第9話 対鬼怒甲平
――闘龍試合第五試合、大将、南八郎対先鋒、鬼怒甲平戦、当日。
薄くもやのかかったよな青空に東からオレンジ色の太陽がのんびりと顔を出していた。
夏でもこの時間帯は涼しく空気が水気を帯びていて、芝生の上を清涼感のある風が吹き抜けていった。
早朝のことだ。
ホテルの正面入り口に八郎と凛子それに阿門が立っていた。
八郎は黒の道着に着替えスニーカーを履いていた。
凛子は着慣れているのか制服のままだ。
阿門はいつもどおり黒タイツにスーツ姿である。
三人とも緊張の面持ちであった。
特に百億を任されている凛子のプレッシャーは筆舌に尽くしがたい。
落ち着かないようすでネイルを触っていた。
彼女にとって夢が敗れる土俵際であった。
八郎、阿門はなるべく表情や仕草には出さないようにしていた。
大人だからだ。
やがて黒塗りのワゴン車が到着し、中から現れたハディソンが丁寧に頭を下げた。
「それでは試合会場まで案内いたします。トラブルを防ぐため乗車できるのは、企業側の格闘者、代表者、代表者の護衛の三名となっておりますが、よろしいでしょうか?」
「かまいませんわ」
「わかりました。では乗車後、こちらのアイマスクを着用してもらいます。風景から会場を特定できないように、できるだけ格闘者の条件を同列にするための処置でございます。お気を悪くしないで下さい」
「ええ。異論はないですわ」
三人は座席に着き、アイマスクを着けた。視界が闇に包まれる。もっとも窓ガラスが黒塗りになっていて、運転席と後部座席の間がカーテンでしきられているので、あまり意味はないように思えた。
ハディソンの部下がハンドルを握り、にぶいエンジン音をさせながらワゴン車は出発した。
前が見ないというのは不便なもので、タイヤから伝わる振動がいつもより激しく感じられた。
暗闇の中で八郎は精神を研ぎ澄ましていた。
もうスイッチは入っていた。
◆
三人が乗車する前、時は一時間ほどさかのぼる。
鬼怒甲平はソファーの上で缶ビールを片手にテレビをながめていた。
衣服はトランクスのみを身に着け、それ以外のすべてがさらけだされていた。
鋼のような肉体は八郎と同じく傷だらけであったが、それよりも押しのけ視線を集めるのはヘビの入れ墨であった。広い背中に日本画のタッチで書かれたウロボロスが、自分の尻尾を飲み込み三白眼を光らせていた。
絵画として観るなら感嘆する者もいたであろうが、人の肌を埋め尽くすそれは得も言えぬ禍々しさを放っていた。
同じ空間にいるだけで空気が毒されていくようだ。
甲平は悪趣味であった。
ただ家具のセンスは良いようで、身体を沈めている本革張りのソファーは上等な座り心地を提供していた。海外から取り寄せた逸品だ
缶ビールにはペンで穴が開けられ、そこへストローが差し込まれていた。甲平のお気に入りの飲み方であった。テレビに映っているのは戦争を題材にしたドキュメンタリーだ。腕から血を流した女性が子供を抱きかかえ。泣き叫んでいる。あえて戦場にいる時の記憶をフラッシュバックさせるために流しているのだ。
そう。甲平は元々戦場で闘う傭兵であった。
ではなぜ傭兵になったのか?
それは甲平が殺人を愛してやまない異常者であったからだ。だから日本ではなく銃弾飛び交う戦場に十五の時から身を置くことにした。
金さえあればどこえでも出向き、民族・宗教紛争に参加した。AK-47を握りしめ7.62×39ミリ弾をぶっぱなす時の快感はどんなものにも代えがたい。物言わぬ死体から立ち上る血の匂い手触りは、彼に性的興奮をもたらしていた。部隊の仲間にはイカレていると説教されることもあったが、すべて暴力で黙らせてきた。結果そのせいで味方からも背中を狙われるようになったが、むしろ甲平は感謝していた。より多くの人間を敵に回して殺し合えるからだ。
一度へまをして敵の捕虜にされたことがあった。水攻めに合い、針金を指の肉と爪の間に刺されたが、甲平は笑っていた。それが相手をさらに激怒させたが、十日間も耐え抜き最後は自力で脱出した。時間がかかった理由は、我慢が快楽を増幅させるからであった。
貯めに貯めたほうが自慰は気持ちいい。
真路豪勢に雇われたのは、偶然日本に帰ってきた時にスカウトされたからであった。
格闘者など甲平にとってはお遊戯でしかなかったが、傭兵時代の三倍の給料を払うというので。しぶしぶ引き受けた。
そして格闘者になってからは連戦連勝であった。粉塵の中いつ飛来するとも限らない銃弾にくらべれば、対戦相手のストレートパンチやハイキックなど止まって見えた。
それは千年原重工と対戦する時になっても依然として変わらなかった。
先鋒から副将までプロレスに八極拳、ムエタイやブラジリアン柔術を使う者もいたが、どれも片目や睾丸が潰れた時点でギプアップを決め込み、己の敵にはならなかった
唯一想定外だったのは南八郎だけだ。初見で殺しきれなかった初めての相手である。
(もっともそれも今日の試合までだかな。本気を出せばあのロートルちゃんも泣いて許しを請うだろ)
そんなことを考えていると、スマートフォンが振動し、メールが送られてきたことがわかった。
差出人は豪聖で内容は、
《早く家からでろ! 運営から迎えが来ているぞ!》
というものだった。
甲平はやれやれといった様子で肩をすくめ《待ってろ》という風なことを返信した。
ちょうどドキュメンタリーが終わったところであった。
スマートフォンを握りしめると、ソファーを蹴り一気に水面まで浮かび上がった。
はしごを上り撥水性の床を出口に向け歩いていく。
背後にはプールに沈められた家具や、水中でも使用可能な電化製品が、水面の向こうにゆらゆらとあった。
豪聖に今回の前金として作らせた甲平専用の部屋である。
心肺機能を高めるためによくここに潜っていた。今日のタイムは無酸素で二十分。これは甲平の平均的な潜水時間で、コンディションは完璧であった。
「退屈だが水が腐るほどあるところだけは好きだぜ。この国もな」
着替えの後、ワゴン車に乗り込み甲平も試合会場へ向かった
アイマスクの下で相手をどう殺すか。
それだけに頭を巡らせていた。
◆
ワゴン車が止まった。
ハディソンがアイマスクを外して、車から降りるようにと言った。八郎、凛子、阿門は指示に従い車外に出た。同じタイミングで甲平、豪聖、付き人の黒服が別の車から降りた。
太陽の光がいつもよりまぶしく感じられ、みなが手の平で日よけを作った。そこはデパートの屋上だった。もうじき取り壊されるのか、コンクリートにはひびが入り、雑草があちらこちらに生えていた。
日よけに巨大なパラソルが立てられ、その下に会員が座る上等な椅子が用意されていた。椅子の正面には複数のディスプレイやコードを伸ばした機材が置かれ、観戦に使われるのだとわかる。
すぐ近くにハディソンの部下だろうか、同じような手品師の格好をした男が二十人ほど立っていた。シャンパンやフルーツなどを準備しており、雑用が役目のようであった。
凛子が高さを訊ねると七階建てだとハディソン言った。すぐ隣に同じ高さの立体駐車場がそびえ立っていた。
ハディソンは全員を一か所に集めると、試合のルールを説明しはじめた。
「本日の試合会場はこちらの五層六階建ての立体駐車場となっております。八郎さま、甲平さまには一階と最上階から同時にスタートしてもらい、フィールドを存分に使って闘ってもらいたいと思います」
「それ以外。デパートの中や駐車場の外に侵入した場合はどうなるんですの?」
「凛子さま。そうなりました時点で即座に失格となります。各階につながる扉は試合開始前にすべて施錠しますので、途中でギブアップされる場合は一階の車両用出口から出てもらうか、階層から飛び降りてもらうことになります。それ他の方法でのギブアップは受け付けておりません。格闘者のお二人は相手を場外に放りだすか、息の根を止めることが勝利条件となります」
「武器の使用はありなのか? わしは血が見たいんだが」
「豪聖さま。駐車場にはこちらが用意した軽自動車が何台か止まっております。キーはかかっておりませんので、中にあるものをご自由にお使いできます。もっともわたくし共はリアリティを重視し、車内にあるのは一般的な家族が使うものに限定しております。つまり日常使われることのない、バタフライナイフやサブマシンガンなどの凶器は用意していませんのでご安心を。他に何か質問はございますか?」
誰も聞く者はいなかった。
いよいよ試合開始である。