第12話 対イザリ
十六年前、街の一角。
太陽は何が憎らしいのか、殺人的な光を放射していた。
じりじりとした熱が建物や人に溜まっていく。
乾燥した地面に一陣の風が吹き、砂埃が巻き起こった。
タンブル・ウィード、西部劇で背景に映っている枯草が、勢いよく転がり種子をばら撒いていた。
あたりにはトタンを組み合わせて造られた粗末な家屋が、ひしめきあって立ち並びそのどれも黄土色に汚れていた。
二十年前の日本からは考えられない、世紀末のような光景だ。
日本各地にある貧民街の一つ〈灰楼街〉の様相であった。
そして看板に今井食堂と書かれた家屋の前で、四、五人のゴロツキが倒れていた。
だれもが苦しそうにうめき、顔に青あざがあることから喧嘩に負けたものと思われた。
みんな若く少年と呼べる年頃だ。
極彩色のアウターをはおり、不格好なサングラスをかけている。
無理して背伸びをしているように見えた。
その中心には少年が立っていた。
年はゴロツキ共と変わらないが、背丈が一八五センチはゆうにある長身の少年だ。。
喧嘩の影響か拳に血がついていた。
頭は自分で切ったような、出来の悪いスポーツ刈りになっていた。
服装はランニングシャツにジャージの下だけという、随分と貧相な身なりをしていた。
少年は財布から金を抜き取ると、くしゃくしゃにしてポケットへねじ込んだ。
まだ元気が残っていたゴロツキが仲間を助け起こし、どうにかこうにか去っていった。
喧嘩が終わったことを確認したのか、食堂の奥から老人が顔を出して言った。
店主のようでこういった争いは日常茶飯事なのか平然としている。
「なんじゃもう終わったのか」
「ああ」
少年、南八郎が答えた。
迷惑をかけたと思っているのか、足早にその場を立ち去ろうとする。
それを老人が呼び止めた。
白髪を短く刈り上げた老人であった。
安物の丸メガネをかけ、リサイクルショップで買ったTシャツと短パンを履いていた。
肌は日に焼けて赤黒くなっていた。
どうやら怒っている様子だ。
「まてまてまて、どこに行こうとする」
「あんたには関係ない」
「あほう関係あるわ。おまえさんがさんざん暴れてくれたせいで、飾っておった壺が壊れてしもうたではないか!」
「壺?」
八郎は戻って食堂の中を覗いてみた。
今井食堂には扉はなく日光や埃の侵入を防ぐため、ヨシの茎で編んだすだれ〈よしず〉が立てかけてあった。
中はまるで海の家のようで、木製のテーブルとイスがむき出しの土の上に置かれている。
この街ではどこにでもある内装であった。
そして入り口の右手に陶器でできた大きな壺が置かれていた。
「ほれここじゃ。こいつは三百万もしたんじゃぞ。はよう弁償せい!」
「……」
目をこらすと確かにヒビがはいっているようにも見える。
喧嘩の最中に誤って傷つけてしまったのだろう。
これは八郎の落ち度だ。
しかし値段に関しては疑わしい話だ。
この壺は適当に泥を固めたような外観で、どう見積もっても三百円もいかなさそうである。
そもそも千円以上の大金を持ち歩く者がいない灰楼街で、三百万などという話が疑わしい。
「不運だったな」
八郎は店を出ていこうとした。
これ以上茶番につき合っていられない。
こえが老人でなければ拳で黙らせているところだ。
「こら逃げようとするな! わかったならこれはどうじゃ。勘弁してやるから一か月ここに住んで働いてみろ。どうせその身なりじゃ行く当てもないんじゃろ? 給料は出さんが三食と寝床くらいは保証するぞ」
「……一か月だけだぞ」
傷をつけた負い目もあってかしぶしぶ八郎は承諾した。
段ボールハウス暮らしで食料の供給があるところを、選んだというのが本音ではあるが。
「わしはイザリじゃ。おまえは?」
「南八郎だ」
「いいなまえじゃな。親につけてもらったのか」
「自分で考えた。親は孤児院におれを捨てただけの生き物だ。顔も知らない」
「ほほ。わしと同じじゃな。わしも親の顔など見たこともない」
「ふん」
こうして南八郎はイザリという老人の元で働くこととなった。
荷物をまとめてくるようにと言われたが、八郎には持ち物がまったくといっていいほどなかったので、その日から仕事を始めた。
食器洗いなどをを無難にこなし、あっという間に初日は終わった。
食堂の二階にはイザリが寝泊まりする部屋がいくつかあり、その一つを自室とした。
四畳半のこじんまりとした部屋である。
そこにせんべい布団を敷いて寝た。
畳の上で眠ったのは久しぶりであった。
翌日。
八郎は朝五時に起きて料理の下ごしらえをしていた。
調理場に立ち包丁を握っている。
前の夜にキャベツやニンジンなどの野菜を切っておくように、言われていたのだ。
これまで野草を調理してきたので、刃物の扱いは上手であった。
手際よく切っているとイザリが顔を出して来た。
時刻は七時になっている。
あとは自分がやると言うので、八郎は表の掃除にまわった。
九時に店が開いた。
夜勤明けの労働者が来るのだとイザリは言った。
しかし待てども待てどもまったく客が入る気配がない。
そうこの今井食堂は食堂はまったく流行っていないのであった。
結局この日は二人来店があっただけで、十七時には店を閉めた。
翌日、翌々日も客はほとんど来ない。
八郎は毎朝同じ時間に起床したが、イザリが起床する時間はまちまちだということがわかった。
酒をかっくらって昼過ぎまで起きてこないこともある。
一週間がたちあまりに退屈なので、八郎はイザリに問い詰めた。
「じいさん。やることがないんだが」
「ならボーッとしとれ。気に病んでも客はこぬ」
「あんたは少し気にしたほうがいい。今までよく潰れなかったな」
「先代の今井のばあさんは料理上手だったんじゃがのう。わしに代わってからはさっぱいりじゃ」
「たしかにあんたの料理はマズイしな。おれの方がまだマシだ」
「ふんっ。わしの料理は庶民の口にはあわんのよ。それより暇なら本でも読めい」
「本? おれはひらがなくらいしか読めんぞ」
「じゃあわしが教えてやる。ほれこれじゃ」
そう言ってイザリが差し出したのは空手の教本であった。
かなり年季の入った本で、茶色に変色していた。
「おぬしは喧嘩ばかりしとるからな。勉強も大事じゃ」
「空手だって喧嘩だろ」
「まったく違う。空手でもなんでも武術は心身を健やかに保ち、他人を守るためのものじゃ。おぬしは自分のためにしか闘ったことがなかろう?」
「……よくわからんが一応読んどくか」
それから八郎は空いた時間に練習を始めた。
イザリも心得があるのか、いくつかの技を実演して見せた。
空手の技はこれまで体格に頼って喧嘩してきた八郎に大きな衝撃を与えた。
技に組み合わせがあることを知り攻撃から身を守る術を知り、、今まで自分がいかに適当な闘い方をしてきたのかよくわかった。
古い空手着をイザリからもらい練習に励んだ。
汗を流し手のひらに血豆を作るたびに、たびに自分が強くなっていく気がした。
ある晩サンドバッグ相手に蹴りの練習をしているとイザリが声をかけた。
「どうじゃ空手は面白いか?」
「ああ悪くない。実戦で使ったことがないのが残念だけどな」
「無理に喧嘩をすることもない。試合がしたいのならわしが探してやろう」
「あんなものはお遊びだ。路上で襲いかかってくる奴はルールなんか守らない」
「……まあいいわい。そのうちおぬしにもわかるじゃろう」
「わかる?」
「ああ。大事なことがな」
言い終えると店の中に戻っていた。
八郎は汗をぬぐいながら夜空を見つめていた。
星が良く見えるいい空であった。




