第5話 対形意拳
凛子は八郎から白のビニールテープを借りると、トレーニングスペースに足を運んだ。
器具を横にずらしマットの上に、ビニールテープで円を描いた。
直径五十センチ程度の小さな円だ。
大人一人が両足を入れてぎりぎり立てっていられるくらいの幅である。
準備が終わるとルールの説明を始めた。
「はじめに言っておきますけど、今からやるのは格闘技の試合に近いゲームです。そして私の方に有利なルールですわ。それでもよろしくて?」
「問題ない。一億も出しているんだ。ハンデくらいくれてやる」
「どうもありがとう。では説明しますわね」
「ああ」
「あなたがこの円の中に立ち、外のいる私と格闘技の試合をするということですわ。そして私が打撃などでノックアウトされて、動けなくなったらあなたの勝ち。逆にこっちの打撃でひるみ、その円から指一本でもはみ出したら私の勝ち。以上ですわ。何か質問は?」
「武器の使用は?」
「鈍器や刃物、銃など凶器攻撃はなしですわ。それに目突きや金的もなしです」
「ノックアウトということはあんたを殴り倒せばいいということだな?」
「ええ。ただし円から出ることは出来ませんので、私の攻撃に合わせる形になりますわね」
「なるほどな。実力差を考えて妥当な線だろう。だが一つだけ言わせてもらおう」
「なんですの?」
ここまでの説明通りなら己の勝利は揺るがない。
八郎はそう考えていた。
このルールを提示する凛子はそれなりの実力者なのだろうが、骨格や顔つきから見て素人だとわかった。
スポーツとして闘えても、実戦を経験していない顔である。
負ける要素がなかった。
だがそれではつまらないとも思った。
せっかく今までと違う選択肢をとったのだ。
「おれは一切攻撃をしない。好きなだけ打ってこい」
「し、正気ですの!? こう見えても私は――」
「これでいい。あまりにこちらに有利な条件だと寝覚めが悪いからな」
凛子は沈黙し何か考えているようであった。
唐突に自分が有利になったのである。
何か裏がないかと勘ぐるのは当然であった。
しばらくして凛子は、
「……心遣い感謝しますわ。本当にいいのですね? 私手加減しませんわよ」
「くどい。もう言うことはない」
「わかりましたわ。では制限時間はそちらが決めて下さいな」
「制限時間は一時間だ。延長戦はない。以上だ」
「ええ。ではさっそく始めさせてもらいますわね」
「その前に誓約書でも書いてくれ。負けたあとで反故にさえては困る」
「信用ないですわね。阿門!」
「はい。お嬢さますでに」
阿門がいつの間に用意したのか、誓約書を持ってきていた。
細かい部分は書き込まれ、あと必要な手続きは八郎と凛子の同意だけだ。
八郎が朱肉を出し二人は拇印を押した。
これでもう後戻りはできない。
八郎は円の中心に立った。円の中は窮屈だったが、守る分には問題ないと思われた。
続いて凛子が円の外に立った。上着を脱ぎスカートの下にはリムジンから持ってきたスパッツを履いている。
「こい」
八郎が短く言って、勝負が開始された。
制限時間一時間以内に八郎が円の外に足を踏み出したら負け。
凛子の攻撃に耐えて中に踏みとどまれば勝ちである。
八郎が勝てば一億を手にすることができる。
逆に凛子が勝てば八郎が闘龍試合で千年原重工側の大将を務め、命がけの闘いに身を投じることとなる。
どちらも負けるわけにはいかない。
開始直後、凛子が足を振り八郎の太腿にローキックを放った。
ぱんと小気味のいい音が鳴った。
大の男でも不意をつかれれば倒されるであろう威力だった。
中々の技前だった。
「驚いた。鍛えているんだな」
「当然ですわ。でなければこんな勝負やりませんわよ」
「どんくさいのに?」
「余計なお世話ですわ! あれは演技! 油断させるための演技です!」
さらに凛子の蹴りが八郎のすねを打った。
足を狙い集中的に攻めていた。
しかし八郎に動揺は見えず、身体にわずかなブレもなかった。
長年鍛えられた両脚はスポンジめいて衝撃を吸収していた。
硬さだけでなくしなやかさもあった。
凛子は構えを変えた。
やや低めに腰を落とし、上体を杭が入ったように真っ直ぐ立てる。
左足を前に右足を後方にずらした。
「ほう」
八郎が興味深げに目を細めた。
凛子の構えは〈形意拳〉で用いられる三体式の姿だった。
より正確に言うと中三体式の構えだ。
右足が左足の脇に寄せられ、この時右足は震脚で床を力強く踏みしめる。同時に右手拳が前面に打ち出され、八郎の腹筋を叩いた。
〈一串一並並歩崩〉、崩拳の一種であった。
打撃を弩弓の如き威力にする必殺の一撃である。
しかしダメージを受けたのは、打った凛子の方だった。
八郎がルールを侵し、反撃したわけではない。
拳に伝わった感触がまるで、ゴムタイヤを打ったようだったのだ。
とても人を肉を殴ったとは思えなかった。
驚愕した。
人はここまで己の肉体をいじめぬけるのかという顔であった。
「どうした。もういいのか」
「このお!」
凛子は蹴りを放った。
左足を一歩前に進め動きを止めず、バネのごとく右足を蹴り上げる。
同時に右手の平を下方から前方、右方、後方へと回し最後は右足の蹴り上げに合わせて上方へ押し上げた。
続けて右足を一歩前に下し、腰を落とすと同時に左拳を前方に打ち出す。
〈龍形座歩忸腰崩〉、蹴りと崩拳の連撃技である。
八郎はそれを両腕でこともなげにブロックした。
強靭な前腕が凛子の動きに対応し、完全に威力を殺していた。
この時点で互いの力量はおおむね把握された。
凛子の技は正確ではあったが、スポーツ選手の技であった。
目突きや金的も打ず、何より殺気がこもっていない。
いくらトレーニングを積んでいても、八郎に通じるものではなかった。
「はああああああああああああ!」
それでも凛子は打った。
拳を打って打って打ちまくった。
五十分が経過した。
八郎は無尽蔵かと思うスタミナを見せつけ、最初の位置から一ミリたりとも足を動かしていない。
凛子に実戦経験が不足しているということもあるが、地下で闘う人間の実力をいかんなく発揮していた。
その前では凛子はマットの上に両手両膝をつき、肩で息をしていた。
鍛えているとはいえ一撃一撃全力以上で打っているのだ、女子学生にできる運動の限界を超えていた
だがそれでも凛子は再び立ち上がろうとしていた。歯をくいしばり、何とか足を動かそうとしている。全身からしたたる汗は体温によって気化しそうだった。
八郎には何が彼女をそこまで駆り立てるのかわからない。
そもそもこんな子供に闘龍試合の責任を背負わせること事態ががどうかしている。
千年原重工の大人どもは阿呆ばかりなのかと思った。
凛子は生まれたての小鹿めいて立ち上がった。
八郎は思わず声をかけた。
「やめろ。もう限界のはずだ。休め」
「ま、まだですわ。まだ時間は残ってます……ここからが本番ですわ」
「……おれを雇うためだけになぜそこまで身体を張る? 夢ってやつが関係しているのか?」
「もしそうだとしたらどうしますの? わけを話したら同情して勝ちを譲ってくれますの?」
「さあな。だが言ってみろ」
「…………私の夢はこの国から貧民街をなくすことですの。百億出して闘龍試合に参加しているのもそのため、軍資金を稼ぐためですわ。正直に言いますとお父さまには反対されましたけどね」
「正気の沙汰とは思えん。なぜそんなことをする」
「別に理由なんかありませんわ。庶民に施しをするのは金持ちの特権でしょう。私の自己満足です」
「途方ない夢だな。そんなことが本当にできると思っているのか。」
「みんなに言われましたわ。でも夢は叶えるものですから」
凛子はクスリと笑った。
不敵な笑みだった。
自分以外の人のために闘える人間の笑みであった。
自分のためだけに生きるために稼いできただけの、八郎には計り知れないものがあった。
本当に勝負をあきらめていないようだった。
八郎はこれまでの人生でこのような人間を一人しか見たことがなかった。
自らの師匠である。道徳を教わった人物でもある。その思い出が脳裏をよぎった。彼も凛子と同じように笑っていた。
「質問してもいいか」
「? なんですの」
「あんたはいい人か? 人にやさしくしたことはあるか?」
凛子は迷いなく言った。
「違いますわ。でもやさしくあろうと、いい人であろうと努力はしてますわよ」
「そうか」
「なぜそんなことを訊きますの? あなたがいい人だから?」
「おれが? 一体どこがだ」
「だって今も私のために不利な条件を飲んでいるのでしょう。お人よしなんですのね」
「……」
驚きだった。
そんなことを言われたのは初めてだった。
ここに来る前に自分のことは散々調べ上げ、暴力でしか金を稼げない男だと知っているはずであろう。
凛子の瞳に嘘偽りはなく、単純に思ったことを述べているようだった。
興味をもった。
闘龍試合のリスクも気にならないほどに八郎の心が揺さぶられた。
こんな小娘にである。
師匠と出会った時以来の感情だ。
そしてこの時点で勝敗は決していた。
「……残り時間は十分を切ったが、凶器攻撃は禁止なんだな?」
「ええ。いまさらどうしたんですの」
「つまりそれ以外なら何をしてもいいというわけだ」
「? だから何を――」
八郎の視線の席には本棚があった。
DVDの詰まった本棚が。
凛子が走った。
もつれそうになる足を必死に動かし本棚に駆け寄った。
そして口を大きく開いて叫んだ。
「い、いますぐ円から出なさい! でないとあなたのコレクションを壊しちゃいますわよ!」
八郎はわずかに口角を上げ、
「そいつは困るな。今は生産されていない限定品もある。くやしいがおれの負けだ」
そう言って円の外に足を踏み出した。
この勝負凛子の勝利である。
本人は安堵したのか、その場にへたりこんだ。
阿門も黒タイツの裏で、口をあんぐりと開けていた。
八郎は凛子のそばに近寄り、かがんで手を貸そうとした。
彼女はそれを見上げながら
「どうして勝たせてくれたんですの?」
「なんのことだかわからんな」
「実は私のことが好みだったとか?」
「いや。それはない」
凛子はまたクスリと笑った。
安堵や疑問が混じった笑みだった。
八郎が言った。
「千年原凛子お嬢さま。敗者として闘龍試合の件潔く引き受けよう」
「もちろんですわ。負けてもらっては困りますわよ」
「ああ。必ず勝つと誓おう」
「あら。本当にいいんですか? 五人抜きは不可能ではなかったんですの?」
「気が変わった。考え直した。あんたの夢に協力したくなった。それだけだ」
凛子はびっくりして目を見開いていた。
それからまた笑って、
「ありがとう。嬉しいですわ。それと呼ぶときは凛子でいいですわよ南八郎さん」
「おれも八郎でいい」
二人は握手を交わした。
固い握手だった。