101号室 山上敦夫
「――なんで」
女は譫言のように呟いた。
長い黒髪が俯いた顔を隠している。私には、目の前にいるのが妻なのか娘なのか、判然としない。
「なんで、わかってくれないの」
女の声は消え入りそうなほど小さなものだったが、耳元で叫ばれたようにも思われた。
「なんで!」
そう言った女の手が、私の喉元に触れた。反射的にその手を掴む。手の平が汗ばんでいるのは夏の暑さのせいばかりではない。
「やめてくれ。たのむ。殺さないでくれ」
◆◆◆
自分の叫び声で目が覚めた。と同時にリビングに置かれたソファーから転げ落ちる。肩から肘にかけてをしたたか打ちつけた。
肩の辺りをさすりながら、まだぼんやりとした頭を持ち上げる。
窓から見える空は、まだ薄暗い。
夢を見ていたような気がする。内容は思い出せないが、いい夢ではないだろう。なにせ叫び声を上げて目覚めるような夢だ。
起き出すにはまだ早すぎる時間だったが、出社準備をしてしまおうと思った。とにかく身体を動かして、いやな気分を払拭しようという気持ちが強かった。
――いつの間にか朝食を二人分作っていた。
なぜだろう、と首を傾げていると、そういえば今朝、自分はソファーから落ちて目を覚ましたのだということを思い出す。
視線が、自然と奥の洋室へと向いた。
洋室への扉はきっちりと閉まっている。窓から遠いせいか、そこだけがやや暗く翳って見える。
そうだ。娘が帰ってきているのだった。
コンコン。
木製のドアを軽くノックする。返事がない。もう一度、先刻より少し強めに叩こうとした手が、娘の少しくぐもった声とも吐息ともつかないものを聞いて、止まった。
「……なにぃ」
「すまん。まだ少し早いんだが、朝食をお前の分も作ってしまったんだ。食べないか」
少し間が空いた。寝てしまったか、と扉から離れようとすると、「後で食べるぅ」と、気怠いような甘ったるいような声が扉越しに聞こえた。
ドアポストから新聞を取り、読みながら朝食をとる。病気だろうが、寝覚めが悪かろうが、寝起きの行動は変えないようにしている。もう三十年以上も続けている日課だ。調子が悪いからといって怠けてしまえば、余計に調子を崩すような気がしていた。
社会面を見ると、息子が年老いた母を殺した事件の記事が目に入った。気のせいか、ここ数年は特に凄惨な事件ばかりが目につく。子が親を殺したり、親が子を殺したり。
「いやな時代になったもんだ」
思わず、言葉が口をついた。十年近く一人で暮らしているせいか、いつの間にか独り言が癖になっていた。やめようやめようとはしているが、油断すると、独りでに口が動いている。
そろそろ家を出ようか、という時間になっても、娘は部屋から出てこなかった。
「麗奈。大丈夫なのか、こんな時間まで寝ていて。仕事は。間に合うのか」
カリカリカリカリ。
小さく、妙な音が聞えた気がした。少し間をおいて、返事が聞こえる。
「……うぅ、ん。この前話したじゃない。仕事は、やめたの」
「なに?」
「……だからぁ。仕事はやめてきたの」
寝耳に水だった。娘は話したというが、まったく記憶にない。仕事をやめた?
「やめたって……。それで、どうするんだ、これから。再就職は。何かアテでもあるのか」
しばらく待ったが、返事はない。ドアを開けようとするが、手を伸ばしかけて――なぜか躊躇した。腕時計の文字盤が目に入る。
いかん。遅刻してしまう。
「とにかく、父さんもう出ないといけないから、帰ってから話そう」
麗奈のことだ。ちゃんとなにか考えてはいるだろう。
「あら、山上さん」
玄関にカギをかけて、数歩歩いたところで頭上から声が降ってきた。
「おはようございます」
201号室の柴田さんだ。いつも七十代とは思えない張りのある声で、はきはきと話される。私は焦っているのを隠すため、笑顔を作りながら振り返る。
「おはようございます、柴田さん。早いですね、お散歩ですか」
柴田さんはアパートの二階からこちらを見下ろしている。ここからだと、逆光になって顔がよく見えない。
「いいええ、いつもこの時間には起きてますよ。年取ると、勝手に目が覚めちゃってね。今朝はほら、可燃ごみが9時までだから。忘れないうちに出しとこうと思って」
「ああ、今日水曜日でしたね」
言われてはじめて、わざわざ前日にまとめておいたのにもかかわらず、部屋の中に置き忘れていることに気がついた。
「すっかり忘れていました。ちょっと取ってきますんで、これで――」
「そうしてくださいな」
お互い年は取りたくないわねえ、と去り際の柴田さんの言葉が妙に耳に残った。七十過ぎのお年寄りに仲間扱いされるとは、と思わないでもないが、自分の年齢を顧みるとあと数年もすれば六十歳。
まあ、もう若くはないか。
言われてみれば、最近物忘れがひどい。今朝もそうだ。娘が仕事を辞めたなんてこと、一度聞けば忘れるはずがないと思うが。
――年のせい、か。
考え事をしながら、ゴミを敷地内のゴミ捨て場に捨てていると、後ろを誰かが通ったことに少し遅れて気がついた。
「あっ、おはようございます」
てっきり住人の誰かだと思い、笑顔で振り返ると、目の前にいるのは見覚えのない若い男性だった。
「おはようございます」
清潔感のある青年だった。爽やかな笑顔で挨拶を返してくる。
「ええと、初めまして……ですよね」
「ええ。はじめまして。今度、二階に越してきました、雨宮です」
「はあ。引っ越してきた?」
たしかに、二階の端の部屋はもう長い間、空室のままだった。しかし、つい最近誰かが越してきたという話は聞いていない。本当なら、柴田さんあたりから聞かされていそうなものだが。
「ああ、荷運びもまだなんですよ。以前ここを通ったときに一目惚れしてしまって。とにかく早くここで暮らしてみたくて、必要最低限のものだけ持って、先に来てしまいました」
そう言ってスーツケースを持ち上げて見せた。
「は、はあ……そうですか」
裏野ハイツは駅にも近いし、周囲にコンビニや郵便局などもあり、都内にしては家賃も安い。条件で気に入ったというのは何度か聞いたが……。築30年のボロアパートの外観を気に入って、そこに住もうなんて若者がいるとは。
「だいぶ、変わってるなぁ」
大きなスーツケースを持って二階への階段を上っていく後ろ姿を、呆気にとられて眺めていると、つい思ったことが口からこぼれた。
その日は、ほとんど仕事にならなかった。娘が仕事を辞めた、たったそれだけのことが、私の胸に暗い影を落としていた。
瑠依――麗奈の母親もしっかりした女性だったが、麗奈を産んですぐに亡くなり、私の手には麗奈だけが、まるで彼女の形見のように残された。麗奈は見た目も中身も彼女の方に似たのだろう。父一人子一人の家庭だったが、なんとか問題なくやってこられたのは、麗奈が、私には勿体ないくらいよくできた娘だったからだと今でも思う。
そんな娘が、考えなしに仕事を辞めて、実家に帰ってくるとは思えない。思えないが、しかし……。やはり心配してしまうのが、親というものだ。
「おつかれ。何か問題があれば、すぐに連絡してくれ」
そう言って、今日も定時で退社した。子供のことで仕事を疎かにするなど、社会人失格だな、と自嘲もしたが、帰らずにはいられなかった。
麗奈が家を出たのは、都内の私立大に入学した頃だったか。それ以来、年に数回は会うものの、家に帰ってきたことは一度もなかった。その娘が今、家で寝起きしている。そのことに違和感を感じていた。
大学は家からだと、近くはなかったが、通えないほど遠くでもなかった。だからというわけでもないが、大学に通いやすいからというのは口実で、娘はこの家から――私から――距離を取ろうとしているように感じられた。昔から少し干渉し過ぎるきらいがあった、それは自覚している。年頃の娘としては、それが少々煩わしかったのだろう。
それについては、当然といえば当然のことだと思い、別段何も言わなかった。そんな娘が、十年近くも経って、突然帰ってきたのだ。何もないはずがない。
夕方といっていい時間帯だったが、辺りはまだまだ明るかった。それでも刻一刻と、家々や電柱が地面に落とす影が色濃くなっていくように感じられた。
「山上さん……」
アパートの敷地内に入るか入らないかというところで、声を掛けられた。人がいるとは想像もしていなかったために、飛び上がる程驚いた。
「突然すみません。先日も、大変お怒りだったので、こちらへお邪魔するのも躊躇われたのですが、その……あれから麗奈と連絡がつかなくって――」
「ちょっと、ちょっと待ってください」
青年は驚いたような顔で固まった。顔色が悪く、どこか悲壮感が漂った顔をしている。その顔を見ていると、意味もなく嫌悪感が湧いてきた。
「先程からおっしゃっている意味がよくわからないのですが、先日とは、いったい何のことですか。それに、麗奈とは――随分親しいようですが……」
「え、あの、僕……あれ? つい先日こちらに麗奈――麗奈さんと一緒に伺いました佐藤ですが、覚えておられませんか」
「佐藤……さん?」
必死に記憶を探るが、まったく思い当たらない。それに、目の前の男のおどおどした態度を見ていると、だんだんと苛立ちを覚える。頭髪の薄くなった頭を、無意識にがりがりと掻いている自分に気がついた。
「佐藤――佐藤柊二です」
やはりその名前に覚えはない。目の前の男は嘘を言っているようには見えない、まさか、また例の物忘れ、か。
――と、その時、佐藤と名乗る男が続けて発した言葉が、私の思考を遮った。
「麗奈さんとは結婚の約束をしています」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
佐藤が心配そうな顔をして、俯いた私の顔を覗き込んでくる。
「あ、あの……大丈夫ですか。お父さ――」
「黙れ!」
佐藤が驚いたように身を引く。
佐藤。
佐藤だ。
思い出した。
あの日――麗奈が帰ってきた日、隣にこの男を連れていた。つい三日前のことだ。
事前に電話で何か話があると言っていた。なるほど、こういうことか、と苦々しく思ったのを覚えている。
家に上げてしばらくすると、この人と結婚しようと思っている、などと麗奈が言い、佐藤も、娘さんをください、と頭を下げた。
気に食わなかった。なにがとはっきりとは言えないが、とにかく気に食わなかった。見た目や態度、言葉遣いなど、些細なことまであげつらって攻めた。麗奈は機嫌を損ねたようだったが、何か言いたげな麗奈を制して佐藤は謝り続けた。が、それすらも私には気に食わなかった。
「帰れ! 二度と来るな!」
気づけば、あの日とまったく同じ科白を、佐藤の青白い顔に向けて叩きつけていた。
◆◆◆
玄関ドアを怒りに任せて閉めると、思いの外大きな音が轟いた。施錠してから部屋の中に向き直ると、日が暮れ始めていることもあるが、電灯が灯っておらず、部屋は薄暗かった。麗奈は……まさか、もう寝てしまったのか。まだ7時も回っていないが……。
明かりを点けると、朝食が一人分テーブルの上に、朝出かけたときとまったく同じ状態で置かれている。
――食べなかったのか。
ふと、奥の洋室への扉に目を遣ると、薄っすらと開いている。カーテンを閉めたままなのか、隙間から見える部屋の中はこちらに比べて随分と暗い。その隙間の下の方に娘の顔があった。胸の辺りまで伸びた黒髪は、半ば洋室の暗闇に溶けて見える。
麗奈は青白い顔をしてこちらを見上げた。
娘は学生時代は運動部で、動きやすいようにと、長くても肩にかかる程度までしか髪を伸ばさなかった。それが、二年程前に会ったときには、最近伸ばし始めたのだと笑って話すようになっていた。瑠依も出会ったときからずっとロングヘアで、それがよく似合っていた。年齢が近くなってきたせいか、髪を伸ばしたせいか、麗奈の姿はまるで瑠依が帰ってきたのではないかと錯覚するほど、よく似ていた。
「朝食、食べなかったのか」
カチカチになった食パンを捨てながら、尋ねる。なんだか、ずっと具合が悪くて、と麗奈は答えた。
「――なにか、怒鳴っていたみたいだけど、何かあったの?」
どうやら聞こえていたらしい。近しい人間から何度か、自分で思っているより声が大きい、と言われたことがある。ましてや、このアパートの壁はそう厚くはない。
「……いや、なに、なんでもないんだ。ちょっと――そう、若いやつを注意していただけだよ」
あの男が訪ねてきたことを、娘には絶対に教えたくはなかった。
「そう。……お父さんももう若くないんだから、無理はしないでよ」
麗奈の声はどこかふわふわとして、気怠げに響いた。こんな声で話す娘だったろうか。具合が悪いと言っていたから、そのせいかもしれない。
カリカリカリカリ。
「なあ、仕事をやめてきたと言っていたが、それは……やっぱり結婚するつもりだから、なのか。その――あの男と」
言いながら、妙な感覚を覚えていた。今、考えて言葉を紡ぎ出している、というより、何か用意されたものを――以前やったことをなぞっているような、そんな感覚。
「あの男って、柊二さんのこと?」
クチクチクチクチ。
「あ、ああ、そんな名前だったな」
「そうよ。――ああ、そういうこと」
何か得心したように、小さく頷く。
「大丈夫。彼、趣味らしい趣味もないし、普段あんまりお金使わないから。私もそれなりに節約してきたし」
「違う。そういうことを言ってるんじゃない」
大声になっているのが、自分でもわかった。だが、何に苛立っているのか、自分でもよくわからなかった。ただ――
クチャクチャクチャクチャ。
ただ、以前にも、こんなやり取りをしたような気が。
――なんで! なんで、わかってくれないの!――
そうだ。あの時はもっと、麗奈も感情的で、私はそれ以上に――。
ガリガリガリガリ。
また、無意識に頭を掻きむしっていた。頭頂部がじわりと冷たくなり、爪の間に赤黒いものがこびりついた。
「なんでだ。なんであんな――。私は、あんな男にやる為に、お前を育てたんじゃない」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。私はただ、あんな男で大丈夫なのか、と。もっと、お前に相応しい男がいるのではないか、と。そう思っているだけなんだ。そうさ。私はお前の父親だ。いつまでも自分の傍に置こうとか、縛りつけるようなことをする気はさらさらない。勿論だとも。いくら似ているからといって、麗奈は娘だ。瑠依じゃない。麗奈の中に、瑠依の面影を見たとしても、見たとしても――瑠依? いや、麗奈?
カリカリカリカリ。
お前はどっちだ。
頭の中が――目の前が真っ白になった。
――なぜだ。なぜお前は私から離れていく。
気がつくと、目の前に立っている女の首を絞めていた。首は私の手の中でぐにゃぐにゃに歪んでいるというのに、女は平然とその場に立って、こちらを睨みつけている。乱れた前髪が、青白い顔を半ば以上覆い隠している。もはや、私には彼女が妻なのか娘なのか、判然としない。
――どうして。どうして、麗奈を殺したの――
女はそう告げると、忽然と姿を消した。窓の外が、いつの間にか暗闇に支配されている。
一人立ち尽くす部屋の中には、今まで気がつかなかったのが不思議なくらいの異臭が立ち込めていた。独特の刺激臭に、胃の内容物がせり上がるのを感じる。部屋中をハエが何匹も飛んでいた。
洋室への扉は薄く開いている。私はそっと扉を押した。扉はいとも簡単に開いていく。暗がりの中でも,
足元を無数の何かが這っているのがわかった。壁に手を沿わせてスイッチを見つけると、明かりを点けた。
洋室の左奥。窓に接するように置かれたベッドの上に、麗奈はいた。夏の暑さのせいか、すでに腹部を中心に身体のあちこちが腐り落ち、見る影もない。ほとんど密室に近かったはずの部屋に、どこからどうやって湧いたのか、まだ小さな蛆が、麗奈だったものの表面を無数に這いまわっている。
カリカリカリカリ。
クチクチクチクチ。
クチャクチャクチャクチャ。
蛆が立てる細かな音が無数に重なって、絶え間なく鳴り続けている。
――私は、なんてことをしてしまったのだろう。
蛆の湧いた娘の身体に、縋りついて泣くこともできないまま、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
そう、三日前だ。麗奈があの男を連れてきた晩、佐藤を半ば追い出すようにして帰らせた後、しばらくして娘が帰ってきた。麗奈ははじめは努めて冷静に話そうとしていたが、次第に、未だかつて見たこともない程、怒りを露わにしていき――口論になるまで、そう時間はかからなかった。
――どれくらいそうしていたのだろう。玄関チャイムの音がこの耳に届いたのは、何回目に押された時だろうか。
あの男だ。そう直感した。
◆◆◆
「やあ、先刻はすまなかったね。いきなり怒鳴ったりして」
玄関ドアを開けると、佐藤柊二は面食らったようだった。私は笑顔を作ったまま、中へ入るよう佐藤を促す。佐藤は私の顔を訝しげに一瞥しながら、部屋の中へ。すぐに臭いに気づいたようで、鼻口を袖で覆った。
私は玄関ドアに鍵をかけると、佐藤に続いた。
「……三日前、駅までは一緒だったんです。でも、彼女、もう一度ちゃんと説得してみると言って――。僕も一緒に行く、と言ったんですけど、それだとおと――山上さんが冷静に話せないだろうから、と言うんで、それもそうだと従ったんです」
臭いを我慢しながら、話を続ける佐藤。今はそれどころじゃない、ということか。
「ところが、翌朝からメールも電話も何度もしているのに、返信もないし、電話は繋がらないし、で。あの後、こちらにはちゃんと戻られたのでしょうか。いったい何があったのか。麗奈さんは今どこにいるんでしょうか」
「私もね、何がなんだかわからないんだよ。とにかく落ち着きなさい。お茶でも飲まないか。ああ、それとも、ビールのほうがよかったかな」
そう言って、椅子に座るよう勧める。
「そんな悠長な。麗奈さんが心配じゃないんですか」
「もちろん心配だよ。私はあの子の父親だ。心配しないはずがないだろう。だからこそ、まずは落ち着きなさい、と言っているんだ」
佐藤はまだ納得がいかないといった顔だったが、私の言うことにも一理あると思ったのだろうか。勧められるまま、椅子に腰掛けた。周囲を飛ぶハエに顔を顰める。
「ところで、この部屋、ひどい臭いだと思わんかね」
「え? ええ、まあ。……山上さんは平気そうですね」
「平気なものか。今朝からずっとだよ。イタズラでもされたかな。どうも臭いは奥の部屋からしているみたいなんだが、見てみる勇気が出なくて、ね」
一瞬、沈黙が下りる。佐藤が何か気がついたように声を上げた。
「あ。よろしければ、僕が見てきましょうか」
「頼めるかい」
そう言って、笑顔を作る。
奥へと向かう佐藤の背中からは目を離さずに台所へ。私はそっと包丁を手に取った。洋室のドアをおそるおそる開ける佐藤の背後へと忍び寄る。
より強くなった臭気に佐藤は口元を手で覆いながら、壁に手を這わす。明かりを点けた瞬間の佐藤の姿は、まるで時が止まったように見えた。
口元を押さえていた手がだらりと垂れる。佐藤はしばらく身じろぎ一つしなかったが、その後の行動は私の想像とは違った。
佐藤は部屋の奥へと進み、ベッドに横たわる数日前まで麗奈だった物の、腐り落ち、融け、蛆に食い荒らされた身体に触れた。触れた先からぐちゃりと崩れる。腐肉のべっとりとついた指の間からは黒い液体が流れ出た。
佐藤はその場に崩れ落ちると、蛆が湧き、どす黒い液体の染みついたベッドに縋りついて、ボロボロと泣いている。
その姿を見て、私は愕然とした。やはり私はこの男を殺さなければならない。
しっかりと力が乗るように、包丁を逆手に握り直し、振りかざした。佐藤は蹲ったまま嗚咽を続けている。首だと上手く刺さらないかもしれない。肩を狙おうと思った。
一気に振り下ろそうとした瞬間、目の前から佐藤が消えた。いや、佐藤と私を隔てるように女が立っていた。
女は私を恐ろしい形相で睨みつけている。私からはその女のすぐ真横に麗奈の死体が見えていた。麗奈は、眼球を失ってただの穴と化した目で、目の前の女と同じように、こちらを睨みつけていた。
私の口からは、わけのわからない、言葉にもならない叫び声が漏れ出ていた。
女の白い手が僅かに動いた。
反射的に包丁を握ったままの両手が振り下ろされる。その両手に添えるように、女の両手がふわりと触れた。
包丁の切っ先は吸い込まれるように、私の腹部へと、深く、深く、沈んだ。
膝から下の感覚が、すっ、と消えた。視界がぐらりと傾いだかと思うと、次の瞬間には斜めに天井を仰ぎ見ていた。視界の端には、ベッド端に突っ伏していた佐藤が顔だけを上げて、こちらを見ているのが見えた。驚きと恐怖にその表情は凍りついている。
女は私の命が尽きるその瞬間まで、まるで虫けらでも見るような目で、こちらを見下ろしていた。