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赤手空拳  作者: ういすき
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第2話 対ボクシング

 地下闘技場は地上とまったく異なる空間だ。

 観客席からは甘いような苦いような汗と香水が混じり合った、なんとも言えない匂いが漂っていた。

 ここは非合法の場であり、表社会のルールや道徳は一切通用しない。

 警察もこの場所については知らないということになっている。

 そして試合だが制限時間はなく、リング内にレフリーもいない。

 観客はストリートファイトにきわめて近い、実戦形式の試合を楽しめるようになっている。

 勝利するためには相手のセコンドにタオルを投入させるか、ダウンから二十カウント経過させる必要があった。

 ナイフや拳銃のような武器の使用は禁止され、帯で絞めるなど衣服での直接攻撃は反則だが、それ以外ならどのような行為も許されている。

 リングの金網をよじ登ってもいいし、できるなら床を覆うキャンバスをひっぺがしてもいい。

 目突き、金的、噛みつきが使用可能で、対戦相手のどちらかが重大な障害を背負うことも珍しくない。

 なおかつリングの中であれば、人を殺しても罪には問われない。

 格闘者はさながらグラディエーターのように、命を賭けて戦う必要があった。

 


 挑戦者デニスはゴングが鳴る前に、ボクシンググローブとシューズを場外に投げ捨てた。

 拳を保護せず全力で闘うというパフォーマンスだ。

 観客が興奮し声援が巻き起こった。

 八郎は気にせず手や足首の関節を回し、体の調子を再確認していた。

 両者ともに準備万端といった様子だ。

 試合が始まるまでのわずかな時間、ちらりと二人の目が合った。

 デニスは口を開きなめらかな日本語で言った。



「くっくっくチャンピオン。今日があんたの命日だ。逃げるなら今のうちだぜ」

「……」

「無視かよ。ノリが悪りぃな。まあいいさどっちが上か下か、すぐにわかるらよ。ちなみに過去オレとヤッた奴はみんなダウンする前にゲロぶちまけちまうんだ。パンチが強烈すぎてな。恥をかきたくなけりゃあのネズミみたいなセコンドに、ビニール袋を用意させるこったな!」



 それから「HAHAHA」と大声で笑った。

 セコンドや観客もたき付けようと野次を飛ばしている。

 相当な自信があるようだ。

 八郎はつまらなさそうに、



「怖いのか」

「あ? どういう意味だ?」

「強い言葉で己を奮い立たせていることはよくわかった。心配するなおれはチャンピオンの中ではややマシな部類だ。お前が負けても命までは取らない。無理だと思ったら立ち上がるな」

「なめてんなオッサン。ならオレはてめえの頭をザクロみてえに割ってやるぜ。来世はハゲ頭に生まれないよう祈っとくんだな」

「……残念だ」



 八郎がぽつりと言うと同時に、甲高い音を上げゴングが打ち鳴らされた。

 ついに試合が開始だ。

 デニスは左足を一歩前に出しわきをしめ、左手の拳を目より少し高い位置に上げるボクサーの基本的なフォームになった。

 八郎も同じような構えをとる。

 上着を着ていない相手に柔道の技術は使いづらく、相手の土俵で打ち合う心づもりであった。

 小刻みにステップを踏みながら、二人はリングを時計回りに移動する。

 先に仕掛けたのはデニスであった。

 ワン・ツー、左ジャブから右ストレートの連携で攻める。グローブを着けていないため、速度、威力ともに凄まじいものがある。

 まるカノン砲が発射されたような迫力だ。

 ぱんっと肉と肉が打ち合わされる音があった。

 八郎は両腕を盾に打ち返さず、じっと防御に徹していた。

 腕の肉がじんわりと赤みをおびていた。

 さらにワン・ツー・スリー、右ストレート・左ストレート・右フックのコンビネーションが放たれた。

 また防御する。

 デニスは巨体に似合わず、蝶のような軽快なフットワークを見せていた。

 二三勝を築いた実力に嘘はないようだった。

 八郎はコーナーに追い込まれないように、上手くポジションを移動しながら闘う。

 手の内をうかがっているようであった。



 一分が経過し試合はデニスが優位に進めていた。

 八郎の動きは消極的でときおりジャブを打つくらいだ。

 ラウンド制ではないため、逃げ回っても事態は好転しない。

 攻められる時に攻めるのが鉄則だ。

 八郎の闘い方は負けようとしているようにしか見えなかった。

 あるいはデニスの実力が事前様相以上に高く反撃できないかだ。



「ハチロウ攻めろバカ! 攻めて攻めるんだよ! 何やってんだよ! バカ!」



 リング外にいるゲジから怒号がとぶ。

 かなり熱くなっているようだ。

 デニスは口の端をゆがめ挑発する。

 かなりの余裕が見て取れた。



「おいおいビビッてんのか! チャンピオンさまよお!」

 


 分厚い右拳を振り、空手チョップのようなチョップブローを八郎の肩に当て、腰より下を左拳でローブローで攻撃した。

 どちらも公式の試合では禁止されている技だ。

 明確な殺意があった。

 勝つためには手段を選ばないスタンスだ。

 それでも八郎は反撃しない。

 岩のようにじっと耐えている。

 忍耐があった。

 観客の中には早々とあきらめたのか、券を破り捨てる者もいる。

 チャンピオンの不甲斐なさに落胆しているようであった。

 たまらず実況が叫ぶ。



『どうしたどうしたチャンピオン! 動きにキレがないぞー! この体重差はさすがにキツいかー!』

 


 二分が経過し、デニスの攻勢は強まる一方であった。

 八郎はサンドバッグめいて打たれているだけである。

 しかしまだ一度もダウンはとれていなかった。

 時間の大半を攻めに使っているのにだ。

 そのことはデニスの神経を大いに逆なでした。こめかみに青筋が浮く。ギリリと歯がすり合わされた。

 しびれを切らしたのか、デニスは拳の握りを変え、奥の手を使うことにした。

 この時のために用意していたとっておきだ。

 口角が上り悪魔的な笑みがあった。

 そして黒い銃弾のような右ジャブが顔面を狙い打ち出された。

 八郎は上体だけを動かし拳をかわす。完全に回避できるタイミングだった。

 だが実際には避けきれず、ほおに赤い線が奔った。

 ナイフで切られたような跡だった。やや遅れて血がにじみ出る。

 傷は浅かったが得体の知れなさから、バックステップで今までより三歩長めに距離をとった。

 デニスは右拳についた血を舌で舐め、洗浄していた。

 よく見ると拳の人差し指と中指の間から、親指の爪が露出していた。

 丹念に砥がれナイフと化した爪だ。

 試合直前にグローブを投げ捨てたのはことためであった。

 もちろんこれは反則ではない。

 問われてもたまたま爪を切っていなかったと主張するだろう。

 むしろ気付くのが遅くれた八郎に落ち度がある。



「だから言っただろ? 逃げるなら今のうちだってなあ!」



 もう一度デニスは大声で笑った。

 観客から歓声と怒号が混じり合って聞こえた。

 ゲジは両手で顔を覆っていた。すでに諦めているようである。

 だがデニスは自分中心の試合運びに少し浮かれ過ぎていた。

 対戦相手の消極さを疑問に思い、もう少し頭を巡らせておくべきだった。

 彼には知る由もないことだが、試合前に八郎とオーナーは密約をかわしていた。

 内容は試合を盛り上げるために、三分間ディフェンス中心に闘うというものである。

 早々に決着がついては興業として盛り上がりに欠けるからだ。

 当然相手は殺す気でかかってくるが、それを凌ぐことができれば、ファイトマネーを上乗せするという約束だった。

 八郎は了承した。

 すべては金のためである。



 ついに三分が経過した。

 八郎の双眸がぎらりと光った。

 構えが半身になり腕を上下に開くかたちに変わっている。

 デニスはその変化を無視して、再び爪を立て右ジャブを打った。

 今度は目を狙っていた。

 八郎は首を軽くずらしてかわす。

 回避のタイミングはすでに掴んでいた。

 ジャブを引き戻す瞬間、唐突に悲鳴が上がった。

 デニスの悲鳴だ。

「ぎ」と「あ」の音が数珠つなぎになって、大く開いた口からまき散らされた。

 涙目で親指を見ると爪が捻じ曲げられ剥がされているのがわかった。

 血が噴き出し奥にピンク色の肉が顔をのぞかせている。

 八郎は眉をしかめ剥ぎ取ったばかりの爪をキャンバスに捨てた。

 古武術の特別な技を使ったわけではない。

 ただ爪をつまんで引き抜いただけであった。

 ハエを刺すよりは簡単であった。

 歓声がやみ観客席がしんと、静寂に包まれた。

 八郎は手を押さえるデニスに冷たい視線を投げかけ、



「だから残念だと言ったんだ」



 そして瞬きの内に距離を詰め、左腕を柳めいて流麗に振るった。

 ここからが本当の試合である。

 拳を半開きにした状態、バラ手で裏拳。デニスの目に中指の第二関節を押し入れる。

 右足で足刀。小指を踏みつけ潰す。

 


「――」



 声にならない声があった。

 デニスの顔面は激痛でぐしゃぐしゃになっていた。

 上下に意識を振られガードが下がりきっていた。。

 追撃する。

 右拳、上げ突き。下から上にアゴを突きあげる。

 左拳、鉤突き。横から弧を描くように、こめかみを打ち抜く。

 右拳、中高一本拳突き。拳を回転させ一直線にみぞおちを穿つ。

 続けてデニスの左手首を両手でにぎり、流れるように左腕を右わきで抱えつつ体を崩して、身体を横から真後に移動させ、体重をかけながら肩を上方に伸ばして関節を極める。

 この時小指を上向きにする。

腕挫腋固うでひしぎわきがため〉。そのまま膝関節を曲げ腕を折った。

 ぶつんと靭帯の切れる嫌な音があった。

 さらに腕をほどいて背中から肩をつかみ、逆立ちの姿勢から両膝をデニスの背中に叩き込む。

 カエルめいた悲鳴があった。

 デニスはキャンバスにつっぷし、盛大に胃の中の物を吐き出した。

 白目をむいて痙攣している。

 遅れてセコンドからタオルが投げ込まれた。

 ゴングが鳴った。



『し、試合終了~! で、電光石火の早業でした! チャンピオン南八郎、序盤こそ苦戦しましたが圧倒的な実力差を見せつけ勝利~!!』



 ゲジは突っ立ったまま呆然していた。

 あっという間に勝負が終わったため、状況が飲み込めていないようである。

 観客席から今日一番の歓声が上がった。

 男も女も顔をぐしゃぐしゃにして、声を張り上げている。

 八郎扉をくぐり、光と喧騒の中を歩いて行った。




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