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203号室 雨宮照幸

 まるで、一目惚れだった。

 そこを訪れたのはまったくの偶然で、その日の僕は、ただただ目的もなく、あてどなくふらついていたのだが、ふとその建物が目に入った。

 敷地はブロック塀とアルミフェンスで大雑把に囲まれており、入り口脇にあまり主張しない感じで、アパートの名前が記されていた。

 建物自体もお世辞にも綺麗とは言い難い。おそらく築二十年以上だろう。木造アパートは最近でも珍しくはないが、外観を一望しただけでどこか不気味に感じる、そんなアパートを他に見たことがない。その雰囲気に僕は一瞬で魅了されていた。

  『裏野ハイツ』と記されたそのすぐ横に”空室あり”の文字。

 ――ここに住もう。すぐにでも引っ越そう。

 その気持ちは決意にも似ていた。


 ◆◆◆


 僕はスーツケース片手に、裏野ハイツの前まで来ていた。他の荷物はまだだが、とにかく早くこのアパートに住みたい、その一心で身の回りの物だけを持って、来てしまった。

 敷地内へと、一歩、足を踏み入れる。アパートの外観は以前見たとき以上に古めかしく見え、まるでホラー映画の主人公になった気分だった。いや、ホラー映画がそこまで好きというわけでもないが。

 ちょうどその時、一階端の部屋の親子が玄関ドアを開けて出てきた。

 そうか。今日は日曜日か。

「こんにちは」

 そう笑顔で挨拶をする。夫婦は二人とも三十代ぐらいだろうか。少しだけ怪訝な表情を浮かべた後、すぐに笑顔で挨拶を返してくれた。優しそうな人達、という印象だった。

「はじめまして。今度二階に引っ越してきた、雨宮です」

 頭の中に用意しておいた科白を口にする。男性は、どうも、と頭を下げた。親子は小山さん、というらしい。

 子供のほうは三歳ぐらいだろうか。母親の後ろに隠れるようにしてこちらを見ている。

「お子さん、大人しいですね。おいくつですか」

「え」

 小山さんの表情がこわばった。何かおかしなことでも言っただろうか。

「先日、三歳になったところなんです。ほら、ご挨拶は?」

 奥さんに笑顔で促され、少年は小さく首を縦に動かした。

 奥さんは「すみません、この子人見知りで」と頭を下げた。

「いえいえ」

 そう言いながら、膝を曲げる。

「お誕生日だったんだ。おめでとう。僕、お名前は?」

「………」

 少しだけ覗かせていた顔をさっと引っ込めてしまう。どうやら怖がらせてしまったようだ。

 僕はそれ以上は諦めて、すっくと立ち上がる。これからは同じアパートの住人なのだから、また顔を合わす機会もあるだろう。

 奥さんが再び頭を下げる。

「では、すみません。私達はこれで」

 小山さんはそそくさと、逃げるようにして出掛けて行った。少年の人見知りは、どうもお父さん譲りらしい。

 スーツケースを軽く持ち上げるようにして、二階への階段を上がる。足を下ろすたび、かんかん、と響くのが心地いい。

 僕がこれから住む予定の部屋は二○三号室。二階の端の部屋で、階段からは一番遠い。丁度、二○一号室を通り過ぎた直後に、背後でドアノブの回る音がした。

「あら。あなた、また来たの」

 そう言って顔を出したのは、見た感じ七十歳くらいの女性だった。

 二○一号室の住人は柴田初江と名乗った。見た目のわりに、はきはきと張りのある声で話すのが印象的だった。

「また?」

 僕は首を傾げる。目の前の老人に見覚えはなかった。おそらく以前、裏野ハイツをぼうっと眺めている僕の姿を見ていたのだろう。その様子を想像して吹き出しそうになる。傍から見れば不審者以外の何者でもない。

「ああ。以前このアパートの前を通ったときに、いたく気に入りまして。ここに住むことにしたんです」

 柴田さんは呆れるような、憐れむような目をしばらく僕に向けてから、「あまり他人様に迷惑をかけないようにね」と言って、部屋の中へと戻っていった。

 一体どういう意味だろう。夜中に騒いだりするタイプに見えたのだろうか。だとしたら心外だ。

 踵を返し、二○三号室へ。二○二号室は昼間だというのに、窓もカーテンも閉め切られている。本当に人が住んでいるのかどうか疑いたくなるという点は、下の一○二号室と同じだ。

 お隣だし、挨拶はしておきたいけれど――。

 右手のスーツケースを見て思い直した。まずは、荷物を置いてからだ。


 目的の二○三号室の前まで来ると、なぜか玄関ドアの横に表札が貼られていた。他の部屋には貼られていないことから、義務付けられている、ということはなく、自主的に貼ったのだと伺える。表札には、『林』と書かれていた。

 前に住んでいた人が残していったのだろうか。しかし、それにしてはその表札は真新しく見える。イタズラだろうか。なんの為に?

 裏野ハイツでの新しい生活の出鼻を挫かれたことに、軽くムッとしながらドアノブを回す。玄関ドアは微動だにしない。

「え」

 そうか。鍵だ。頭に血が上って、うっかりしていた。ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に押し当てる。

 鍵は鍵穴に嵌まらず、がちっ、と鈍い音を立てて止まった。何度か試すも結果は同じだった。

 つまり、これはどういうことだ。鍵を換えられた、ということだろうか。

 もう一度、表札を見る。

 林。

 つまり、こういうことだ。

 この部屋には僕が住む予定だったのに、この林というやつが横入りして、表札を貼り、鍵も換えて、すでにここに住んでいるのだ。道理で――。

 いま思えば、他の住人たちの反応も少しおかしかった。

 もう一度、表札を睨みつける。

 林。

 許さない。

 ここは、僕の部屋だ。僕はここに住むと決めたのだ。あの日――裏野ハイツを見つけたあの日に、そう決めたのだ。それを、横取りするなんて。

 ここに住むのは、僕だ。ここは、僕の場所だ。


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