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ファミーユの副店長戦線  作者: 天 乱丸
【第一話】
18/56

【17オーダー目】 修羅場過ぎるchaleur de la famille



「「ありがとうございました~」」

 耶枝さん、如月、相良の声が店内に響く。

 時刻は午後一時を回ったところ。日曜日の昼食時とあって店内は賑わっており、ほとんどの席が埋まっている。

 やはりこの状況だけを見れば上出来過ぎる滑り出しを切っている新装開店ではあるが、今日に限っては店長自ら売り上げを低下させてしまっているので昨日ほどの利益は出ないことは間違いない。

 昨日が出来過ぎだった感があるとはいえ、利益率二割を切るメニューをこれだけ売らないといけないのだから赤字を避けられれば御の字といったところか。

 なんて当初の見立ては意外にも大きく予想からずれていた。

 だからといって一概に喜べるわけでもなく、利益が出るイコール豚肉が売れていないという図が成り立つ以上消化しきれなかった豚肉がまるまるマイナス収支に加わるのだから楽観視は出来ない状況だ。

 この二時間で店で出たトンカツセット、ポークチャップは合計九セット。元々がパスタ類やご飯物などのランチメニューは高くて五百円台、ホットケーキやサンドウィッチなどの軽食類に至っては五百円を切る価格設定のせいでいくら安売りでプッシュしてもそれほど爆安感が出ないので目立ちにくいのかもしれない。

 かと思えば、それとは対照的に外で売っている弁当は好評を維持していた。

 弁当三百八十円は魅力的だし、これだけ周りに店や会社がある立地だ。纏めて買っていってくれる人や、買い物に来て目に付いたから寄っていくなんて人も多く、外に居るリリーさんと音川は忙しくしている。

 外から見物していた奴らもメイドが外に居るおかげで近寄りやすくなったのか、結構買ってくれたらしい。

 ついでに言えば、持ち帰り機能が出来たようなものなので店内で食事をしたお客さんがいくつか買って帰ってくれたりもしていた。

 そんな塩梅でどんどん追加で豚肉を揚げ続け、すでに五十個以上の弁当が売れているという上々の成果だといえる結果をもたらしている。

 耶枝さんが厨房にいるおかげでそんな状況でも滞りなく回転していたわけだが、その耶枝さんは今から休憩に入る。俺にとっての本日一発目の修羅場となりそうだ。

「じゃあ休憩に入るけど、本当に優君一人で大丈夫? こんな状況だし休憩ぐらいなくてもわたしはいいんだよ?」

「昨日の夜に比べりゃ全然大したことないんで大丈夫ですよ。夕方からもっと忙しくなると思うんで今のうちに休んでください」

 まあ金曜日土曜日に比べりゃ日曜の夜は飲み客の比率も下がるだろうけど、昨日の有様を見ている限り比率がどうであれ満席になるであろうことは容易に予想出来るだけに。

「わかった、じゃあお願いね」

「うっす」

 小さく手を振って、耶枝さんは二階に上がっていく。この後はホールと弁当係が一人ずつ二人一組で休憩に入り、最後に俺という流れ。

 今更になるが土日は賄いとして昼飯が出るシステムになっている。勿論今日の昼飯は全員トンカツ弁当である。

 その六枚を入れれば合計七十枚ぐらいは減った計算になる。

 どう足掻いても冷蔵庫に入るのは二百枚足らず、耶枝さん一家用の冷蔵庫に少しと空いた冷蔵庫に随時移していったとしても大したプラスにはならない。

 となると、今日売らなければいけない量だけで約三百枚。

 弁当にする分には後先考えずに量産していけばいいが、店で出そうと思うならば肉の状態を考えても夜になってから山ほど売るのは難しいだろう。

 望ましいのは夕方までに残り二百三十枚……その内の半分を弁当で捌けたとしても途方もない数字だ。

 これだけトンカツを作ればその分キャベツの千切りが出来るというのが唯一の救いだが、言ってる場合か。

 てなわけでオーダーをこなしつつ、手が空くたびにトンカツを揚げながら一人厨房で奮闘する俺。

 やっぱ珈琲の注文が入った時だけは耶枝さんの方が早いんだよなー。修行が足りねえなー。なんて思いつつ、そんな時間が三十分ほど過ぎた時だった。

 突然ドタドタと誰かが階段を下りてくる音が聞こえて来た。かと思うと、

「うえ~ん、優く~ん……どうしよ~」

 なぜか姿を現すなり朝と全く同じ台詞で朝と全く同じ様に俺の腰に手を回して抱き付いてくる耶枝さん。

「ちょ、どうしたんですか……ていうか店の中ですよ耶枝さん……はっ!? ま、まさか……また五百枚じゃないでしょうね」

「違うもんっ。そんなミス一日に二回もしないもん」

「一日どころか二度とされては困りますけど……なら今度はどうしたんですか」

「あのね……今日保険屋さんと会う約束があったんだけど……すっかり忘れちゃってて」

「保険屋……なんの用事があるんですか。ていうかなんで今日?」

「このお店の保険なの……建物もそうだし、什器や備品、あとお金もそうだし従業員の労災とか色々まとめてプランを出してもらってたんだけど、日曜日なら大丈夫かなって先月日程を決めたものの昨日オープンするのを決めたのがその後で……」

「それで今日と決めたのを忘れたまま昨日オープンしちゃったと……ちなみに何時にどこで会う手筈なんですか?」

 どれだけその場のノリで進んだ計画かが良く分かる。

 さすがに従業員の数も分からないうちから保険を掛けておけとは言わないが、何もオープン二日目の忙しい日曜日に、加えて豚肉を必死に売らないといけないこのタイミングでなくてもいいのに……。

 そんな気持ちが顔に出てしまったのか、耶枝さんはことさら申し訳なさそうな顔で俺の抱く失望感を更に増長させる宣言をした。

「一時から……笹ヶ野で」

「笹ヶ野!? こっから一時間ぐらい掛かるじゃないですか! しかも一時ってとっくに過ぎてるし!」

「だから困ってるんじゃない~。電話が掛かってきて初めて思い出したんだから」

「いやそれ、どうしようもなにも……キャンセルして日を変えてもらうしかないでしょもう。ていうかなんだって笹ヶ野で」

「申し込みの電話をしたのが実家だったから……あ、知ってた? うちの実家が笹ヶ野だって。優君一度も来たことないでしょ? 覚えておいてね」

「知ってますし、今その情報はすこぶるどうでもいいです」

「ふえ~ん、優君が怒る~!」

 そう言いつつ、やっぱり俺にしがみつく耶枝さんだった。

 一応階段の脇なのでホールからは死角になっているが、泣き声聞かれたらお客さんが何事かと思うだろうに。

「だから怒ってないですって。どっちにしても、キャンセルするしかないのでは?」

「先方も結構遠くから来てくれてるからキャンセルは出来ないよ~、それに急いで行きますって電話で言っちゃったし……」

 ……言っちゃったのかよ。だったらなんの相談だったんだよ。

「……じゃあ行ってくるしかないじゃないですか」

「でも……往復だけでも二時間ぐらい掛かっちゃうんだよ? お店が……」

「ま、仕方ないでしょこの際。厨房は俺がなんとかしときますんで、気にしないで下さい」

 敢えて言っておくが、前向きになったとかでは全くない。ただ、気にしても気にしないでも結果変わらないっぽいからねこれ。

 いくら忙しいったって昨日の夜よりはマシだろうし、往復二時間に話をする時間を入れても五時六時にゃ帰ってこれるだろう。それならどうにか乗り切れるはずだ。

「だってだって、優君まだ休憩も取ってないのに」

「あー、まあ休憩は取ったことにしておけばいいでしょ。労基的には」

「そうじゃなくて、優君の体を心配してるのっ」

 おおう……そういう意味だったのか。

 ここで体を心配ってタイミングが全然違う気もするが、拗ねた様な顔で言われりゃツッコむわけにもいかず。

「大丈夫ですって。昨日の夜に比べたら全然余裕ですし、キャベツ達も俺を癒してくれるんで。早く行けばその分早く帰ってこれるんですから、気にせず行って来てください。奴らには俺から説明しとくんで」

「うぅ……優君、キャベツのくだりはよく分からないけど、しばらく見ないうちに立派になっちゃって……分かった、そう言ってくれる優君の為にもササッと行ってシャバっと帰ってくる! ってことで行ってきます! 悪いけどよろしくねっ」

 一転、キリっとした顔で言うと、耶枝さんは入り口から駆け足で出て行った。

 その真面目っぷりがシャバっと帰って来てくれる希望を薄めている感じだったが、耶枝さんにとって俺が立派になったように見えるのであれば、それはそんな耶枝さんが反面教師となっているがゆえのことなので善し悪しが微妙なところである。……ていうかシャバっとって何? って感じである。

「っと、そんなこと言ってる場合じゃねえ。あ、如月」

 丁度良いところに如月が空いた皿を下げてきた。余談だが今日は耶枝さんも厨房に居てくれたおかげで洗い物も溜まっていないという点も昨日とは大きく違う。

「……何?」

 それはもう面倒臭そうな顔で如月は溜息を吐いた。

 まるで年頃の娘がリビングに飲み物を取りに来たら偶然嫌っている父親と出会した挙げ句、バリバリの話し掛けるなオーラを無視して声掛けてきた時みたいな冷たい反応だ。

「……緊急事態だ。耶枝さんが居なくなった」

 言葉を続ける意志が折れそうになったが、どうにか踏み留まり文句も飲み込んで事情を説明する。これも小学校の時に『秋月をマジギレさせた奴が負けゲーム』の餌食になった経験のおかげか。

「居なくなった? どうして急に」

 如月は眉をしかめる。事後報告になった以上は当然の反応なので俺も詳細を説明した。

「はぁ、店長らしいといえばそれまでだけど、どうしてこうも次から次へと」

「言いたい気持ちは大いに分かるが今は文句言っても仕方ねえよ」

「仕方ねえなら、どうするのかしら? 副店長(仮)さん」

「誰が(仮)だ」

「(笑)いえ、(没)の方がお似合いだったわね。これは失礼」

「確かに失礼だよ! つーかそんなこと言ってる場合じゃねえんだって、今は」

「今際? やっぱり死ぬんじゃない。謝って損したわ」

「ハイハイソウデスネー。で、話を進めるとだな、今のうちに休憩行ってきてくれって話」

「この混み合う時間にさらに人が減って平気なの? 馬鹿なの? 死……」

「死なねえから。今はほとんど席が埋まってるからまだマシだ。これが入れ替わるタイミングになった時の方がオーダーが増える分大変だし、夕方にはメニュー切り替えやらでもっと忙しくなるだろ」

 さすがにその頃には耶枝さんも戻ってきているとは思うが、あの人のことだ。楽観視は全く出来ない。ならば悪い方のパターンで計算しておかないと大惨事になりかねない。

「はいはい、言う通りにしたらいいんでしょ。副店長(自称)さん」

「……ほんっと拘るなお前は。もうなんでもいいから、お前か相良のどっちか一人今から休憩な。外に居る音川かリリーさんも同時に行ってもらうから」

 まったく……緊急だというのによくもまあ嫌味ばかり口から出てくるものだ。しつこいというか根に持つ奴というか、さすがは学年一嫌な奴(俺調べ)って感じだ。

 無駄に無駄話ばかりしてしまったが、そんなわけで最終的に相良と音川が昼休みを取ることになった。外の弁当販売係がリリーさん一人になることを考えると少し心配だが、音川曰く「客引きも上手にやってるし電卓も渡してあるから大丈夫だよ」とのことなのでなんとかなりそうだ。

 出来た弁当を届けがてらちょくちょく様子を見ていれば問題ないだろう。

 今は飲み物の追加やデザートの注文に偏ってるし、今の内に弁当作って洗い物してついでに飯も追加で炊いておくとしよう。

 そう意気込んで、オープンしてから初めての三人体制での営業時間が始まる。どのみち明日からは三人かプラス耶枝さんの四人で店を回していくことになるのだ。忙しかろうと慣れて貰わないと困るし丁度良い修行になるだろう。

 なんて自分らしからぬ前向きな考えを抱いたのが凶兆だったのか、そんな時間は突如現れた招かれざる客によってわずか十五分で雲行きが怪しくなることになる。

「いらっしゃいませー」

 カランカランと、やや強めに鳴ったドアベルに反射的にお出迎えの挨拶を口にする。

 本来お出迎えに来るはずの如月は丁度オーダーの最中だったので俺が席へ案内するべく無意識に、客の姿も確認しないままに厨房を出ると、そこには何やら見覚えのあるピンクのジャージー姿をした金髪の若い女が一人でキョロキョロしていた。

 なぜか俺を見るなり焦った様子で寄ってくる。

「あ、兄貴!」

「いや、だから兄貴じゃないって……」

 思い出した。

 こいつあれだ、昨日来ていた相良の舎弟らしき奴らの一人だ。息を切らしているし、随分と焦っているみたいだが……何しに来たんだ?

「兄貴……もしかして姉さん、今日は来てねえんスか?」

「アネさんって相良だよな? だったら朝から居たけど……」

「でも電話が繋がんねえんスよ。見たところ店にも居ないじゃないッスか」

「そりゃまあ……バイト中なら繋がらないのは仕方ないんじゃないの?」

 原則仕事中は携帯を持ち歩くことは禁止となっている。俺と耶枝さん以外はロッカーに置いて働いているはずだから電話に出てくれるはずもない。

「今は休憩中だから上に居るけど、呼ぼうか?」

 言うとピンクは、

「一大事なんス、おねがいしゃす!」

 そう言って思い切り頭を下げた。

 一大事って一体何があったのか気にならないこともないが、それよりもこんなんに店の入り口で喚かれても迷惑だ。さっさと相良に引き渡してしまうとしよう。

「じゃあちょっと待ってて」

 言い残して、階段の下から相良を呼ぶことにした。登ればすぐに休憩室だし、十分聞こえるだろ。

「さが……巴~」

 やっぱり慣れない呼び方をギリギリ修正したはいいが、ほとんど同時に階段から降りてきたのはなぜか音川だった。

「驚いたよ優君、まさか君がサガット萌えだなんて特殊な趣向を持っていたとは」

「ちげえよ、誰があんなアイパッチしたスキンヘッドに萌えるんだよ。そしてなんでそれを階段に向かって叫ぶんだよ。そうじゃなくて、ちょっと相良呼んできてくれないか? 連れが呼んでるって伝えてくれりゃいいから」

「えぇ~、僕はこれから本屋に行こうと思ってるんだよ? それを阻止しようだなんて酷い仕打ちじゃないか」

「十秒で済む用事だろ。ほら行った行った」

「まったく、強引なんだから。だったら交換条件を出すとしよう」

「交換条件~?」

 この音川ってのは存外がめつい奴らしい。この駆け引きしてる間に自分で呼びに行った方がよっぽど早いぞこれ。

「僕が本屋から帰ってきたらアイスオレを淹れてもらう。それでチャラだ。約束だよ」

 音川はそう言って俺のでこを人差し指でつついたかと思うと、そのまま階段を登っていった。相変わらず言動に謎が多い奴だ。

 ともあれ音川のおかげで相良も降りてきたので文句は言うまい。その相良はなにやら切羽詰まった様子でピンクと外に出て行ったが、なにやってんだか。

「ま、どうでもいいけど」

 そんな事を考えている暇があったらカツを揚げねば。それから音川のオレもそろそろ淹れておくか。

「優!」

 またか……何かをしようとするたびに誰かに邪魔されるのもいい加減慣れてきたぞ。

 げんなりしつつ厨房から入り口を覗くと、疑うまでもなく声の主である相良が厨房に乗り込んできた。

「なんだよ……ていうか、なんでキレてんの?」

 さすがに厨房内ではホールから見えて目立ってしまう。俺は相良を厨房脇の死角へと連れ出した。

 しかし相良はどこか興奮と焦りの入り交じった様子で、俺の手を振り払う。

「優……頼みがある」

「……なんでしょうか?」

 聞きたくない……きっとロクなことじゃないから絶対に聞きたくない。

 だがそれを口にするときっと聞くか死ぬかの選択を迫られるのだろう……チカラガホシイヨ。

「今……ウチのモンが助けを求めに来た。なんでも他所のチームの奴らがウチの舎弟を拉致ったらしい」

「拉致ったって……それ普通に事件じゃん、相良に助けを求める前に警察に電話しないと駄目なんじゃ……」

「ンな卑怯な真似が出来るか!」

「えぇぇ~……」

 そういう問題? ていうか拉致るのは卑怯じゃないのかヤンキーの流儀的に。

「つまりだ、奴らは喧嘩を売ってきてるワケだ。だったらヘッドとしてウチも仲間連れて乗り込んで、ブッ飛ばしてから舎弟を取り戻すのが役目だ。分かるだろ、なあ?」

「まあ……分かるような、分からないような。ていうか俺に頼みってのは……」

「今は休憩中とはいえウチは仕事中なんだぞ、本来ならバイトも金もクソ食らえって飛び出して行くところだ……だけど店長とお前には恩も義理もある。だから筋を通してから行きたいんだよ」

「………………」

 俺の許可を得てから殴り込みに行こうと、そういうわけらしい。

 どう考えても警察に任せるべきだと思う。百人に聞けば百人がそう言うだろう。だが相良にそのつもりは毛頭無いようだ。

 なんつーか、本当にヤンキー漫画の世界観を再現されている感じで戸惑いしかないんだけど、俺はどうするべきなのだろうか。

 そもそも喧嘩しに行くのを認めることも躊躇われるし、バイトを抜け出していくのも簡単に許せる問題じゃない。

 何より、もしも警察沙汰にでもなろうものなら事情を知っていた俺も巻き込まれる可能性が高いのだ。そんなのは御免被りたい。

 だけど、恐らく相良は駄目だと言えば今日限りで店をて辞めてでも出て行くだろう。知り合いが拉致られ、助けを求められたのにバイト中だから行けないなんて奴こそ百人がそう言う目に合えば一人も居ないとも言える。

 例えば連れ去られたのではなく、身内が倒れたとか事故にあったとなればどうだろうか。連れ去られる友達が居ない俺だって反対されても店を出て行く、間違いなくだ。

 その気持ちを汲んでやれば店も従業員を失わなくて済む。問題は何をしようとしているかということに尽きるわけだけど……俺は副店長としてどうすべきなんだろう。

「相良が行ったら……無事に解決するのか、それは」

 聞くと、真剣な表情で俺の言葉を待っていた相良は拳で軽く俺の胸を突いた。

「ウチが……ウチのチームが負けるわけねえだろ。チャチャっと行ってモサっと終わらせてドチャっと帰ってくる。大したことねえってこのぐれえ。約束するぜ、だから頼む……黙って行かせてくれ。行かなきゃウチは仲間を見捨てるクソ野郎だ、行けばお前や店長の恩義に背くクズ野郎だ。ウチを……カス野郎にしないでくれ」

 相良は頭を下げる。

 お辞儀というよりは、親分を出迎える任侠の方っぽく膝に手を突いた頭の下げ方ではあるが、少なくとも俺なんかの言葉で止められるような安い覚悟で言っているわけではないことぐらい分かる。だからこそ、俺はこう答えるしかない。

「分かった……だけど、二つ約束してくれ。本当に危ないことになりそうだったら警察に電話すること。どうしてもそれが嫌ならせめて俺に連絡してくれてもいい。もう一つは、もし何事もなくことが済んだ時は戻ってきて仕事の続きをすること。ただでさえ耶枝さんも居ないんだ、人手が足りないと困るからな」

「優……恩に着るぜ! その約束は死んでも守る!」

 ガバっと、乱暴に俺を抱擁し、相良は二階に上がっていった。すぐに着替えて降りてきたので俺の電話番号を教えると、そのままピンクと共にマフラー音をブンブン鳴らしながら店から離れていく。

 人として、副店長として、自身の判断の正しかったのかどうかなど分からない。

 だけど人が心から何かを訴えようとしているのなら、せめてそれは分かる人間でいたいと思う。それを理解してもらえないこと、無視されることの辛さはよく知っているから。

「ていうか……むしろこっちもこっちで問題なんだよなぁ」

 これで二人抜けた。

 残るは俺プラス三人なわけだが、音川が休憩から戻っても如月とリリーさんを同時に休憩させると弁当担当とホール担当を合わせて音川一人になる。

 論ずるまでもなくそれは無理な話だ、こうなりゃ一人ずつ交代でいってもらう他ない。いよいよ俺が休憩を取ることは諦める他なさそうだ。

「如月……緊急事態だ」

 ひとまず丁度いいところに水を注ぎに来た如月に報告。やっぱり顔をしかめられる。

「今度は何」

 その声は若干苛立ちすら含んでいた。

 もはや「この疫病神が」という副音声すら惜しむことなく聞こえてくるようだ。俺が悪いんじゃないのに……。

「相良が居なくなった……休憩中とか関係なく、いつ戻ってくるかは不明だ」

「はあ? どうして巴さんまで居なくなるのよ。あんな短慮軽率な人間がいれば店の評判が下がりかねないからいなくなるならそれでいいけど」

「全然よくねえよ、俺入れて四人になっちゃったんだぞ。もうお前とリリーさんに一緒に休憩に行ってもらうことすら出来ない状況になったってのに」

「別に一緒に行く必要もないでしょう。リリーさんに行ってもらえばいいわよ、代わりに湖白さんが弁当を売る、私は後で構わないわ」

「うむぅ……」

 まあそれしかねえよなぁ……本当は弁当係も入れ替わりで担当する予定だったんだけど音川やリリーさんがこの状態の店を一人で立ち回れるとも思えないし。って、じゃあ如月が休憩行ったらどうするんだ?

「もういいかしら? いつまでも面白味しかない顔を見ていてもモチベーションが下がるだけだし、心配しなくても店長か巴さんが帰ってからで構わないわよ、私の休憩は」

 そう言い残し、如月はホールに戻っていった。なんというか色々お見通しな奴だ。

 嫌味な奴に変わりはないが、今はその頭の良さもありがたい。そんなわけで俺は音川が帰るのを待って、リリーさんと入れ替わってもらうことにした。

 休憩時間が若干短くなった音川は文句を言っていたが、モエモエに貸し一つだとか言って受け入れてくれたところで代わりにリリーさんが休憩に入る。

 これで耶枝さんか相良のどちらかでも早めに帰って来てくれれば、せめて如月に飯を食う時間ぐらいは作ってやれるかもしれないと思っての処置だ。

 次から次へとハプニングが続いているが、なんとか回るギリギリの人数は居る以上泣き言なんて言ってられない。

 休憩も取れそうになければ日曜日ということもあって夕方に客が減る時間帯が無さそうなのが不安要素だが、閉店後に俺が死ぬだけで済むなら昨日とあんま変わらないし必要な犠牲だったと諦めよう。

 看板を掲げている以上客をもて成す義務は違わない。そこに副店長だとか叔母がどうだなんて事情など関係ない。

 それもまた、俺が料理以外に両親に教わってきたことの一つなのだ。

 俺に出来ることはキャベツを切り、カツを揚げ、その他諸々頑張ることだけ。

 もう何度目になろうかという無理矢理なポジティブ思考への切り替えだったが、どうにも長く続いてはくれないものらしく、それはリリーさんが休憩に行って二十分ほど経った頃だった。

 ブブブ、とポケットの携帯が振動した。

 耶枝さん以外では唯一持ち歩く事が許されている携帯が。

 受信なのか着信なのか、どちらにしても滅多に鳴ることがないこいつの連絡先を知っているのは両親プラス耶枝さん、りっちゃんのみ。

 だがタイミングを考えると今日力を借りた弁当屋が心配して掛けてきてくれた可能性もある。それかやっぱり母さんか。……………………………………頼む、そうであってくれ。

「ああ……なんと無情な」

 ディスプレイに表示されていたのは、残酷にも『耶枝さん』の文字だった。

 いや、まだ分からないじゃないか。

 もしかしたら今から帰るって報告かもしれないし、何も面倒事だと決まったわけじゃない。片道一時間だから時間的に到着した頃である可能性が激高だけど……。

「……もしもし」

『うえ~ん、優く~ん……どうしよ~』

「………………」

 聞こえてきた今日だけですでに三度目となるそんな泣き声に、俺はそっと電話を耳から離した。

さ、悪い夢を見ている場合じゃない、仕事の続きだ。

『ちょ、ちょっと待って!? 分かるよ!? 気持ちは分かるけどお願い切らないで~!』

 耳から離して尚スピーカーから漏れてくる大きな声に躊躇いつつも俺は再び携帯を耳に当てる。

「はぁ……今度はどうしたんですか」

『お、怒らない?』

「怒りませんから、用件を分かりやすく手短に説明してください」

『なんかちょっと怒ってるっぽいけど……あのね、慌てて出て行っちゃったから保険屋さんに渡さないといけない資料を忘れてきちゃって……』

「えぇぇぇ……」

『それでね、ちょっと届けて貰えないかな~なんて……てへっ』

 てへっ、じゃねぇぇぇぇぇえ! 

 許されるならいっそ叫んでしまいたい。いい加減怒ってもいいかな俺? そろそろ許されるかなこれ?

『ゆ、優君? 聞いてる?』

「コーホー」

『ど、どうして急に機械超人みたいな荒い息使いに!?』

「はっ!? すいません、我を失ってたみたいです。でもですね、届けてって言いますけど俺が届けるんですか?」

『ううん、さすがに優君が抜けちゃったら厨房が空になっちゃうから、メイドちゃん達の誰かにお願いしたいんだけど』

「そう言われましてもですね、こっちにもそんな余裕は……」

『わたしが帰るまででいいからお弁当担当を一人削ったらなんとか回ると思うんだけど、今は誰が外に居る?』

「今は音川が一人で」

『一人? リリーちゃんは?』

「休憩中です」

『じゃあリリーちゃんでいいから、悪いんだけど頼んで貰えないかな? タクシー使っていいからお願いっ。その資料が無いと契約が終わらないの~』

「でもそれじゃ店が二人しかいな……」

 待てよ? そうだ……耶枝さんは相良が居ないことを知らないんじゃないか。

 そりゃ四人居るなら一人ぐらい抜けても大丈夫だと思って当然だ。

 ここで拒否ったら怪しまれるうえに、そうなっては耶枝さんがいつまで経っても帰ってこない……ここまでか。

『優君?』

「分かりました……リリーさんに行ってもらいますんで行き先の住所をメールで送っておいてください。一人でタクシー乗せるの不安なんで俺が運転手に直接伝えますんで」

 届けるという目的を達成するだけなら音川の方が適任だろうが、店に二人残すなら少しでも融通が利きそうな方を残さないといよいよ終わる。リリーさんには申し訳ないが、ここは彼女に託す他あるまい。

『分かった送っとくね。資料は二階の金庫の中の封筒に入ってるやつだからお願い。極力急ぎの方向で、ほんとごめんね~』

「了解っす………………はぁ」

 電話を切って溜め息一つ。されど落胆している暇もなし。

 レジの横にある飲み客からのリクエスト用に控えてある電話番号のリストからタクシー会社の番号を調べ、すぐに電話し、そしてリリーさんを呼んで事情を話すと届け物を快諾してくれたので万が一辿り着かなかった時のために俺と耶枝さんの電話番号をリリーさんの携帯に登録してもらい、タクシーが到着次第向かってもらった。

 五人居たウェイトレスは残り僅か二人。休憩に入り二階に上がった者から消えていくという一昔前のB級ホラー映画みたいな状況だ。最後は俺一人になるんじゃないのこれ……。

「優く~ん、お弁当の追加はまだかい?」

 一人絶望していると、外に居た音川が厨房を覗いた。追加で作った弁当は脇に積んであるだけで届けるのを忘れちゃってたのか。

 しかし、音川はずっと外に居たわけだからリリーさんが抜けたのも知っているはずなのに随分と余裕なもんだな。よく考えればこいつ一人だけが休憩を取ったにも関わらずまだ生きている。これはもしかすると……。

「音川……お前が犯人か」

「どうしたのさ優君。急に人を犯人呼ばわりだなんて失礼じゃないか。ご令嬢のプリンはきっと本人が食べたのを忘れているだけだよ、僕じゃない」

「いや、プリンとかどうでもいいから。ていうか勝手に食べたんだったらそれはそれで怒られるからどうにかした方がいいぞ? りっちゃんは例え自分が食べたからという理由であっても欲しい時にプリンが無かったら基本的にキレるから」

「だから言ってるじゃないか、事実どうあれ最終的に犯人にならなければいい。あれでいて子供っぽいから適当に誰かのせいにしておけば僕が責められることもないさ」

 腹黒っ!

「それで? 食後に丁度良い誰かのプリンの件でなければなんの話なんだい?」

 首を傾げる音川は本当に分かっていなさそうだ。まあ犯人とか最初から居ないから当然といえば当然だけど。

「そりゃ僕も三人が死んじゃったのは残念だと思っているさ。だけど全てはオヤシロ様の意志に背いたからこその悲劇、僕にはどうしようもない」

 減り続ける人数についての憂いであることを説明すると、音川はいつにも増して芝居がかった口調でそんなことを言った。僕っ娘でその台詞ってリカちゃんかお前は。

「そういう話は後で一人でやってろ。とにかく、如月にも説明してどうにかしないと外も中も一人ずつじゃそろそろキツくなってきたって話をしたいわけだ」

「そりゃ分からないでもないけど、だったらどうするのさ。姫に相談したところで人数が増えるわけじゃないんだ、今やっていること以上の方法は出しようがないと思うけど?」

「かといってこのままってわかにもいかねえだろ」

「ま、君の立場からいえばそうかもね。ほら、丁度姫が戻ってくるよ」

 音川が指差す先には、無愛想な顔でトレイにグラスを乗せた如月が戻ってきた。マジ空気読めるわーこいつ。

「如月……緊急事態だ」

 俺と音川を見るなり「サボってんじゃねえよ穀潰し共が」とでも言いたげな顔を向けてきた如月に言うと、さぞ面倒臭そうに溜息を吐かれる。……何回言うんだよこの台詞も。

「はぁ、今度は誰が居なくなったの……といってもここに三人居る以上候補は一人しかいないでしょうけど」

「お察しの通り、今度はリリーさんが死んだ」

「……死んではいないでしょうに。それで、どういう理由で居なくなったの?」

「耶枝さんの忘れ物を届けさせられに行った……いつ戻ることやら」

「店長と同じか少し早いかというところでしょうね。巴さんはどうでもいいとしても、それまで残り二人と一匹ではギリギリもいいところだわ」

「……一匹って俺のことじゃねえだろうなおい」

 俺は犬か? 猿か? 違うな。こいつから見た俺なんてゴキブリかウジ虫だった。

「自覚があってなにより、ね」

「うるせえよ、今はいいんだよそういうのは。とにかく、これが以上減ったら確実にジエンドだ。お前等は何があっても死ぬなよ」

「こんなことになるなら真っ先に犠牲になっておけば気も楽だったなあ」

「おーとーかーわー」

「あはは、冗談だよ。それで我らが副店長様はどうなさるおつもりで?」

「とにかく、弁当係は廃止だ。ホールが如月一人じゃ俺の手が回らん」

「ちょっと、それは私が無能だとでも言いたいの? ふざけたことを言うなら砕くわよ」

「いちいち脅しがこえーよ、何を砕くんだよ。そうじゃなくて、お前が仕事も出来て頭も物覚えも良いのは分かってるけど、一人じゃどうしたってオーダーのタイミングが被ることもあるし、客の相手をしてる時に入店してくる客も居る。そうなったらどうしたって俺が対応しないといけないんだ。それに加えて調理や弁当の用意、レジまでやってたら客の待ち時間が増える原因になる。それはサービスとして最悪だ」

 言うと、二人は含むところ有りそうな様子で肩を竦める。察するに、理屈は分かるが現状を鑑みるに理想を追う手立てはない。かといって反論しようにも、特にプライドも自尊心も高い如月は出来ない、無理だとは言いたくないのだろう。

「だからといってお弁当を売るのを止めるのはまずいんじゃないの? 豚肉の廃棄は諦めて店に専念するというのかい? 数はあとどのぐらいあるかは僕には分からないけどさ」

 逆に、あんまプライドとか気にしなさそうな音川は余裕で核心を突いた。

「弁当を廃止するわけじゃない。レジの後ろにでも積んで、店内で売れば三人とも中に居られるだろ。外のテーブルはそのまま、ポップも残してお買い上げは店内でって書き足しておく。どうやっても売れる量は減るだろうけど全く売れないよりはマシだと思うしかねえよ。ちなみに残りは二百枚ぐらいだ、さっき朝から冷蔵庫に入れてた分と丸々入れ替えたからすぐに傷むことはないと思うけど、百そこらの廃棄は覚悟するっきゃねえ」

「ま、特に秀でた提案でもないけれど妥当なところね。レジ前にも広告を貼って持ち帰りを少しでも増やせればといったところかしら。あとはつまらないことに拘らずに値段を下げるのも手だけど?」

 如月は腕を組んだまま、見定めるような目を俺に向ける。

 確かに格好付けて諦観してる暇があったら出来ることをやれって話だな。まさかこいつに考えを正されようとは、皮肉も数打ちゃ正鵠を射るらしい。

「よし、弁当も店のセットメニューも値段は三百二十円にしよう。如月の言う通りレジにもポップを貼る。弁当の注文はレジ見ながら俺が受けるから、二人はホールの客を頼む」

 税込み三百二十円じゃもはや売れても利益は無いに等しい。こうなれば売れた分だけ売上は増えても利益は伸びない。とはいえ一日トータルで見れば店での売上だけで十分黒字になるだけの注文と客入りは見込めるのでここは欲張ってはいけない場面だろう。

「じゃ、僕達は優君にそれ以外の仕事をさせないようにすればいいんだね。まったく、熱血なんて僕のキャラじゃないんだけど、これも我らが副店長殿のため。一汗流してあげようじゃないか、また貸し一つだよ」

「あ、おい音川。どこ行くんだよ」

「お金は持ち歩いてもお弁当は置きっぱなしだからね。表で販売しない以上引き上げてくるよ、頑張るのはそれからってことで」

 後ろ手を振って、音川は店を出て行った。なにゆえ俺の借りになるのか分からない上にこの二日で三つ目ぐらいの借りなわけだが、この急場を凌ぐために頑張ってくれるというのなら今は敢えて言うまい。

「如月、お前もしばらく休憩取れなくなっちまうけど、飯だけでも食ってくるか?」

 人数が居る時はそれぞれに一時間に一度程度の小休止が与えられているが、このままでは耶枝さんが帰ってくるまでそれも難しい。一人……というか俺もだが、昼休憩も取れないまま動きっぱなしでは細身の女にゃ辛いものがあろう。

「結構よ。この程度で心配される程ヤワな生き方しちゃいないわ。店長不在の今功績を挙げれば私の株も上がるでしょうしね」

「いや、うん、お前の乗っ取り計画はさておきだな……」

「でもまあ、私が抜けたらお手上げというなら私も恩賞に預かることにしましょう。今から店長が戻るまでの間の時給二倍で手を打ってあげる」

「いや……それは俺に言われても俺の権限じゃないし」

「分かっているわよ、あなた如きにそんな権限があるはずがないことぐらい。だからあなたと取引をしようと言っているんじゃない」

 取引好きだなーこいつ……一個目の取引だって成立してるかどうかも怪しいってのに。

「ていうかそれ、俺に差額の時給出せって言ってんの? んな無茶苦茶な……」

「私は就業規則に則って小一時間ばかり休ませてもらってもよいのだけど?」

「お前なぁ……どこまで腹黒いんだよ」

 こんな時にまで自分だけ利を得ようとするとか極悪非道もいいところだ。ていうか、そもそもなんで全部俺個人のわがままに付き合わされてるせいみたいになってんだよ。

「さ、今日のお昼はとんかつ弁当だったわね。ほら、お客様が呼んでるわよ?」

「こら、行くな行くな! わかったよ、俺が個人的に払ってやるから!」

「契約は成立、破棄すれば容赦なく剥がすからそのつもりでいることね。毎度あり~」

 如月もまた、後ろ手を振ってオーダーを取りにホールに戻っていく。

 昨日のりっちゃんとその友達の飯代もしかり、この店で働いただけ金が無くなっていくシステムが確立されつつあるらしい……何度も言いたくはないが、俺は自分の時給も知らないというのに。


          ○

 

 やがて日が暮れた。

 未だ店内で働く従業員の数に変わりはなく、かといって客が入店を遠慮するわけでもなく、最大収容人数こそ五、六十人とはいえ空席も数えるほどという賑わいを見せていた。

 声を掛けにくいと思われないために極力慌ただしい様を客には見せないようにと言い付けてはいるが、やはり昨日から働き始めた二人には手に余る仕事量だ。

 如月の手際の良さでなんとか持っているが、時間が経てば疲弊疲労も溜まるだろう。

 この状態もいつまで維持出来るやら分からない。現に俺の腕は昨日より数時間早く筋肉痛を再発しつつあるぐらいだ。

 すでに時計は午後六時を回っている。つまりはメニューも切り替わり、酒や肴、夕食メインになっているというわけだ。

 特に飲み客は注文も細かいので俺の孤軍奮闘っぷりは留まることを知らない状態をキープし続けている。

 目の前の液晶モニターには未消化のオーダーがズラリと並び、流し台は洗い物で溢れ、もはや豚肉の件とか関係無く修羅場と化した店内を俺は厨房とレジを、如月と音川はホールと厨房を絶えず行き来していた。

 今にして思えばこのカウンター席というのが厄介なもので、厨房を挟んですぐ目の前に居る客は回らない寿司屋や個人経営のラーメン屋よろしく俺に直接声を掛けて注文してくる人が多く、そうなるとウェイトレスの持つオーダー端末を通していない以上俺が液晶を操作して伝票データに入力しなければならない。

 それがタイムロスを生んでいるせいで余計に忙しくなる。かといってウェイトレスに言ってくれ、だなんて言えるわけもなくどうにも難儀な問題となっているのだ。

 さらに言えば豚肉の入った段ボールのせいで厨房は狭くなっているわ、鮮魚を扱うせいでまな板や包丁を取り替えないといけないわ、生ゴミが詰まったゴミ袋を店の裏に運ばないといけないわでストレスがハンパない。

「ちょっと、何を情けない顔してるのよ。腐りきっても男なんだからしっかりしなさい」

 流れ出る汗をタオルで拭きつつ、客に見られないように背を向けてそのストレスと疲労に顔を歪めていると、なぜか如月が厨房に入ってきていた。

「お前なんでこっちに……」

「席も埋まっているし、しばらくはドリンク以外でオーダーが重なることもなさそうだから少しの間あっちは湖白さんに任せて来てあげたのよ。客に出す料理は出来なくても洗い物ぐらい出来る。分かったらあなたも気合いでどうにかしなさい」

 鋭い眼光で言うと、如月は隣の流し台で洗い物を始めた。

 ホールの状況判断といい効率的に動こうとする姿勢といい、こいつの能力は二日目のバイトとは思えないな……。

「空気が読めるんだか読めないんだか分からん奴だなお前は」

「学校では空気なんだか空気にも劣るんだかの存在感しかない奴に言われたくはないわね。それでもこのお店じゃ代わりが居ないんだから死に物狂いで働きなさい。私の物になる前に潰したりしたら剥いでやるわ」

「誰が空気以下だ。こっちは剥がれる前にハゲそうだっつーのに」

 一度睨み返して、俺も調理を再開する。

 確かに学校じゃ空気並であることは否定出来ないが、この二日に限っては空気どころか疾風の如く動いてるってのに。

「それで? 豚肉の方はどんな塩梅なの?」

 負けてたまるかと高速でシーザーサラダの盛りつけをしていると、如月は洗い物をする手を止めず、視線もそっちに向いたまま言った。

「弁当はほとんど減ってねえ。代わりにセットメニューはそれなりに出てるからペース的には昼と同じぐらいだと思う」

 純粋に晩ご飯を食いに来た人にはそれなりに指名してもらえている。値段を下げたことも大きな要因なのだろう。

「残りは?」

「すでに弁当にしちまった分を引けば……大体百五、六十ってとこか」

「この時間で目標の半分じゃ、厳しいわね」

 基本的に口調も声のトーンも表情も一定の温度を維持しながら話すせいで如月の感情は読みにくい。だけど新装開店のたかだか二日目のバイトの身ながらもこの急場をどうにかしようと考えてくれていることだけは愚鈍な俺でも理解出来る。

 それが忠義や善意からなのか耶枝さんに取り入る計画及び俺失脚作戦によるものなのかは定かではないが……どちらにしても、

「やっぱ、お前の方が俺よりよっぽど副店長の器だよ。頭も回るし物覚えも良いし融通も利くし……」

「その上顔も良いし、スタイルも良いし、性格も良いし、人望も社交性もあるし、あなたと同じ生物だとは到底思えないわね」

「いやいやいや……それを自分で言うあたり性格は絶対良くないから。あとスタイルがいくら良いのかは知らんけど少なくとも社交性とおっぱいは無……いだっ!」

 スネを蹴られた。

「ぶっ殺すわよセクハラ害虫が」

 そしていつもと違いストレートに中傷恫喝を食らった。

 なにこいつ、おっぱい小さいこと気にしてんの? まあ見たところCカップぐらいであの小柄な音川と同じぐらいだしな。

「ま、まあそれはさておき……俺は自分のことで精一杯ってことだ」

「自分のことで精一杯、ね。気持ちの悪いご高説をどうも。あなたに言われずとも自分の有能さもあなたの不相応な地位も理解してるわ。心配しなくても時が経てば立場は逆転させてやるわよ、わざわざ譲ってもらわなくてもね。分かったら手を動かしなさい自称無能な副店長さん」

 そう言って、如月は不敵に笑った。

 それは短い付き合いで見た初めての笑顔で、鳥肌が立つほどに綺麗な笑顔だった。




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