203号室 林邦明
「……ん?」
上京して一週間ほどが経った頃だった。夜、バイトから帰ると、アパートの自分の部屋の前の床が濡れていた。
今日は一日中、暑苦しいぐらい晴れていたし、こんな時間に掃除でもないだろう。それに、掃除したにしては、濡れているのはほとんどここだけで、細かなゴミが暗がりの中にあっても薄っすらと見える。
「んだよ。イタズラか」
鍵を取り出しながら、玄関ドアの前に立つと、水槽とか川とか、そういう類の臭いがする。やはりイタズラか。
こういう場合は無視するに限る。さっさと部屋の中に入ろうと、鍵を開けようとする。が、そこにも違和感を覚えた。鍵穴のまわりには無数の傷があった。金属を――例えば合わない鍵を無理矢理に入れようとしたり、擦りつけたりした跡のような――。
(無視だ! 無視無視!)
鍵を開けて中に入る。真っ暗な部屋の中、後ろ手に玄関の鍵を閉めた。
「――なんなんだよ、ったく」
僅かにこみ上げていた怒りなど一瞬で忘れていた。薄気味の悪さに、真夏だというのに寒気を覚える。
とにかく部屋の中にいれば、今夜のところは安心だろう。明日にでも大家に相談したほうがいいだろうか。それとも警察か。悩みながら明かりを点ける。
――目の前に、男の顔があった。
薄ぼんやりとした赤い顔の向こうには、奥の壁や洋室のドアが透けて見える。男の巨大な顔は恐ろしい形相を浮かべて、俺を睨みつけていた。
俺はあまりのことに腰が抜けて、べたりとその場に尻餅をつくと、男の顔を呆然と見上げていた。
(は? え、なにこれ)
頭は完全にパニックを起こしていたが、あまりの恐ろしさに目を背けることもできない。赤い男の口がゆっくりと開く。
「僕の部屋だ」
地の底から響くような声が部屋全体を揺らした。
「ここはぁぁぁ、僕の部屋だぁぁぁぁ。出ていけぇぇぇぇぇ」
ふっ、と意識が途絶えて――気がつくと朝だった。
ほんの一瞬、夢かとも思ったが、見れば目の前の床に水溜りが出来ている。例の水槽か川のような臭いがした。
俺は雑巾で水溜りだけは拭き取ると、取る物も取り敢えず友人の家に転がり込んだ。その日のうちに、アパートを引き払うことを決めると、退去するまでの二ヶ月間は極力部屋に戻らないようにした。