102号室 尾木真一
「たまには、お盆にも帰ってこられへんの? お墓参り、もう何年も行ってへんやろ」
実家の母がそう言ったのは、去年の大晦日――いや、今年の元旦だったか。
「仕事、忙しいねん」
嘘ではない――嘘ではなかったのだ、三年前までは。
朝。
憂鬱な気分で目が覚める。スマホの画面を見ると、十時半を少し過ぎていた。前言撤回。ほとんど昼だ。
気怠さの残る身体を無理矢理に起こして台所へ行くと、コップ一杯の水道水を飲んで奥の部屋に戻る。パソコンを起動させてから、冷房をかけようかどうか迷って、一先ずなしでいくことにした。暑くて我慢できないくらいになってからでいい。電気代の無駄だ。
日中は専ら、オカルト系のサイトを回ったり、ホラー系のネット小説を探して読んだり、その繰り返し。
――よくもまあ、こんな子供騙しを考えるもんだ。
鼻で笑って優越感に浸り、また次の標的を探す。誹謗中傷を書き込んだりはしない。ネット上でさえ、誰かと言葉を交わすなんて考えられない。そんな面倒なことは御免だ。
気がつけば、閉め切ったカーテン越しにも外が暗くなってきたのがわかった。
インスタント食品で簡単に食事を済ませると、その後もしばらくパソコンに向かい、適当に眠くなってきたらベッドに入る――こんな毎日を、もうどれくらい過ごしているだろう。
三年前、それまで勤めていた会社をクビになった。所謂リストラだった。自分が候補に挙がることは頭では理解できた。お世辞にも成績優秀とはいえなかった。それでも、納得はできなかった。俺は頑張っていた。精一杯頑張っていたのだ。同じ部署の誰よりも頑張っていたつもりだ。
リストラされてからというもの、何もかもが上手くいかなくなった。
一向に再就職はできず、とにかく働かなければ、とアルバイトもいくつかしてみたが、どれも長くは続かなかった。バイト仲間はほとんどが十代、二十代で、彼らの目を見ていると、俺を嘲り笑う声が聞こえてくるようだった。
会社をクビになってから、大体一年と少し経った頃から、だんだん外に出るのが億劫になってきた。次第に、バイトを探すことをやめ、ハローワークにも行かなくなった。幸い、貯金はそこそこあったから、浪費さえしなければしばらくは食べていけそうだった。
なにか鈍い音がして、目が覚めた。
部屋の中は暗い。スマホの画面を見ると、二時を少し回ったところだった。眠りに就いてから、まだ一時間程しか経っていない。小さく舌打ちすると、再び目を閉じた。
再び、異音が響いた。夢でもなければ、気のせいでもない。それほど大きな音ではなかったが、はっきりと聴こえた。壁にある程度重みのあるものがぶつけられたような、そんな音だ。どうやら壁の向こうから聞こえているようだった。
隣に住んでいるのは、自分より少し年若い夫婦だったはず。夫婦喧嘩だろうか。
――こんな時間に?
音は不規則に、断続的に鳴り続けている。微かな音だが、夜中の静まりかえった部屋の中では、やたらと存在感を放っている。
どうやら、壁を叩いているらしい。
音は小さく、力強さはまるで感じない。成人男性のものではなく、どちらかというと女性の手によるもののように思われた。
(――うるっさいなぁ)
苦情を言いに行こうにも、こんな時間だ。そのことで逆上されたらそっちのほうが面倒臭い。
寝返りを打って、壁に背を向ける。
隣の夫婦――以前、見かけたときは穏やかそうに見えたが――は、こんな非常識な時間に非常識な音を立てるようなやつらだったらしい。なら、逆切れは有り得ないことではないように思う。人は見かけによらない。
尚も、音は鳴り止まない。
さっさと寝てしまおう。明日になったら、いくらでも文句をつけられる。いや、直接話すのは面倒だから、大家に苦情の電話を入れよう。
そんなことを考えながら、ひたすら目を閉じて横になるも、まったく眠れそうな気がしなかった。
幼い頃、夜中に目が覚めたとき、時計の秒針の音がやけに耳について眠れない、ということがあったが、ちょうどそれに似ている。気になって眠れやしない。
音は一向に止まない。
半ば無意識に舌打ちした。なんなんだ。どういうつもりだ。被っていたタオルケットを適当に放り投げ、立ち上がる。握り拳を作ると、壁に力任せに叩きつけた。
想像よりも大きな音が響き、右手にも想像以上の痛みが走った。
部屋の中に静寂が下りたのも束の間、壁が再び音を発した。さっきまでに比べて、心なしか強く打ちつけているように聞こえる。また、音と音の間隔も小さくなっているようだった。
燃え立つようだった頭の芯が急速に冷えていくように感じた。頭の中が真っ白になる。
「うるさいっ。何時やと思てんねん!」
大声を出したのは久しぶりだった。耳がわんわんと妙な音を発する。
壁の音はぴたり、と止まった。しばらく耳を澄ませてみるが、自分の荒い鼻息しか聴こえない。一つ深呼吸してベッドに戻ろうとすると、微かな、本当に微かな声が耳に届いた。高く、か細い声は、小さな子供を思わせた。
(子供? 子供がおったんか)
隣の夫婦に子供がいたとは知らなかった。もともと近所付き合いなんてないも同然で、この三年間、特に一年半の間は、ほとんど外にも出ていない。隣の夫婦に会うどころか、姿も見ていなかった。
(しまった。子供のイタズラやったか)
大人げなく怒鳴ってしまった。なんとなく気恥ずかしく、居たたまれない気持ちにもなった。
「ご……ごめんな」
聞こえるわけないか。そう思いながらもとりあえず謝る。が、思っていた以上にアパートの壁は薄かったのか、「ううん、いいよ」と言った小さな声は、意外なほどはっきりと聴こえた。
(あれ。そういえば――)
ふと、違和感を感じて、それを確かめるために振り返る。
反対側の壁はクローゼットが占めている。このアパートは全室ほぼ同じ間取りになっていて、違いといったら、窓の数ぐらいだ。ということは、つまり……。
隣の子供は今、クローゼットの中にいる?
「お前、なんでそんなところにいるんだ」
しん、と静まり返っている。
「自分で入ったのか。それとも……」
返事はない。
こういう話を以前聞いたような気がするな、と思った。そう。たしか、親が躾という名目で押入れ――しかも鍵付きの――に、子供を監禁・虐待していた、というのを随分前にニュースで見た気がする。まさか。
「なあ。大丈夫か。出れるんだよな。閉じ込められてるわけじゃないよな」
自分で言いながら、何を言っているのだろう、と思った。現実に、自分のまわりでそんな異常なことが起こっているわけがない。
しかし、どれだけ待っても子供の声は聴こえなかった。
(――まずい、よな)
スマホで時間を確認すると、午前二時半を少し過ぎていた。こんな時間だし、隣の子供もただ眠ってしまっただけかもしれない。けれど、もしそうじゃなかったら――。
いつからクローゼットにいるのかを聞いておけばよかった。もし、監禁されていて、しかも、何日も経っていたら――。
なんだかじっとしていられなくなっていた。部屋の中をうろうろと歩き回っている自分に気づく。
(いや、正直、赤の他人やし、関わりたないし、子供がどうなろうと知ったこっちゃないんやけど――)
両手で、ぼさぼさに伸びた髪をくしゃくしゃと掻き回す。
心の声に反して、足は玄関へと向いていた。
(少しとはいえ、会話して、それが俺にとっては久しぶりの他人との会話で、しかも相手は子供で、そいつが、話した直後とか数日以内に死ぬなんて、そんな後味の悪いこと――御免や)
真夜中のことだったが、そんなことも言っていられない。着の身着のままで隣室の扉の前まで行くと、玄関チャイムを何度も鳴らす。
(くそっ、出てこぉへん)
玄関ドアを何度も何度も叩いた。
しばらくして、そっと扉が開かれた。顔を出したのは父親のほうだった。警戒するような、迷惑そうな顔でこちらを見返す。
「……い、一体何時だと思っているんですか。けいさ――」
何か言いかけた父親を押しのけて、部屋の中へ。奥の部屋を目指して、ずかずかと入っていく。完全に頭に血が上っていた。
背後では父親が何事か喚き、未だベッドに半ば横になったままの母親が悲鳴を上げた。
――虐待親が何を言おうと知ったことか。
見たところ鍵もなにも付いていないことに、ほんの少し違和感を感じたが、躊躇わずクローゼットを開く。
衣類ばかりが目に付いた。
ならこっちか、と二つあるクローゼットのもう一方を開く。
――いない。
雑多なものが無造作に詰め込まれているだけだった。
「なんなんですか、警察呼びますよ」
母親のほうが物凄い剣幕で怒鳴り散らした。
どうなっているのか、わけがわからなかった。あの子供の声は?
「ち、違うんです。俺――いや、私、隣に住んでいる尾木って言いますけど、こちらから壁越しに、その、物音とか、子供の声とかが聴こえてきて。私の部屋で壁ということは、こちらだとクローゼットじゃないですか。もし、その、クローゼットにお子さんを閉じ込めてたりしたら、と――」
「そんなわけないじゃないですか!」
母親は怒りも頂点に達したのか、金切り声で叫んでいる。ところが、父親のほうは、さっきまであれほど怒りを露わにしていたのに、一転して、難しい顔をしてこちらを見ていた。
「とにかく警察に行きましょう」
そう言って、父親のほうが俺の腕を引っ張る。俺はどう弁明すればいいかわからず、まるで九官鳥か何かのように「違うんです。違うんです」と同じ言葉を繰り返す。
「……警察へは行きません。とにかく外で話しましょう」
父親が囁いた言葉に、俺は抵抗を止めた。
「子供の声を聴いたというのは、本当ですか」
小山と名乗った父親に、俺は黙って頷いた。
「まず、私たち夫婦に子供はいません」
しばらく考え込んだ後、小山はそう口にした。
「でも――」
確かに聞いたのだ、そう言おうとしたが、小山はそれを制した。
「尾木さんが嘘を言っているとは思っていません。実は、子供については心当たりがあるんです」
真夜中の公園には、雨が近いのか、じっとりと重い空気が立ち込めていた。
「三年前、妻のお腹の中には赤ちゃんがいました。僕らは初めて子供を授かったことをとても喜んでいたんです。まあ、詳しい説明は省きますが、その子は……死産しました。僕も妻も随分気落ちして、特に妻は――。しばらくは……無気力、というのでしょうか。何も手につかないというか、常にぼーっとして、まるで、抜け殻のようでした。ところが――」
言葉が出なかった。小山の語り口は静かなものだったが、相手に話を聞かせる凄みのようなものがあった。
「半年ほど経った頃でしょうか。仕事から帰ると、妻が台所に立っていました。退院後一度も料理なんてしていなかったのに、です。はじめは、妻も漸く立ち直ろうとしているのだ、と思いました。あの子を亡くしたのは辛いけれど、いつまでも後ろばかり見ているわけにはいきませんから。――でも、そうじゃなかったんです。
食卓には、料理が三人分出てきました。ただし、うち一人分は水気の多そうなおかゆや、野菜や魚をすりつぶしたものでした。それを、何もない空間に向けて、まるで赤ちゃんに食べさせるように――。血の気が引きました。僕は、妻がおかしくなってしまったのだと思ったんです。心療内科にも通わせました」
地面を見つめたまま話す小山の表情はよく見えなかった。抑揚のあまりない声がぽつりぽつりと話し続ける。
「けれど、そのうち、もっとおかしなことに気がつきました。妻以外の人まで子供のことを話すんです。最初は、気を使って妻の話に合わせてくれているのだと思いました。でも、どうやら違うみたいで。つい先日、初対面の人が、妻が何も言わないうちから子供のことを話されて、そのうえ、屈んで子供に話しかけたんです」
ようやくこちらを向いた小山の顔は、月明かりのせいか、青白く見えたが、とても穏やかなものだった。
「いま尾木さんのお話を聞いて、確信に変わりました。あの子は死んでしまいましたけれど、でも、僕らと一緒に生きてくれていたんですね。あの子の姿が僕には見えないのが、残念ですが」
実はその件があってからは流石に気味が悪くなってて、さっきまでは離婚も考えていたんです。小山が小さく呟いたのはそのすぐ後だった。
「今は妻もパートに出ていて――。急には無理だと思うんです。彼女はとても傷ついたのですから。けれど、少しずつ少しずつでいいから、あの子の死を受け入れていってくれれば――。僕がそれを支えていけばいいんですよね」
もしかしたら、その子は両親の離婚を止めてほしかったのだろうか、なんて、ぼんやり考えながら夜空を見上げた。なぜだか母の顔を思い出していた。
◆◆◆
「どうしたん。珍しいやんか、あんたがこんな時期に帰ってくんの」
母は驚いたようだったが、どことなく嬉しそうな声だった。
「別に。どうせ暇やし、たまには墓参りでもしよう、思って」
そう言って、ボストンバッグを畳に置く。何日か泊まるつもりで、適当に服を詰めてきた。
「あ。あと俺、会社クビになったから。リストラ」
「ふーん」
「ふーん、て」
知らず、笑みがこぼれる。
「ええやん。これから、頑張れば。あんた、まだ四十やろ」
「もう四十だよ」