第8話 対大浴場
高級ホテルの八階、スポーツジムで八郎は汗を流していた。
闘龍試合はもう二日後に迫っており、最後の調整をしているところであった。
広い室内にはフローリングの床が張られ、外に面した大窓からは街の景色を一望できる。まわりには多種多様な器具が並べられ、プロレスラーが団体で押しかけても平気な広さがあったが、現在、他に人影はなかった。
試合が終わるまで凛子が、ホテルを貸し切りにしているのであった。壁に備え付けられたオーディオ機器には高価なスピーカーもあり、八郎がリクエストしたCDがかけられている。コーチをつけようかと訊かれたが断った。師匠の元を離れてからは、自分の力でここまでやってきたのだ。いまさらやり方を変えるわけにもいかなかった。
今使っている器具はペッグデックマシンという器具で、八郎はそこに座っていた。
ペッグデックマシンとは椅子と左右に開閉するパッドを組み合わせたもので、使用者は両肘を曲げパッドに腕を固定し、左右のパッドを胸の前で合わせることによってトレーニングを行う。
十分にパッドを密着させたら、再び腕を開き元の位置に戻す。
後はこの動作を繰り返しやるだけだ。
主に大胸筋や三角筋前部を鍛えることができ、アイソレーション種目、つまり一つの部位を集中的に鍛える種目であった。
高重量をもちいているため、開始姿勢で息を吸い後は息を止めながら腕を動かしてる。
ふうっと熱を帯びた息が吐き出され、その度に練り上げられた筋肉がギシギシときしんでいた。
ちらと柱にかかった時計を見ると、すでに二時間が経過していた。
少し休憩をとろうかと思っていると、扉を開けて凛子が入ってきた。
「調子はどうですの? 試合には支障なくて?」
「問題ない。ベストな状態だ」
「そう。それはいいのですけれど、あの……こ、この音というか声なんとかなりませんの?
凛子は眉間にしわを寄せ、スピーカーを指さした。
動きにあわせて丁寧に縦ロール巻かれた金髪がふわりとゆれる。
いまかかっているBGMは「魔法妹ルルカ☆マジック」のドラマCDであった。「お兄ちゃん」や「にゃ~ん」などの甘ったるい声がひっきりなしに聞こえてくる。絶対他人に聞かれたくない、学校の放送室で一番流してはいけないタイプのあれである。
だが当の八郎本人は全く意に介せず平然としていた。
どうやらチャンピオンはかなりメンタルが強いようである。
悪い方向に。
「これはルルカが魔法少女になる前の日常を描いた作品だ。これから過酷な運命に身を投じる彼女たちが、心から笑い合える最後のひと時を楽しもうとする姿がせつなくもまぶしい。また兄である真司の葛藤が――」
「いえ。解説はけっこうですわ。いまは貸し切っているからいいですけど、こういうのは控え目にしてくださいね」
「なぜだ」
「なぜって……わかりません?」
「わからん」
凛子はおでこを押さえると話を変えた。
この問題はとりあえず保留のようだ。
「まあいいですわ。何か必要なものはありますか?」
「物はないが風呂には入りたいな。いま空いているか?」
「この時間は五階の大浴場が男湯ですわね。私たちと千年原の執事、ホテルの従業員以外に人はいませんけど。好きになされたら」
「助かる」
「あなた本当にお風呂が好きなんですのね。ここに来てはじめて知りましたわ」
「庶民には贅沢な代物だからな。いって来る」
八郎は立ち上がると扉をくぐり、スポーツジムを後にした。
大浴場は和風呂、洋風呂、露天風呂、サウナにわかれていて、八郎は和風呂に入ることにした。
引き戸を開け入ると湯気の向こうに長方形の湯舟が広がっているのが見えた。広々としていてまるでプールのようである。かすかに硫黄か何かの匂いが鼻をかすめたが、とくに不快なものではなかった。このホテルは温泉を引いていて、湯には打撲や切り傷に効能があるとのことだった。
もちろん他に人の姿はなく貸し切りである。
シャワーで汗や汚れを落とし湯舟につかる。湯かげんは熱くもなくぬるくもなく完璧だ。肩まで湯につかりどこともないところ見つめていると、疲れや緊張が解けていくようであった。
「ふう」
思わず声が出た。
貧民街で暮らしていた頃には、想像もつかなかった楽園がそこにはあった。
まさに極楽である。
古傷だらけの手足を十分に伸ばしもみほぐす。どれも闘いで得たものであり目にはいるたびに、思い出がチカと頭をよぎったが、いまは考えないようにと務めた。
良い思い出はあまりない。
続けて肩をもんでいると、湯気の向こうに人の気配を感じた。
気のせいかもしれない。他に客はいないはずである。
だがたちどころに、八郎の目つきが鋭くなった。確かにいまはかなり無防備な状態である。真路製薬がルールを破り、刺客を差し向けている可能性もある。
風呂桶を手に取りせめてもの盾とする。
ひたひたと足音が聞こえてきた。
どうやら気のせいではなかったようだ。本当に何者かがそこにいる。少しずつだがうすぼんやりとだが、影も見えてきた。
やがて湯気がはれ、相手の姿があらわになった。
それは凛子であった。
髪をほどき手ぬぐいを持ち、一糸まとわぬ裸体をさらしていた。手で隠す時間がなかったため、豊かな乳房や鼠蹊部が丸見えである。
身体はしなやかで美しく、女性らしさが前面に溢れると同時に、年相応のたるみが胸や腹部や太腿に現れていた。それは白雪のような肌とあわさって、もちもちとした質感を容易に想像させた。欲情をかきたてられる、ただならぬ色香がそこにはあった。
二人はしばらくの間、お互いに口をぽかんと開けていたが、一足先に凛子が正気に戻った
悲鳴が上がった。
絹を裂くようなというよりか、段ボールでも重ねて破り捨てたような大きく、バリバリと激しい悲鳴であった。
同じ肢体から発せられているものとは思えないくらいだ。
「ひゃ、え、あ、どうしてあなたがここにいますの!? ここは女湯でしてよ!」
「ばかな。ここは五階のはずだ。そっちが間違えたんだろう」
「ここは四階です! 赤色の立て看板が見えなかったんですの!」
思い返せばそんな物があったような気がした。
湯につかることしか考えていなかったが、確かに言われてみれば一階勘違いしていたのかもしれない。
八郎は更衣室に戻るために立ち上がろうとした。
また悲鳴が上がった。
さっきよりも大きい。
「そこにいていいですわ! とにかく後ろを向いていて下さい!」
「すまん」
八郎が背を向け再び湯舟に身を沈めると、背後で水音がした。
何事かと振り返ろうとすると金髪がちらり見え、凛子が声を荒げた。
どうやら彼女も入浴したようであった。
「……なぜ入る」
「また着替えるのが面倒なだけですわ。あ、こっちを見たらぶん殴りますわよ」
「わかった」
二人はそのまま黙り、しばらく温もりに身をゆだねていた。
八郎の背中を凛子が眺めている格好である。
天井から滴がしたたる音だけが大浴場に沁みわたった。
ややあって凛子が口を開いた。
若干のためらいが見られた。
「――すごい傷ですのね。すべて試合でついたものなんですの?」
「いや。喧嘩でついたものがほとんどだ。ガキの頃はやんちゃばかりしていたからな。荒田流を覚えてから大きなケガはしていない」
「ボランティアでうかがったことがありますが、貧民街の環境は劣悪なものでした。八郎はそこで生きてきたのですから当り前ですわね。ごめんなさい。わかりきったことを訊いてしまいましたわ」
「そういうので見られるのはまだましな場面だ。あんたらをいい気分にさせないと寄付も貰えないこともある。現実はもっとシビアだぞ。できの悪い映画のようなものだから、わざわざ知る必要はないが」
「そう……」
気まずい沈黙が流れた。
貧民街と富裕層超えられない壁がそこにはあった。
それでも凛子は手を伸ばした。
そして八郎の背中に触れた。
「以前私が夢について話したこと覚えていますか?」
「覚えている」
「私たちが勝ったらこのような傷跡は二度と後世に残しませんわ」
「ああ頼む。だからあんたに力を貸すんだ」
「やさしいんですのね」
「またその話か。おれは違う」
「いいえ。違いませんわ」
八郎は凛子のことを馬鹿だと思った。
だがアパートでの決意を見る限り、現実を知らない小娘のたわごとではないことはわかった。
自分の師匠も貧乏人のくせに同じことを言っていたことを思い出した。
彼もどうしようもないお人よしだった。
だからあの時似ていると気づいたのだ。
八郎は凛子のことを好ましい馬鹿だと思った。
だからあの時敗北を選んだのだと。
「私がこの世界をもっと良くしてみせますわ。だから必ず勝って下さいね」
「当然だ。そのためにここにいる」
重く決意をこめて八郎は言った。