第4話 対闘龍試合
凛子はソファーに座り八郎が淹れたコーヒーを飲んでいた。
猫舌なのか何度も息を吹きかけている。アルミ製のマグカップでも彼女が口をつけると、高級感が増したような気がした。
インスタントの安物だが、表情に変化はなく嫌がるそぶりもない。
富裕層の人間には珍しい態度であった。
すぐとなりに阿門が立ち、ことの次第を見守っている。
黒タイツに隠され表情は見えないが、体臭が緊張をおびた匂いに変わっていた。
日常的に闘っているため、人に対する感覚が鋭敏になっていた。
八郎は凛子の対面に椅子を運び、その上に座っていた。
手を膝の前で組み表情は険しい。傍らにはミネラルウオーターのはいったペットボトルがあった。半分を飲み干している。
まだスイッチはまだ入っており、あたりを警戒していた。
他の仲間がいないとは限らないからだ。
凛子はマグカップを阿門に手渡し話を始めた。
「依頼はあなたに千年原重工を代表するの格闘者として、〈闘龍試合〉に出場してもらいたいということですわ」
「闘龍試合? 金持ち共がやる気のふれた賭博のことか?」
「はい。そのとおりですわ」
「出場する格闘者は高確率で命を落とすと聞いている。おれも過去に何度か依頼されたことがあるが、実際に参加したことはないな」
「ええ。だからあなたを選びましたの。参加経験のある格闘者には相手の息がかかっているかもしれませんから」
闘龍試合とは富裕層の中でも特に上流階級、〈闘龍試合会員〉になった者だけが許されたギャンブルだ。
場所やルールは第三者機関である〈闘龍試合運営〉が決めることになっている。
企業が格闘者を五人選び、対戦相手の格闘者五人と闘わせるのだ。
ルールは勝ち抜き戦で、先鋒、次鋒、中堅、副将、大将に格闘者を配置し、先に相手のメンバーをすべて倒した側の勝利となる。
企業側は金と人脈を最大限に活用しなければならず、株価だけでは測れない本当の実力がためされる。
公式の団体戦と同じく先鋒の仕事が重要で、一番強いものを置くのがセオリーだ。ここでつまづくと最悪の場合、先鋒だけで五人抜きをされてしまうこともある。
ただ一試合ごとにダメージが蓄積していくので、そのようなことは通常まず起こらない。
そして勝利した企業は賭けの景品を相手側から受け取ることができる。
内容は事前に話し合いで決定し、高価な宝石やビルの入札権など様々だ。
別の国では油田を賭けの対象にする者もいるほどである。
つまりリスクも大きいがそのぶんリターンもでかい、狂気のギャンブルであった。
「わからんな。おれは地下闘技場で働き、ここでは一番強いだろう。それは貧民街の一裏カジノ限定されているからだ。井の中の蛙ってことだよ。他の街に行けばまた別の実力者がいるだろうし、あんたのコネを使えば海外から、表の格闘会で活躍する実力者も呼べるだろう。なのになぜ、おれなんだ?」
「わたしたちは二週間かけて百を超える地下闘技場を調査しましたが、そのなかでも一番強いと確信できたのはあなただけですわ。知ってのとおり闘龍試合は非合法の賭け試合のなので、目突き、金的、殺人すらも許可されています。表の人間は強くても倫理観が邪魔で使えませんの」
「……そうか。理解はできる」
「助かりますわ。ところで思ったより謙虚ですのね。格闘者のみなさんはもっとオラオラ系だと想像していましたわ」
「ほっとけ。性分だ」
八郎は眉根を寄せ仕事の要について質問した。
金の話だ。
「――報酬は? 仮におれが引き受けたとして、報酬はどうなる」
「そうですわね。今回の闘龍試合には賭け金として、お互い百億を出していますの。格闘者の取り分は三十億くらいかしら。勝てばの話ですけれど」
くらくらした。
日頃の稼ぎの何倍なのかすぐに計算できない。
桁がちがいすぎて実感がわかない。
だが一つだけ確かなことは、話にのれば今のドブめいた環境を抜け出せるということだ。
水と安全がただの世界に行くことができる。
学校に行いって教育を受けることもできる。
一日一善人のためになることをしてもいい。
夢のようだった。
「……」
「ダメかしら? 働き次第であと五億までなら報酬を上乗せしてもかまいませんわよ」
「いや、報酬はそれで十分だ。この件は前向きに考えたいと思っている。他に条件があるなら聞きたい」
「あら。ありがとう。条件といえば……そうですわね。先に前金は支払いませんわよ。たまにいるんですの、前金だけ貰い早々にギブアップして逃亡する格闘者が。闘龍試合のルールに途中退場はないのですけどね。負けたら報酬ゼロでもいいかしら?」
「…………問題ない。ところであんたはスカウトであって雇い主ってわけじゃあないんだろう? 千年原祭がなぜ娘にこんなことをやらせるのか疑問だが。闘龍試合会員は誰なんだ? 命を賭けるんだ、名前くらい教えてほしいもんだな」
「いいえ私が会員ですわ。私が千年原重工を代表して闘龍試合に参加しています」
「――耳がおかしくなったのかおれは。あんたが会員で百億のギャンブルに参加しているだと?」
「ええ。これが会員証ですわ」
凛子が言うと阿門が懐から会員証である時計を取り出した。
純金製でもない宝石が使われているわけでもない古ぼけた時計だったが、以前八郎に依頼を持ちかけてきた金持ちの物と同じだった。
本物であった。
「なぜこんなことをする? 会員になるためにも莫大な金が要る。学生の分際でいったい何が目的だ」
「目的? そうでわね目的というのなら、私には夢があります。これはその第一歩ですの」
「夢? どんな夢だ?」
「内緒ですわ。あなたが依頼を受けてくれるなら、話して差し上げてもよろしいですけどね」
「……まだ保留だな」
にわかには信じられないことだったが、八郎はぐっと疑問を飲み込み、それ以上訊かなかった。
千年原の事情などわからないし、金さえ手に入れば後はどうでもよかった。
ただ、雇い主が女子高生なのはかなり不安だった。
夢については少し気になったが。
「話を変えよう。おれ以外の格闘者は決まっているのか? そいつらに払う金もいるだろう。分け前はどうなっている? 勝ち星の数によって報酬も変わると思うが、五人で三十億を分けるのだろう?」
「んーそれについては、ちょっとアクシデントがあるんですの。怒らないで聞いて下さります?」
「どうした」
ここで凛子いったん口を閉じ、居心地が悪そうに話しだした。
どこか誤魔化そうとしているような様子だ。
仕事で商品を十個注文するところを十セット注文してしまったかのような。
「実はもうあなた以外の格闘者は出そろっていますというか…………試合自体もう開始しているんですの」
「……意味が分からん。これから闘龍試合を始めるために、おれをスカウトしに来たのだと今の今まで思っていたんだが。まさか違うのか?」
「簡単に言いますと、千年原重工とその対戦相手の間で闘龍試合があり、こちらの格闘者五人中四人、先鋒から副将は、もう相手の先鋒一人に敗北した後なんですの。残っているのは大将だけ。そして大将も前金を掴んで逃げ出しましたわ」
「つまりおれはその大将の代理というわけか?」
「まあ、そうですわね。ちょっぴりピンチなのであなたには、頑張ってもらわないといけませんわね」
「おい待て。まさかおれ一人で五人抜きしろと言うんじゃないだろうな? 格闘技の試合だぞ」
「ピンポーン! 大正解ですわ! な、なんちゃってー」
「……」
八郎の眉根がさらに険しくなり押し黙った。
非常に重苦しい沈黙が流れた。
時計の針の音がやけに大きく聴こえた。
しばらくして八郎は、
「悪いがこの仕事断らせてもらう」
「え、な、なんでですの! 勝てば三十億ですのよ!」
「金持ち共はいつもそう言うな。おれたちのことを札束で叩けば走る牛馬とでも思っているのか? 残念だがこれでも人間だ」
「ち、違いますわ! そんなつもりじゃ……」
「他に払う奴がいなけりゃそれだけ出せるだろうな。命の賭かった試合がここまで悪条件では話にならん。この業界じゃ金に目がくらんで、リスクを測れない奴は早死にする。おれならゼロがあと一つ増えてもお断りだ。命より紙束のほうが好きな奴をあたってくれ」
「でも、でも、わたしたちには、もうあなたしか」
「無理だ。五対五で勝ち抜きなら途中でリタイアもできるが、全勝するとなれば肉も切らず骨も断たず、無傷で大将までたどり着かなければならない。不可能だ」
そう言って八郎は阿門からマグカップをさらい、リビングの右隣にある流し台に持って行った。
コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
戻ってきてみると、凛子は瞳に涙をため泣きそうになっていた。
事情はわからないが事態が切迫しているのだとわかった。
八郎は顔を見ないようにしている。できもしないのに同情で言葉をかけたくなかった。
やはりこんな人間がまっとう人生を送れるわけがないと思った。
いい人になどなれる気がしなかった。
しばらくして、今まで黙っていた阿門が口を開いた。
「八郎さま。一度だけわれわれにチャンスを頂けないでしょうか?」
「チャンス?」
「はい。わたくしと八郎さまで勝負をしてもらいたいのです。千年原家の格闘者がやる簡単な余興です。そしてわたくしが勝ったのなら、今の話を引き受けてほしいのです」
「なぜそんなことをしなければならない。おれに何の得もない」
「八郎さまにもメリットはございますよ」
「どんな」
「それは――」
続きを凛子が引き継いだ。
もうさっきまでの弱気な顔ではない。
覚悟を決めた顔だった。
「いいえ勝負するのは私です。あなたが勝ったらこの場で一億差し上げますわ。これでいいかしら」
「お嬢さま!」
「心配しないで阿門。絶対に勝ちますから。この条件ならどう? 南八郎さん? まさか女の子相手に逃げたりはしないわよね? これでもまだリスクが怖いかしら?」
挑発に乗らないよう自制し、警戒心を再び引き上げた。あまりにも話がうまぎるからだ。だが内心喜んでいる自分もいた。
闘いに疲れ、今までと違う選択肢をとりたかったというのもある。
自分を変える何かきっかけになるかと思ったのだ。
「わかった。勝負しよう」
八郎は無表情で返事を返した。
二人の視線がぶつかった。
互いに尋常でない気配であった。
空気の流れが変わった気がした。
「ありがとう。では勝負の内容を説明いたしますわ」
凛子が毅然とした態度で言った。