第19話 対過去
富裕層が住む住宅街があった。
小高い丘の上に螺旋階段めいて、段階的に豪邸が建てられいる。
そしてそのどれもが貴族のように、きらびやかで気品のある佇まいであった。
まるで海外ドラマに登場する名家のようである。
西洋の建築方式を用いているため、日本ではあまり見ないタイプのものばかりであった。
豪邸の正面にはさま当たり前というように、エメラルドグリーンの芝生があり、そのすぐ近くには大きなプールも完備されていた
庭師が毎日のように整備しているため、どれだけ時が過ぎても変わることのない艶やかさを保っていた。
さらに貧民街と違って治安が良くインフラストラクチャー、つまり周辺には公共施設もきちんと整備されてある。
水や安全に不自由しない夢のような世界であった。
あらゆる日本国民の憧れと、羨望のがこの場所に詰まっていた。
千年原凛子はそこで生まれた。
優しく暖かい両親に恵まれ何の不自由もない人生を約束されていた。
それは初めて産声を上げた時から決まっていた。
凛子はすくすくと成長し、子供のころから様々な習い事をやらされた。
しかしそれは決して嫌なことではなく、むしろ何かできるようになるたびに喜んでくれる両親の姿を見て、凛子は子供心にもっと頑張ろうと思った。
マナーを良く学び小学校に入る時には、いっぱしのレディとして社交界に出られるようにもなっていた。
父親の友人はたわむれにダンスを踊り、その卓越した技巧に驚かされていた。
まさに神童だと誰もが言った。
それから凛子の人生はまさに順風満帆であった。
中学では勉強や運動で好成績を納め、友人も多く生徒会長を務めたこともある。
エスカレーター式に進学し高校へ入学。
そこでももてはやされ面白おかしく学園生活を送っていた。
そんなある日。凛子はコンサートに向かう途中で、貧民街を通ることになった。。
高速道路が事故で渋滞していたのだ。
年齢は十六歳になったばかりであった。
サファリパークにでも入場したように、目を輝かせ薄汚れた街並みを眺めていた。
貧民街に来るのはこれが初めてのことであった。
よほどのことがない限り富裕層の人間がここを訪れることはない。
誰だってドブネズミと同じ空気を吸いたくはないだろう。
ただ凛子に関してはそういう偏見よりも、自身の好奇心が勝っているようであった。
ドキュメンタリーの世界でしか知らない景色がそこにあった。
整地されていなガタガタな道を、見るからに場違いなリムジンが進んでいく。
水たまりを踏んでいくたびに車体が揺れ、泥で点々とした汚れを作った。
投棄されている残飯や屑鉄から立ち上る悪臭がひどいため、窓は閉め切られ空調がフル稼働していた。
運転席に座る阿門はタイツの奥で不安げな表情を見せていた。
目線が一定していない。
ここでは強盗にいつ襲われてもまったく不思議ではないからだ。
車体も窓も防弾仕様であったが、やはり不安はぬぐい切れないようだ。
しばらく走るとボロ布を着た兄妹が前方に見えた。
まだ幼く段ボールに汚い字で『お金がなくもう何日もご飯を食べていません』ということが書いてある。
ほほがやせこけ嘘を言っているようには見えなかった。
凛子は後部座席から身をのりだすと阿門に、
「止めなさい。用事ができました」
「お嬢さまもしやあの子供に施しをするつもりではないでしょうね」
「その通りですわ。いけません?」
「ダメです。危険が大きすぎます。もし何かあったらお父さまに申し訳が立たちません。どうかご自重下さい」
「ちょっとお金を渡すだけですわ。すぐに済みます。それともあなたは今にも餓死しそうな子供を見捨てろと言うのですか?」
「……一分だけです。それと金額は千円までにして下さい」
「少な過ぎません? 一食分にもなりませんわよ」
「それだけあればここなら二十日は暮らしていけます。心配ありません」
「わかりましたわ。それなら早く車を止めなさい」
「はい」
阿門が脇道に停車させると、凛子はすぐにリムジンを降り兄妹に千円札を渡した。
「これでもう大丈夫ですわよ。栄養があるものを食べなさい」」
「……ありがとうお姉ちゃん」
「……ありがとう」
ぎこちない調子で兄が喋り続けて妹が言った。
あまり嬉しそうではないのが気にかかったが、時間もないのですぐに車内へ戻った。
「こんなことはこれっきりにして下さいねお嬢さま」
「はいはい。知ってますわ」
この後無事コンサートには間に合い、上質な演奏を堪能してから凛子は家に帰った。
そして翌日貧民街であったことを父に話した。
きっとほめてくれると思ったのだ。
人にはやさしくするようにと、昔から教えられてきたのだから。
だが凛子の予想に反し父は烈火のごとく怒った。
これほどまでに激高した姿は今まで見たことがなかった。
軽率な行動をしたと責め、最期に「お前は何もわかっていない」と言って書斎に戻った。。
凛子のショックで泣きじゃくりながら、阿門の送られて登校した。
その日一日最悪な気分で過ごし、ずっと机の模様ばかり見ていた。
後日凛子は阿門に付き添われて夜の貧民街にいた。
街灯がほとんど存在しないため暗く、光源が月や星の光しかない。
朝早く仕事に向かうものが多いため人通りは閑散としていた。
小動物が残飯をあさる音だけがかすかに聞こえた。
父がお金を渡した兄妹の家を探させ、実際に何が起きているか見て来いと言ったのだ。
それで家へ向け凛子は暗い夜道を歩いていた。
隣にいる阿門が体を気にかけてくる。
平気だと返した。
もちろん見えないところには忍者のように他の護衛も隠れている。
心配性な母が手を打っているのだ。
しばらく歩いて凛子は兄弟の住む家へ到着した。
今にも崩れ落ちそうな集合住宅の一階であった。
窓からうっすらと光がでていた。
気付かれないように忍び足で近づき中を覗く。
そこには父親に金を巻き上げられている兄妹の姿があった。
父親は酒を飲んでいるのか赤ら顔で語気が荒い。
右手に割れた酒瓶を握りしていて、話し合いはとてもできそうにない。
兄妹はうつむいて小銭を手渡していた。
今日の稼ぎであるようだった。
凛子は衝動に任せて窓を叩こうとし、阿門に止められた。
これが怒鳴った理由であった。
貧民街で子供に金を渡してもすべて悪い親に奪われてしまうのだ。
凛子の行為はその場しのぎの偽善にすらなっていなかった。
声を殺して泣きとぼとぼとリムジンに乗った。
豪奢な車内がとても見にくいもののように思えた。
それから凛子は積極的にボランティア活動を行い、学校で募金も募るようになっていった。
いい子ぶって点数稼ぎをしていると陰口を叩かれたが、そんなことは気にならなかった。
すべてはあの兄妹のような子供を助けるためである。
目標に向かって少しづつでも努力していたかった。
だが現実は厳しくそれだけでは今ある現状を変えることは出来なかった。
そこで凛子は次に貧民街全体を良くすることを考え始めた
街に投資し仕事を与え環境を良くしようと考えたのだ。
人の需要が高まれば雇用が生まれいろんなことが改善されると。
だがそれには莫大な資金が必要であった。
当然そんなことに千年原重工の資金を使おうとする役員はいない。
誰の同意も得られなかった。
そして闘龍試合に目を付けたのだ。
企業間のギャンブルで勝てば大金を手にすることができる。
父を説得し最後は自分の体を賭けの対象にしてまで叶えたい望みがあった。
そのためならどんなことでもする覚悟があった。
たとえ馬鹿にされても四連敗しても。
絶対に貧民街を救うと。




