第3話 対千年原凛子
――時刻は午後九時。
南八郎は貯水池の外周をランニングしていた。
他に人影はなく月の光が静かな水面を照らしている。
貯水池は一週六キロのなだらかなコースで、今は四週目にさしかかったところだ。
街の喧騒から離れ、きんと冷えた夜風に当たっていると、心が澄んでいくような気がした。
ここは池に沿う形で立ち並ぶ木々が目に優く治安も悪くない。家の近所のようにバタフライナイフで武装した若者に遭遇することもない。
もし出くわしても拳で、お引き取り願うが。
服装はグレーのスウェットに虹色のスニーカーだ。二つとも古着屋で安く買いたたいたので、ところどころ穴が開いていたり、シミが残っていたりしている。
しかし自分の身長に合う服や靴にはなかなかお目にかかれないので、八郎はこの組み合わせを三年前から愛用していた。
人よりも背丈が高と何かにつけて不自由なことが多い。
一八○センチくらいまでなら、うらやましいと思われるかもしれないだろうが、それ以上は明らかに余分で、服を選ぶにも映画を観るにも苦労する。
役に立つのはスーパーマーケットで買い物をする時や、試合でリーチの長さを利用した殴り合いをする時くらいで、大は小を兼ねないというのが八郎の持論だ。
ほとんどペースを落とさずに五週目を迎え六週目に入る。
走っている間は人生のことなど余計なことを考える必要がなく、鍛錬のついでに充実感も得られるため、ランニングは八郎の趣味の一つであった。
今の日本で未来を先のことに脳細胞を使うような人間は、早々に自殺を決め込むだろう。
八郎も幼少の頃から貧民街で暮らし、この国に先がないと思い知っていた。
それは金を稼ぐために格闘者になった今でも変わらない。
利己的に生きなければ己が殺されるからである。
正平二十四年。長引く不況の影響で日本は疲弊し、都市部に住む富裕層とそれ以外に住む貧困層による格差は、すさまじいまでに広がっていた。
八郎の住む灰楼街も貧困にあえぐ街の一つだ。
サラリーマンの平均月収が九万円程度で、そのくせ物価だけは嫌になるくらい高い。
格闘者の八郎は一試合につき二十万円、台本どおりにやればプラス三万ファイトマネーを上乗せされて受け取ることができる。
一般的な市民にくらべればかなりの高給取りだが、障害や死のリスクを背負っていることは鑑みれば、信じられないくらい薄給だ。
街には非合法な薬物が蔓延し、強盗の件数は年々増加している。
希望という言葉の意味を誰も知らない。
善人は淘汰される。
それがこの世界の現実であった。
と、背後に人の気配を感じた。振り返らずに瞳だけを動かし水面を視たが、影は映っていない。
姿は見えないが相手は付かず離れず一定の距離を保っているようだった。
少しだけペースを上げる。
足音は聞こえないがそこにいると感じる。もしかすれば木々の間を、移動しているのかもしれない。
仕事がら恨みを買うことも多く、このような状況は日常茶飯事であった。
先日闘ったデニスの身内ということも考えられる。
ただ違和感を覚えるのは、なぜ今のうちに仕掛けてこないのかということだ。
どう考えても人気のないこの場所がベストのはずである。
目的がつかめない。
(……場所を移るか)
八郎はコースを変更し街の方向へ走り出した。
相手の出方をうかがうためだ。
繁華街を抜け駅前を通り過ぎても気配は消えない。
ついに自宅の近くまで帰ってきてしまった。
時計の針は十時を回って、闇はさらに濃くなっていた。
八郎は歩道の脇を走っていたが不意に足を止め、右手側にあるコンクリート塀にもたれかかった。塀の向こう側にはさびれた集合住宅が巨人の亡骸めいて立ち並んでいる。明かりは街灯が一本あるだけだ。
人の往来はいまのところ見当たらない。
八郎は額の汗を拭うと正面の暗闇に目をやり、
「出てこい。そこにいるんだろう」
声に答えるように闇がぐにゃりと歪み、男が姿を現した。
全身を頭からつま先まで黒のタイツですっぽりと覆い隠し、その顔はまるでマネキンのようだ。
そして腹のあたりから声を出した。
「さすがで御座います八郎さま。わたくしの忍術を見破るとは」
「さまづけで呼ばれる筋合いはない。何は目的だ」
ゴキゴキと指の骨を鳴らし威嚇する。
深く長く息を吸って吐き、頭の中のスイッチを闘う状態に切り替える。
眼光が鋭く光り地下闘技場で試合する時と同じテンション、人を殴り殺せるモードになっていた。
たいていの人間は恨みも憎しみもない相手に暴力を振るえない。
戦場にいる兵士でさえ人を殺すことを恐れ、敵を目前にして撃たない者もいる。
良心という名のセーフティを外す必要な行為であった。
だが黒タイツの男は何も言わずに一歩だけ前にすすんだ。敵意はないようであった。
直後、右手奥からリムジンが姿を現しスピードを上げて向かってきた。そして男の真後ろにブレーキをかけ止まった。
男がドアを開くと中から少女が降り立った。
「ありがとう。阿門」
阿門と呼ばれた男はうやうやしく頭を下げる。
まるで黒炭が、お辞儀をしているように見えた。
そして少女の外見は見るからにお嬢様といった感じであった。
金髪を縦ロールに整え、左右に振り分けている。顔つきはモデルのように目鼻立ちがはっきりしており目が青い。日本人の特徴もありハーフかクウォーターだと思われた。服装は赤のブレザーにベージュ系チェックのスカートだ。上等な生地を使い、金持ちが通う学校の制服のようであった。年齢は一六か一七歳くらいだろうか。胸や尻は豊かだが、どこか幼さが残っている。
少女は八郎の前に進み、
「はじめまして南八郎さん。私は千年原凛子といいます。阿門の行動はこちらの指示ですの。非礼をお詫びしますわ」
「出会い頭に勝手なことを。しつけがなってないぞ」
「返す言葉もありませんわ」
「いや待て、千年原……お前あの千年原重工の人間か?」
「はい。あの千年原重工社長、千年原祭の娘ですわ」
そう言って名刺を差し出した。
見てみるとオーナーがファイルに保存している、金持ち共の名刺と非情によく似ていた。
いやそれよりも高級感があるように思える。
千年原重工とは富裕層の中でも上位に食い込む大企業だ。
造船業が生業で八つの工場を拠点に活動し、豪華客船、LNG船、LPG船などの高付加価値船を造っている。
その他にも様々な分野に手を出し、八郎もコマーシャルでその名を聞いたことがあった。
この時代には珍しいホワイトな企業である。
そして目の前の少女は社長の娘だと言った。
かなりのお嬢様である。
本当なら地下闘技場の客が束になっても敵わない権限を持っているだろう。
格闘者程度では口をきくこともできない立場の人物だ。
余りに生物としてのレベルが違い八郎は押し黙った。
事態がよく飲み込めていなかった。
「……で、そのお嬢さまがおれに何の用だ。お茶会をするわけでもないだろう」
「ええ違いますわ。今日は様子見だけのつもりだったのですが、バレてしまっては仕方ありませんわね。あなたに依頼がありますの。もちろん格闘者としての仕事ですわ」
「おれに? たちの悪いジョークか?」
「冗談ではありませんわ。ここでは人目に付きますし場所を変え話しましょう。行先はあなたの要望に従いますわよ」
「おれの家でいいだろう。すぐそこだついて来い」
「わかりました」
みくびられないように、なるだけ普段と変わらない態度をとった。
コンクリート塀の裏側にある自宅へ、集合住宅に向け歩き出す。
八郎が塀に沿って進み。その二メートルほど後ろに凛子と阿門が追って歩を進めた。
突き当りまで行ったところで右に曲がると、今度は金網で仕切りが造られており、一か所だけ金網がない部分にスチール製の短い階段が取り付けられていた。上れば自宅はすぐそこであった。
階段を上りきったところで後ろを振り返ると、道の途中で凛子が転びそうになった。
小石も何もないところでだ。
「きゃ!」
「大丈夫ですかお嬢様!」
慌てて阿門が身体を支える。
どうやら運動神経が悪いようであった。
八郎がぼんやりと眺めていると、凛子と目が合った。
「な、なんですの! し、心配いりませんわ。ちょっと歩きにくいだけです!」
「そうか」
「……いまどんくさいと思いましたわね」
「いや別に」
「いーえ! そんな目をしてましたわ!」
「だからしていない」
「してましたわ!」
お嬢さまは中々面倒くさそうな性格のようだった。
八郎の家は集合住宅一階の真ん中だった。
古い木製のドアを開け中に入る。
部屋の中はそれなりに広く、入ってすぐにトレーニングスペースがあり、丁寧に並べられた手製のバーベルやレッグプレスが見えた。
凛子が物珍しそうに見ている。
フローリングの床の上にはマットを敷かれ、怪我をしにくいようになっている。アルミフレームのパーテーションで仕切りが築かれ、その隣がリビングだ。
家具はテレビ、テーブル、ソファー、本棚といういたって普通であったが、本棚に収納されているDVDや壁に張られているポスターを見て凛子は戸惑った。
なぜならそのどれも内容が、アニメやゲーム関係だったからだ。
しかもオタク向け、美少女が何人もでるタイプである。
魔法少女、学園バトル、アイドル、部活、日常系、とラインナップも豊富だった。
どれもジャンルごとにきちんと整理されてしまわれている。
「えっとこれは……」
「どうした」
八郎がスウェットを脱ぎTシャツ姿になる。そこにも美少女キャラクターのイラストが書かれていた。戦闘機と青髪の少女が並んで飛んでいる。
そして誰も訊ねていないのに、イベントで買った限定品だと言った。
凛子は単刀直入に聞いた。
「こういうのが趣味ですの? 女の子ばかりなのですけど……ファイトスタイルからもっと硬派な方かと思ったのですが…………その、イメージ変わりますわね……」
「悪いか?」
「正直キ」
そこで口を閉じた。
八郎から、ただならぬ気配を感じたからだ。
殺気とは違う危険なオーラだった。
凛子は手のひらを顔の前でパタパタと振り、
「い、いえ、とても素晴らしいと思いますわ」
「そうだろう」
八郎は自信たっぷりに言った。
アニメは八郎がファイトマネーをやりくりして買った宝物であった。
殺伐とした現実を忘れるための。