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赤手空拳  作者: ういすき
30/33

第30話 対グリズリー

 その熊は日本に生息するヒグマとは違った。

 北アメリカに生息するハイイログマ、別名グリズリーという種類の熊であった。薄茶色のごわごわとした毛皮を全身にまとい、鋭い鉤づめが黒く光るっていた。体長は四メートル。体重は五○○キロはあるだろうか。

 何もかもが巨大な野生の獣であった。

 口元からはよだれが垂れ落ち、ナイフのように尖った牙がチラチラと見えた。

 どうやら絶食をしているようで、かなり気が立っていた。

 猟銃があっても敵対したいくない体躯である。

 人間では万に一つも勝ち目がなさそうであった。

 八郎は反射的に構えた。

 大型の獣と闘った経験はないが戦闘態勢をとらずにはいられなかった。

 被捕食者になった時はじめて感じるの恐怖があった。

 しかし愛聖は気軽な調子でセパードに向かって歩いていった。、



「まあ見ててよ八郎。サーカスみたいでおもしろいから」

「正気か愛聖。相手は大型のグリズリーだぞ。ジョークにしても質が悪すぎる」

「へいきへいき。んじゃ、行って来るよっと!」

「待て! 愛聖――」



 愛聖は八郎の静止も聞かず一直線に走り出した。

 セパードと名付けられたグリズリーも突撃を開始する。

 たくまし四本脚が板張りの甲板を踏みしめ、ブルドーザーめいた迫力をだしていた。

 瞳が血走りよだれが泉のようにあふれ出た。

 目の前の生き物をエサとしか認識していない形相であった。

 一頭の獣と一人の男の間合いがたちまちに縮まる。

 そして射程距離に入った瞬間、セパードが左腕を振るった。

 五本の鉤づめが鈍く黒光り、愛聖の頭部めがけて殺到した。

 どんな生き物でもミンチ肉にできる一撃である。

 だがその凶悪な爪は血の一滴すら流させることはできなかった。

 愛聖がスウェーバックで爪を回避し、逆に鼻の頭に右拳を叩き込んだからである。



「グワッッ!」



 短くうめき声を上げ、セパードがたたらを踏んだ。

 鼻が潰れてボタボトと血がしたたり落ちた。

 砲弾のごとき打撃であった。

 愛聖にそんな知識があったか定かではないが、鼻は熊の急所の一つなのだ。

 確実にダメ―ジが入っていた。

 隙ができていた。

 愛聖はチャンスにつけこみ跳び箱のように頭部に手を置いて、タンッと軽快にセパードの背後へ着地した。

 そのまま逆立ちになり両足を首に回して絞め上げた。

 呼吸器官が瞬時に圧迫され酸素の供給が停滞する。

 セパードは必死にのど元を掻こうとするが無駄だ。深い毛皮に足がめり込み届かないようになっていた。

 しかも熊は体の構造上背後に腕や牙が回らない。

 将棋でいうところの「詰み」であった。

 一本後、首の骨を砕かれセパードの意識は完全に消滅した。

 あとに残ったのは毛皮のついた肉塊だけであった。。

 この勝負愛聖の勝ちである。



「な、な、な、なんですのこれは!」



 この日のためだけに運営が建てた観客席で凛子は驚愕の悲鳴を上げた。

 巨大なスクリーンが備え付けてある小劇場のような場所である。

 中には凛子に豪聖、両陣営の関係者が集まっていた。

 千年原重工の人間はみな一様に口を開けている。

 CGでもなくリアルの人間が素手でグリズリーを倒したのだ。

 驚愕して当然であった。

 豪聖はでっぷりとした腹をさすった。

 そしてニヤニヤと笑って新品のオモチャを自慢するように、



「ぶははは! どうしました? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。あいつは真路製薬が総力を挙げ開発した格闘者ですぞ。この程度当たり前ですな」

「ど、どういうことですの……?」

「簡単なこと愛聖にはわが社の新薬の実験台になってもらったまで。肉体を極限まで引き上げる超人薬のな。並みの人間なら発狂死するが、結果的には成功。ごくつぶしが金のガチョウになったというわけだ!」

「自分の子供を実験台にしたんですの!? この外道!」

「ふん。なんとでも言え。ルール違反ではないからな」



 闘龍試合のルールに薬によるドーピングの項目はない。

 これはオリンピックのようなスポーツの試合ではなく殺し合いだからだ。

 勝つためにはあらゆる手段が正当化させる。

 それが非人道的な実験であっても。



「……だとしてもあの強さは異常ですわ。ファンタジーでもないのに」

「あいつの筋繊維や骨の強靭さは常人を遥かに凌駕する。力を生み出す白筋肉の割合が九○パーセントを越しているからな。白筋肉過多の代償としてスタミナに不安は残り、寿命は短くなったがまあ支障ないだろう。あいつの前ではどいつもこいつもサンドバッグだからな。勝利に犠牲はつきものだ」

「あなた……本当に最低のゲス野郎ですわね……」

「わしは地を這う平民、負け組とは違う。何を置いても勝つことがすべてだ。そのために努力を惜しまないのは当然だろう。いかに強靭な格闘者でも野生の獣にはかなわない。どれだけ努力し血のションベンを流しても、ライオンやグリズリーに敵うわけがない。ならば勝つことがでいる格闘者を生み出してしまえば絶対に勝利はゆるがない。この世の必定だ」

「くっ……」

「そこで見ていろ。お前が信じた南八郎が壊される様をな」



 スクリーンにはセパードの背にのってはしゃぐ愛聖の姿があった。

 屈託のない笑顔であった。



「どうどう八郎! すごいでしょ!」

「……正直言って驚いている。師匠が熊に勝ったことがあると言っていたが、実際にこの目で見るのは初めてだ。自分の中の常識が更新されたな」

「でしょー! 今からこの力をキミに試すすんだからね! あ、もしかして怖気づいちゃった?」

「まさか。おまえに勝てばおれも熊並みに強いというわけだ。自分で探す手間がはぶけて助かる」

「あはは! それでこそ八郎だよ! うんうん全力で闘えそう!」

「望むところだ」



 愛聖はセパードを流腕掴むと、抱え上げて海に投げ捨てた。

 勝負に邪魔なゴミを片付けたというように。

 さりげなくやってのけたが、凄まじい腕力であった。

 八郎は牙や爪を武器にできないかと思案していたので、内心がっかりしていた。

 もちろん表情には出さなかったが。

 そうしてついに試合開始のアナウンスが鳴った。

 ようやくである。

 マストのてっぺんにあるスピーカーからハディソンが選手紹介をした。



『大変長らくお待たせしました! これより最終試合を開始させていただきます! それでは千年原重工の格闘者から紹介しましょう!! 四連敗の崖っぷちから立て直し、百億にリーチをかける! 剛も柔も併せ持つ最強の大将! 地下闘技場のチャンピオンはやはりここでも強かった! 南八郎です! 年齢は三一歳。闘龍試合戦績は二戦、二勝、○敗! さらに場外でオリオ・マッサークロとその部下も打ち倒しています! 身長一九六センチ。体重一一○キロ。戦闘スタイルは空手、柔道、そして〈古武術荒田流〉! 今の光景を見てもいささかの動揺もありません! その瞳は己の勝利を信じています!』



 観客席で凛子は祈った。

 細い両手を顔の前で組み、食い入るようにスクリーンを見つめていた。



(八郎……)



 もはやどうにかなることではないが、祈らずにはいられなかったのだ。

 続いて愛聖の紹介があった。



『次に真路製薬のの格闘者を紹介しましょう! 最終兵器と呼ばれながら、これまでベールの隠されていたその実力! セパードとの闘いでみなさまにもご理解いただけたと思います! 魅惑的なマスクから繰り出される圧倒的暴力! それが真路愛聖です! 年齢は二二歳。闘龍試合戦績は○戦、○勝、○敗! 身長一八八センチ。そして体重は驚愕の二○○キロ! この細身にどれほどの筋量が格納されているのでしょうか! さらに戦闘スタイルはまさかの〈喧嘩〉! 小手先の技術など不要! 獅子は獅子だから強い! 現代医学に対する自信が全身にみなぎっています 』



 澄んだ音色でゴングが打ち鳴らされ、試合がスタートした。



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