【7オーダー目】 メイドさん達が俺の煩悩退散精神を頑なに邪魔してくる件について
深い眠りから意識が呼び起こされる。
目覚めを認識し、起きなければとぼんやり思ってはいるもののなかなか目を開くことが出来ない。
出来ないというか、したくないというべきか。
まだ眠っていたい。
そんな気持ちが二度寝という甘い誘惑を生んでいるのだ。
今日は水曜日。
それすなわち定休日であり、一週間で唯一早起きしなくてもいい平日でもある。
土日は仕込みや家事といった朝の仕事は耶枝さんが担当し開店から昼過ぎまでと夕方からという勤務なのでまた別なのだが、何もしなくてもいい日というのはこの定休日だけだ。
とはいえ学校は普通にあるわけで、俺の体力は一体どこで回復すればいいんだぜ?
なんて愚痴は色々と刺激の強い日々が助長してもいるし、緩和してもいる。そんな気がする今日この頃。
その象徴とも言える俺の乳への執着が目の前にあった。
「おお、神よ……俺の味方はあなただけだ」
渋々ながら目を開くと、そこにはどういうわけかおっぱいがあった。
頑張っている俺へのご褒美的なことなのか、欲求不満が見せた夢や幻覚なのか。いずれにせよ結構でかい。
白咲さん以外の女性に劣情や邪な気持ちを抱かないと断固たる決意をした俺の座右の銘は『煩悩退散』だと信じているのだが、ここでの生活は隙あらばそれをはね除けようとしてくるので油断は出来ない。
一途な思い。
それこそがモテない男が真実の愛を手に入れるために必要な貫くべき精神なのだ。
しかししかし、そうは言っても胸に否はないし胸は正義であることも事実。
悪いのはそこにあるおっぱいではなく、そんな幻覚を見るまでに煩悩に塗れた俺と言っていいだろう。
まず間違いなく昨夜のあれが尾を引いているんだろうけどね……あれはまじでびっくりしたよ。
言い訳でもなければその必要もないけど、敢えて言いたい。俺は悪くない。
前置きが長くなると余計に誰に対してかも分からん弁明っぽくなってしまうので言ってしまうと何のことはない、俺の入浴中にりっちゃんが突撃してきたというだけだ。
いやいや、『だけ』じゃ済まないし何のことはあるよね普通に考えて。
『優兄一緒にお風呂入ろー』
とか言いながら全裸で浴室の扉を開けて入ってくるのだからそりゃ驚いたしビビったし焦ったし心臓が止まるかとも思ったさ。
「なななななな!? りりりりりりっちゃん!?」
と、完全に人語を失う俺に対し本人は『何キョドってんの? ウケるんだけど』と鼻で笑うだけだし、咄嗟にタオルで体を隠す俺とは違い全然気にしてなさげなところが余計にたちが悪い。
一糸纏わぬ発達しきっていない体が完全に露わになっていて、耶枝さんと違ってまだ控えめな胸といいさらさらしてそうな肌といい俺には刺激が強すぎるということもさることながら普通に恥ずかしくて死にそうだったこともあって湯船から出ることも出来ないまま過ごす羽目になった。
最近の中学生ってそういうものなのだろうか。
それとも俺が親戚の女子中学生相手に意識しすぎなのだろうか。
コミュ力とモテ力のある野郎なら、それこそ対妹的なノリで平然と過ごせたのか?
とまあ色々と考えさせられながらの入浴タイムは俺にとっては煩悩と必死に戦うだけの時間となるのだった。
耶枝さんに抗議したところで、
『あはは、きっと湖白ちゃんへの対抗心みたいなものがあったんじゃないかな。まあ変なことをしようとは思ってないだろうし、大目に見てあげてよ』
とか呆れたように言うだけだし、りっちゃん本人も『意識しすぎだし』みたいなことを言うだけで俺の言うことなんて聞き入れてくれやしない。
そもそも対抗心って何だよ。昨日の夜一緒にゲームしたかったのか?
この一件で分かったのはこの家の住人に常識を求めてはいけないということだ。
もうこの家泊まるのやめよう。
そんなことを考えているうちに頭も冴えてきた。
目を瞑ってギリギリまで寝ていようと思ったのに……淫らなことを考えていたせいで目が覚めてしまうとは、まだまだ煩悩退散の精神が未熟である証拠だろう。
白咲さんに相応しい男になるためにはそんなことでは駄目だ。他の女子に目移りしていては一途の愛など語れやしない。
気持ちを切り替えつつ二度寝を諦めた俺の目の前にあったのは煩悩の塊とも言える光景だったというわけだ。
「ていうか……………………なんでおっぱいが?」
思わず上擦った声が漏れる。
ベッドの上にいる俺の目の前にある物。それは乳!
ふくよかかつボリューミィーな二つの盛り上がりを凝視してみても、起きがけに抱いた当然の疑問に対する答えは見つからない。
何であれ、この夢の中ならぬ夢のような状況にある俺がやるべきことは何だ?
雑念を振り払うことか?
それともただじっと夢から覚めるのを待つことか?
違うだろう。
夢じゃなければ出来ないことが、夢だからこそやらなければいけないことがあるはずだ。
「…………」
息を殺し、そっと人差し指で二つあるおっぱいの片側をつついてみる。
ふにふにとしていて凄くやわらかい。
現実世界では色んな意味でアウトな行動に他ならないが、これは夢だ。
男として目の前にあるおっぱいから目を逸らすなんてことはあってはならない。目を覚ませばおっぱいどころかクラスの女子をまともに見ることすら出来ない俺だからこそ夢の中でぐら男の義務を果たさなければならないのだ。決してこれは浮気ではない。
「…………」
気配を殺し、今度は軽く逆側の膨らみを摘んで揉んでみる。
その感触はプライスレス。いっそのこと永遠にこの夢の中で生きていきたいとさえ思えてしまう。
「んにゅ……」
調子に乗って二度三度と揉んでしまったせいか乳の持ち主が小さな声を上げた。
やべぇと思って慌てて手を放し視線を上に上げると、薄目を開きつつあるその人物と丁度目が合う。
そしてすぐさま俺の存在を認識したのか、不思議そうな声を上げた。
「…………ユウ?」
「お、おはようございます……リリーさん」
何を隠そう、おっぱいの持ち主はリリーさんだった。
いやー、夢じゃなかったのかー。
全然気付かなかったわー……タンクトップ着てるんだからブルネットの素肌も普通に見えてたし、無理がある言い訳過ぎる。
「オハヨ。でも、なんでユウがリリーのベッドにいるカ?」
「いや、ここ俺の部屋なんですけど……」
むしろ俺が問いたい。
なんで起きたらリリーさんと同じ布団で寝てんだ?
というか理由がどうであれバレてたら完全に人生が詰むようなことをしてし、気付いてないことを願うばかりである。
兎にも角にも直前の行動を除けばこの状況にあること自体には俺に罪はないはずだ。
それでいて誰かに見られでもしたら不味いことになるのは明らかなので出来れば早く出て行ってもらいたいのだが、ありゃ? とか言って首を傾げるリリーさんにそれを口にしようとした時、運悪くなのかタイミング悪くなのか部屋の扉が開く音かする。
「優兄~、ご飯出来た……よ」
扉の音とその声に心臓が飛び出そうになりつつ慌てて起き上がると、出入り口でこちらを見て固まっているのは最悪も最悪。りっちゃんだった。
同じベッド、同じ布団で俺とリリーさんが寝ていたのだ。傍目に見れば憶測の行き着く先なんて一つしかない。
違う。誤解だ。落ち着いて。
掛けるべき様々な言葉も咄嗟には声になってくれず、どうにか絞り出そうとするも一文字目を口にした時にはりっちゃんの絶叫に掻き消されてしまっていた。
「ママァァァァァ!!!!!!」
りっちゃんは猛スピードで廊下を駆けていく。
って、耶枝さんにチクろうとしてんじゃん!
どうすんだこれ、叫びたいのはこっちだってのぉぉぉ!!!!
○
場所をリビングに移し、並んで座る俺とリリーさんはありのまま事実を耶枝さんとりっちゃんに説明する羽目になった。
耶枝さんは大方そういうオチを予想していたのか特に怒ったりはしていなかったのだが、りっちゃんが相当ご立腹な様子でなんだかもう尋問状態である。
「きっと夜にトイレに行った時に間違っちゃったヨ、ドンマイドンマイ」
とか言って俺の肩を叩くリリーさんは取調中も一人だけ暢気に笑っているあたり全く気にも留めていなさそうだ。
ドンマイじゃねえよ。絶対に俺には一%も非がないだろこれ。
あんたが間違ったのに何で責められる比率が9:1で俺寄りなの?
「優兄、ほんっとーに変なことしてない? 神に誓って?」
前に座るりっちゃんのジト目が突き刺さる。
……だから何で俺?
「してないってマジで。ていうか今リリーさんも言ったけど、寝てる間の出来事なわけだから俺は起きるまで知らなかったんだからさ」
起きてから変なことはしちゃったけど、とは言えない。りっちゃんどころかリリーさん本人にも言えない。
「ユウは弟みたいだからうっかりしちゃったヨ。今度はリオンと一緒に寝ればオーケーか?」
「何であたしがあんたと一緒に寝んのよ。ワケ分かんないし、うっかりで誤魔化されるかっての。大体あたしアグネスにも怒ってるって分かってんの? ママが許してもうちで変なことしたら追い出してやるんだからね」
「変なことってなにカ?」
「……俺に聞かれても」
答え辛いわ。
邪推するのも無理はないが、りっちゃん自身その変なことが何を指すのか分かってるんだろうか。
最近の中学生は進んでるって言うし……そりゃ分かるか。
ちなみにアグネスというのはりっちゃん流のリリーさんの呼び名である。リリー・アグスティナだからアグネスでいいじゃん、という謎理論から生まれた呼称だ。
バイト達のことをそれぞれ性悪、ヤンキー、変態、アグネス、という独自の呼び方をするのだが、みんな年上なんだしもう少しどうにかならないのかと聞く度に思う俺であった。
勿論のことそれを口にすると怒るので言わないけども。
「優兄も、付き合ってもない女を部屋に連れ込むとかあり得ないから」
「………………はい」
別に連れ込んだわけじゃないのに。
そもそも俺は悪くないのに。
ていうかそれが駄目なのに昨日みたく風呂に突入してくるのはオーケーなのだろうか。
大人の耶枝さんですら笑って許してくれているし、色々と反論の余地も無いでもないが、そんな理屈が通じないのがりっちゃんである。
仕事が休みの日の朝ぐらい平穏に過ごしたいものだ。
いつかそんな些細な願いが通じる日を迎えることが出来るのだろうか。
そんなことをしみじみと思った平日の朝だった。
○
さて。
朝からあれやこれやとあって登校を迎えたわけだが、そんな俺は今何をしているでしょうか。
正解は厨房に立って洗い物をしている。でした~……全然盛り上がらねぇ~。
なんだか最近、朝起きてから登校するまでと学校から帰って働いている意外に何かをした覚えが無いんだが気のせいだろうか。
もはや学校なんてなかったと言わんばかりにそんなシーンしか語っていないのだから無理もない。
学校で過ごした半日で覚えているのなんて白咲さんの横顔ぐらいだ。松本? 山本? 誰それ。
そんな知らん奴らのことは置いておくとして、なぜ定休日に店に立っているのかというと、店内でちょっとした作業があったからである。
作業といってもカーテンを代える(自分で見つけたらしい可愛い柄の物に)だとか、フォークやナイフを今使っている物から別のへと代える(自分で見つけてきたらしいなんか洒落たデザインの物に)だとか、同じ理由でコーヒーカップだとかトイレのカバーだとかを取り替えたり、作り直したメニュー表をラミネート加工するだとか、そういったものだ。
二、三日前に耶枝さんから『次の休みの日にやる予定だからもし暇だったら手伝ってくれると嬉しいな、勿論普段通り時給も出すし♪』という通達があり、『どうせやることもないし』という理由で如月が、『ノートを買い換える資金のために』という理由で音川が参加することになり、相良が所用で、リリーさんは大学の講義で遅くなるため不参加となった結果副店長の俺が特に理由もなくサボることも出来ない空気になって渋々参加することになってしまったわけさ。
ゆっくり休む気満々だったってのに……ほんとツイてねぇ。
「…………」
ホールでの作業を女子連中に任せ、俺は厨房でついでにやることになった棚卸しをしている。
取り扱う食材が多すぎるため、これも月一は必要な業務だ。
隣には耶枝さんがいるのだが、何が楽しいのか鼻歌を歌いながらルンルン気分全開でホワイトシチューを作っている。
なぜ定休日に店でシチューを作っているのかというと、単なる桜之宮家の晩ご飯である。
人手が必要な作業も終わったため、監督がてら厨房で料理をすることにしたのだとか。
ポジティブなのやら考えなしなのやらという性格については今更考えるだけ無駄なのだろうが、よくもまあこうやっていつでもどこでもニコニコしていられるものだ。
リリーさんも然りだが、ストレスとか感じることあんの? っていつか聞いてみたい。いや、マジで。
「うん、美味しいっ」
やがて調理が完了したらしく、耶枝さんは小さめのスプーンを口に含むと満足げに言った。
かと思うと、再び鍋からシチューを掬いそれを俺の口に突っ込んでくる。
「優君、あーん♪」
と口では言っていたが、受け入れ体勢皆無な状態でねじ込まれたスプーンにびっくりして悲鳴を上げそうになっていた。
それもギリギリで飲み込み、続けてシチューを飲み込む。
不意打ちで口に物を突っ込まれた驚きと、あれこれって間接キス的なことじゃね? という戸惑いで鼓動が早くなる中、口に広がるのはコクのある濃厚でいてクドさもなく喉ごしも絶妙な美味と表現する他ない温かく優しい味だ。
「さすがですね、耶枝さんの丁寧な料理を目の当たりにすると俺もまだまだだなーって思いますよ」
びっくりするじゃないですか。という抗議の言葉はいつの間にか消えてしまっていた。
正直、料理の腕そのもので見れば俺はきっと耶枝さんをそれなりに上回っていると思う。
だけど俺がシチューを作ってもこの味は出せない。店で出すデミグラソースなんかも似たような作り方だからよく分かる。
総合的な能力を身に着けているからこその弊害とでもいうのだろうか。
俺の場合一定のクオリティーを維持できていれば残りの技術は速度に割り振る傾向がある。
複数のメニューを同時にこなすがゆえの必然であり、ホテルのレストランで料理をしていた母に教わった頃から同時進行と同時完了に重点を置いて、それは家庭料理ではなく料理人としての技法を授かったからだ。
対して、耶枝さんは腕前やスピードで劣っている分、俺よりも丁寧さがある。
だからこそ煮込み料理や食卓に並ぶような家庭料理の出来では勝てないと、実は最近分かり始めていた。
タマネギとかあんなにじっくり炒められないもん俺。だからここまでコクが出ないんだろうな。
そんな感想を漏らす俺に対し、耶枝さんはどこかご機嫌だ。
「料理人としては優君の方が断然レベルが高いよ。これは料理人じゃなくて主婦スキルだからね。でもまあ、そう言ってくれるとママの立場としては嬉しいよね。なんだったらわたしのこともお母さんって呼んでもいいんだよ?」
「はぁ……」
それはおかしいだろ普通に考えて。と率直に言っちゃうとまた拗ねるので適当に流しておいた。
その後耶枝さんは二階に鍋を持って上がり、ついでにサラダも作ってくるとのことだ。
厨房に一人になった俺も食材の点検が完了し、あとは少しの片付けをすれば終わりだ。
それからスーパーに買い出しに行けば帰っていいことになっているし、もう一踏ん張りすっか。
と、片付けをしていると如月が厨房に入って来た。
かと思うとシンクで空いたグラスを洗い始める。その様を見てもホールの仕事も大方終わりが近付いてきていることが分かった。
「…………」
「…………」
いつも通り何を言うでもなく、それどころか傍を通り過ぎるのにこちらを見もしない。
店でも学校でもそれ以外でも徹底しているのだから他人に対する拒絶具合は俺の上を行っているレベルだ。
そのくせ嫌味や文句だけは隙あらば浴びせてくるのだからマジ嫌な奴。
まあいいけどね。俺も歩み寄る気ゼロだからね。
所詮二人揃って社会性や協調性が欠落している人間なのだ。だったらお互い無関係でいることが幸せなのさ。
「……何してんのお前?」
心の中でしか言えない皮肉を思い浮かべていると、シンクでガタンとグラスが倒れる音がする。
そしてその瞬間、小さな悲鳴と共になぜか如月が俺の腕に抱き付いていた。
一体何の罠ですかこれは?
俺を社会的に殺す罠か、それとも一生俺を強請るための罠か? 引っ掛かるかコノヤローと頭で思っていても、体が密着することで生じる柔らかな感触と良い匂いが強気に出る意志をへし折ってきやがるので全然出来ない。
負けては駄目だ。これは絶対罠だと、それでも勇気を振り絞って脱出しようとする俺の葛藤を知って知らずか、如月は若干震える声でシンクの下を指差した。
「ちょ、ちょっと……あれ」
「……あれ?」
何があるのかと見てみると、黒い何かが目に入る。
よく見てみると茄子のヘタであることがすぐに分かった。
「なんだよ、茄子のヘタじゃねえか」
「な……茄子?」
「なるほど、これが虫に見えたんだろ。確かにゴキブリとかに見えてビクってなるのも分からんでもないな」
言うと、如月はもう一度「茄子……」と呟いた。
すぐにどこか強張っていた顔がようやく緩む。
ホッとしたように、安堵の息と共に。
そしてようやく冷静になり自分が何をしているのかを理解したのか、慌てて俺の腕を放し距離を置いた。
「ちょっと、気安く触らないでくれるかしら。感染るじゃない汚らわしい」
「お前がビビってくっついてきたんだろが……大体、何が感染るんだよ」
「何て言うかこう、地味さとか幸薄さがよ」
「移るかそんなもん!」
ちょっと人間らしい……いや、女らしい一面を見せたかと思うとすぐこれだよ。
「つーか、お前でも虫とか苦手なんだな」
恐れるという感情を持ち合わせていたことがむしろ驚きである。
「何よ……私なら虫なんて平気そうだとでも言いたいのかしら」
「平気そうって言うか虫ぐらいなら普通に食ってそうだもん、お前」
「……どうしても死にたいみたいね」
それは完全に失言だったらしく、うっかり本音を漏らしてしまったことを自覚した時には久しく忘れていた冷たい目が俺を捕えていた。
それどころか何故か傍に立ててあった包丁を手にしている。
「ハハハ……イヤダナァ、ジョウダンニキマッテルジャナイデスカ」
「…………」
「……いや、マジでほんっとごめんなさい」
据わった目が本気で恐ろしいので九十度のお辞儀をするしかない哀れな俺である。
ちょっと軽口叩いただけで包丁持ち出すとか頭おかしいよこいつ。
俺の全力謝罪が通じたのかどうかは定かではないが、如月はようやく包丁を戻すと舌打ちを一つして再びグラスを洗い始める。
……怒らせると怖いのはダントツ相良けど、怒らせるとヤバいのは完全に如月だな。
冗談の一つも言えないこの職場のキャッチフレーズは【アットホームなお店】であることをご贔屓にしてくれている皆さんはご存じなのだろうか。全然違うよね、完全にアウェイだよね。
もうこいつと同じ空間に居るの嫌だ。胃がキリキリする。
「さーて、買い出しに行ってくるかな」
わざとらしく言って、精一杯のさりげない風を装いつつ厨房を出るべく歩き出す。
如月に背を向けることも末恐ろしいが、もう俺のライフはゼロなので早く逃げたい。
「ちょっと待ちなさい」
背後から聞こえる非情な声。
いっそのこと走って逃げるべきだろうか。それはそれで後々地獄を見ることになる気しかしない。
どうする。
どうする。
どうする。
考えろ俺!
「……何か」
悩んだところで正しい答えなど見つけられるはずもなく、そもそもそんなものがあるはずもなく、結局立ち止まりゆっくりと振り返ることしか出来ない。
すると、その先にいた如月は俺を嬲ろうとする素振りを見せるでもなくただ一枚の紙切れを差し出していた。
恐る恐る受け取ってみると、メモ用紙と思しき小さな紙には短い単語が羅列してある。
なんだこりゃと上から順に読み上げてみると、
「卵、醤油、冷凍のエビフライ、鶏もも肉、ゴミ袋……って、なんだよこれ?」
「見て分からないの? 買い物リストに決まっているじゃない、それ以外の何に見えるのか逆に説明して欲しいわね。あなたに可能とも思えないけど、人間の言葉で」
「うるせえよ、会話の最中に人間の言語が使えない可能性を憂うな。そうじゃなくて、これを俺に渡した意味は何だって聞いてんの!」
「察しの悪いミジンコね。これから買い出しに行くのでしょう。それ、うちの買い物だからついでに買ってきなさい」
「はあああぁぁぁぁぁ!? チョーシ乗んなよお前、何で俺が!?」
「心配はいらないわ。ちゃんと店長の許可は得ているから」
「そんな心配してねぇから! 耶枝さんがどう思うかとかじゃなくて、俺の気持ちの問題! なんで俺がお前の家の買い物して来なきゃならねえんだよ、いい加減パシリ扱いし過ぎだろ」
「え? ちょっと言っている意味が分からないのだけど」
「………………何が」
「私の使いっ走りが出来るのよ? それはつまり、あなたみたいな人が私の役に立つ機会を与えてもらえるということなのよ? 恐らくはあなたの短い人生で唯一にして最大の誉れになることなのに、感謝をされても怒鳴られる意味が全く分からないわ」
「何でそれがプラス要素だと思ってるのか全然理解出来ねえし、まず短い人生とか言うな! あと久々に聞いたよその『みたいな人』ってやつ! ついでに心底不思議で仕方がないと思ってる風の表情を作んな、無性にハラ立つんだよ!」
ツッコミ所が多すぎて過呼吸になるわ。
そんな俺の怒濤の反論に対し、如月は言葉責めに飽きたのか単に面倒臭くなったのか、ふぅと一息吐いてごく単純な問いを口にした。
「なんだっていいけど、結局のところどうするの? 行くの? それとも死ぬの? じゃなくて、行かないの?」
「…………」
行くか死ぬかの二択なんかい。
なんでこんな扱いばっかり……どこまでも自分が得をするためなら人を踏み台にすることに躊躇いのない奴だ。
とはいえ、逆らったら逆らったで後が怖いからなぁ……。
この前なんてうっかり着替え中に二階に上がっちゃったせいでそれをネタに随分と仕事を押し付けられたもんな。
片付けとか、開店前の外の掃き掃除とか、挙げ句の果てに土曜の昼休みを丸々犠牲にしてケーキ買うために並ばされたりしたしな。
「はぁ……分かったよ、買ってくりゃいいんだろ」
ああ、弱き俺の残念なこと。
せっかく下着姿見ちゃった件は言われなくなったのに。
まあ、それが無くても白咲さんの名前出されたら勝てないんだけどさ。
最初の約束なんて今となっては守る気があるのかも怪しいけど、週明けには一緒の班で遠足に行くんだ。
ここで如月を怒らせたりしたら仲を取り持つどころか邪魔してきそうだし、ついでの買い物ぐらいは我慢してやるさ。
「じゃあ……ほれ」
「何その手は」
「金に決まってんだろ。悪いと思う気持ちがあるからケーキは奢ったけど、これは別問題だ」
「レシートと引き替えに決まっているでしょう。誤魔化したりしそうな顔と性根をしているから信用出来ないわ」
「……しねえよ、んなこと」
釣り銭誤魔化しそうな顔ってどんな顔なんだろうね。
帰ったら鏡見てみようっと。




