。……俺に希望は無いのか。
耶枝さんは再びバッグを物色し始めると、薄めの雑誌を取り出した。
「なんスかこれ……」
「知らない? タウン誌なんだけど、ここにアルバイト募集を載せたんだ。そしたら応募が四件あったんだよ、その面接が明日ってわけ」
耶枝さんは、偉いでしょ? 凄いでしょ? 頑張ったでしょ? そう言いたげな、にこやかな顔で俺を見る。
いやいや、なんでタウン誌なんだよ……普通に求人誌でいいじゃん。
今はどの店だって求人に対する応募が多すぎてすぐに締め切っちゃうって話なのに。
少しでもまともな人間性を持った奴に入ってもらわないといけないのに、応募四人ってほとんど選択肢ねえじゃねえか!
「ほら、ここここ」
落胆する俺の絶望を忖度してくれるほど立派な大人ではない耶枝さんは雑誌を開いて求人用のページを見せてくれた。
確かにさっき聞いたなんとかザファミーユという名前が載っている。
新装開店……ウェイトレス募集……時給千二百円……共同寮アリ……女性限定……可愛い制服……アットホームなお店……笑顔の絶えない職場です……。
いかにも魅力的な職場ですアピールになる文字が並んでいるが、俺にしてみりゃもうツッコミどころしか無い。
時給千二百円って高っ! こんなんパチンコ屋の求人でしか見たことねえよ。
とか、
なんで新装開店なのに【アットホームな店】とか【笑顔の絶えない】なんて情報があるんだよ。テキトー過ぎるだろ。
とか、色々言いたいことはあるのだが、どうせ考えあってのことではないだろうし、なによりそんな小事は今はどうでもいい。それよりも重要な点が一つ。
「これ……なんで女性限定の募集なんですか?」
「へ? だって可愛い制服着て接客するお仕事なんだよ? 男が居ても仕方ないでしょ?」
「いや、ホール係はそうかもしれませんけど厨房にも人手は必要ですよね、絶対」
「厨房には優君がいるから大丈夫でしょ?」
「いや、大丈夫っていうか……」
俺一人にやらせるつもりじゃあるまいな……。
「俺が居ない時とかはどうするんですか?」
「優君は居るでしょ?」
「…………」
駄目だこの人……早くなんとかしないと。
「そんなわけで明日四時から面接ね。それまでにはお店に来ておいてね」
「え……俺も面接に立ち会うんですか?」
「立ち会うっていうか優君が面接するんだよ?」
「…………は?」
「あーオープンが楽しみだなぁ。大変かもしれないけど、わたしも頑張るから優君もわたしを助けてね。一緒に頑張っていこうー♪」
俺の手を握りブンブンと上下に振る耶枝さんはご機嫌だ。
このまま有耶無耶にしてはいけないと、俺の本能が警鐘を北斗百列拳している。
「いやちょっと、話が見えな……」
「そういうわけだから、これからよろしくねっ。副店長♪」
「……………………………………………………ふくてんちょぉぉぉぉ!!!!????」
ここでようやく、俺の記憶はセーブポイントに戻る。
といっても絶叫し唖然とする俺をよそに、耶枝さんはこの後すぐに不動産屋がどうとか言って帰ってしまったので俺の疑問も異議異論も何一つ解消はされていないのだが……。
そういうわけ(と、耶枝さんは言っているがどういうわけかは一切不明)で俺は親戚の経営する喫茶店の副店長になってしまった……らしい。
何から何まで急すぎて理解が追い着かねえ……。
○
夜になった。
帰宅後すぐに店の手伝いに入った俺はモヤモヤした気分のままホールと厨房を行ったり来たりして過ごす羽目に。
本来なら白咲さんとの未来を妄想しならがらニヤニヤしていたはずなのに……どこで何を間違ったらニヤニヤがモヤモヤになってしまうのか。
そんな状態で十一時まで働いた俺は新規客もほとんど無い時間になったところで上がり、タイミングを見計らって母が俺の晩飯を作りにリビングへやって来たところでようやく昼間の話を切り出すことが出来た。
「なあ、いつから知ってたんだ?」
野菜を刻む母の背中へ問い掛けた。
母さんは振り返りもしないし、手を止めることもなく、何気ない調子で問い返してくる。
「知ってたってなにが?」
「耶枝さんの話だよ」
「ああ、そのこと。ちゃんと話出来た? 聞いてみてどう?」
「どうも何も、これだけ入念に根回しされたら断るに断れないだろ……俺をクビにして、免許取らせて、その上店が出来てから声掛けられて誰が拒否出来るんだっての」
全部俺が知らないところで進行していた計画だからな。完全に拒否権を奪い去るための作戦だろこれ。嵌められてんだろこれ。
「母さん達だって反対はしたのよ。ただうちに話をしに来た時点ではもうお店を建ててる途中でねぇ……」
「マジでか……その段階じゃ仕入れ先も何も決まってなかったんだろ?」
うちの口利きで仕入れ先を決めたと言っていたはず。
俺の事も含め、うちの両親に相談する前から始動していたって、もうそれただの馬鹿だろ。
いや、むしろそうすることで今の俺の様に断れない状況を意図的に作り出しているのか? だとしたらすげー嫌な人間だ……うん、それはないな。
あの人に限ってそんなずる賢さなんてあるはずがない。ただ後先考えずにノリで行動しているだけだ。
「そうよ。お父さんだって無茶だって言ったんだけど聞き入れなくてねぇ。おまけに優を下さい、なんて言うんだからビックリしたわよー」
「ビックリって結局許可したんだろ。その事実を知った時の俺の涙を見せてやりたいぜ」
「母さんだって苦渋の選択だったの。別に優が要らない子だと思って決めたわけじゃないのよ。あの時は言わなかったけど、あんたどうせそんな風に思ってたでしょ」
バレていた。なんか恥ずかしいんですけど。
「だったら何で俺なんだよ。あっちがバイトなり従業員なり雇えば解決じゃん」
「耶枝は昔から危なっかしくて、誰かが付いててあげないとすぐに駄目になっちゃうから」
「そりゃあんだけ短慮軽率だったらそうだろうさ」
「そうじゃなくてね、そういう性格とか人間性の話じゃなくて、もっと内面的な話よ。あの子は、精神的にすごく脆い」
ピラフを盛った皿を片手に振り返る母の表情はどこか硬い。
あの常時無邪気に笑って後先の事なんて一切考えてなさそうな耶枝さんが弱いとは思わないが、放っておくと危なっかしいということは嫌でも理解出来る。
耶枝さんの思い付きの行動が失敗に終わった時、きっとその尻ぬぐいをすることになるのはうちの両親なんだろう。
一人自由に暴走させるよりは目付役として近しい人間を傍に置いた方がいくらか不安も減るという理屈も理解出来ないではないが、なんでそれが俺なのか……。
「困った事や辛い事、自分じゃどうしようもない事があったらいつでも母さんに言ってくればいいから。母さんも父さんも、何を差し置いても力になる。だから耶枝を助けてやってよ。ねっ、お願い」
「別に今更やめたとは言わんけどさ……」
そうやって手を合わせて頼まれりゃ反論の言葉も無い。
元々少しでも両親の役に立てればと思って始めた手伝いだ。日課になって、当たり前の光景になったからといってそこに下心など微塵も無い。
どうせ放課後やることもないし、親の店で働くか親の妹の店で働くかの違いだ。
言葉にしてみれば至極単純なことなのに、なんでこんなに気が進まないんだろう。
若いうちから転勤気分を味わえる家庭ってどんな社蓄養成所だよ。
あぁ……前途多難だ……。