第10話 対システマⅠ
立体駐車場の一階、そこに南八郎はいた。
甲平は最上階で試合が始まるまで待機していた。
軽く柔軟体操をして八郎は周囲に目をやった。
コツコツとスニーカーが足元のコンクリートを叩く。
一階は日中でも影になっている部分が多く、湿り気を帯びた空気が漂っている。
まわりには軽自動車がまばらに止められていた。
これからどの武器を探し選択するのかが、勝敗を大きく左右するのだろう。
顔を上げると天井に大量の監視カメラやスピーカ―が設置されていることわかった。
今現在ここは格闘者以外の立ち入りが禁止されているため、試合の映像は監視カメラによって凛子たちがいる屋上へ届けることになっていた。
カメラの映像はこの試合を自宅で観戦している他の会員、VIPたちにも配信されている。地下闘技場のように賭けもおこなわれ、これが運営の資金源であった。
五分が経過し、ようやく準備が整ったのかハディソンが屋上でマイクを握り、スピーカーごしに試合開始を告げた。
『大変長らくお待たせいたしました! これより闘龍試合、千年原重工対真路製薬を開始いたします! それでは選手紹介からまいりましょう!』
椅子の置かれた観客席で、凛子は胸の前で手を組み、祈るような姿勢で画面を見つめていた。
豪聖はグチャグチャとフルーツを租借し、表情には余裕が見られる。ここまで四連勝を積み重ねていることもあり、勝利への確信に満ち溢れていた。
他の場所でも会員たちが酒や女を傍らに、テレビを見つめていた。画面の左端では現在進行形で賭けが行われ、事前予想では甲平に人気が集まっていた。そのぶん期待が低い新人の八郎のオッズは、うなぎ上りであった。
ハディソンが声を張り上げて選手紹介をした。
今は実況者として仕事をしているため、「さま」はつけていない。
『まずは一階の格闘者からご紹介しましょう!! 闘龍試合は初参戦! 地下闘技場のチャンピオンはここでも快進撃を続けられるのか!? 千年原重工代表、大将、南八郎です! 年齢は三一歳。闘龍試合戦績は○戦、○勝、○敗! 身長一九六センチ。体重一一○キロ。戦闘スタイルは〈古武術荒田流〉! このルーキーは我々を楽しませてくれるのでしょうか!?」
続けて甲平の紹介に入った。
『次に最上階の格闘者をご紹介しましょう! 一年前に鮮烈なデビューを飾り、ここまで一度の敗北もなし! 戦場で鍛えた技術が冴えわたる! 真路製薬代表、先鋒、鬼怒甲平です! 年齢は二五歳。闘龍試合戦績は三二戦、三二勝、○敗! 身長一九三センチ。体重一二五キロ。戦闘スタイルは〈システマ〉! さあ最強の軍隊格闘術を今日も披露してくれ!』
この瞬間、甲平に賭ける会員が一気に増加した。
システマという言葉を材料に初見の会員が決断を下したのだ。
やはり元ロシア軍特殊部隊員ミハイル・リャブコによって考案された軍隊格闘術は、このような実践形式の場で人気が高いようだ。
最終的なオッズは八郎が十九倍。甲平が一.三倍である。
そしてスピーカーから甲高いブザー音が鳴らされ、ついに試合が開始された。
実戦に近い形式での闘いは不意打ちなどで、出会った瞬間に決着がついてもおかしくない。
まだ顔も合わせていないのに、互いが放つプレッシャーで、空気がぐにゃりと歪んでいくようであった。
開始と同時に八郎は軽自動車へと向かった。武器になるものを探すためだ。ハディソンから渡されたキーはセンサー式ではないため、直接鍵穴に差し込む必要があった。事前の説明どおりエンジンはかからないようになっている。車内をまさぐり手早く装備を整える。いつ敵に襲われるともしれない状況で、あまり時間はかけられない。
八郎は一、二分ほどで車外に降り、甲平の姿を探し始めた。足音を立てないように慎重に上の階を目指していく。
駐車場の広さはそう大したものではなく、上の階へ上る道も車両がすれ違うだけのスペースしかなかった。行き違いになるということはまずあり得ない。
しかし二、三、四、まで上っても甲平の姿は見当たらなかった。残りは五、六階と屋上しかない。
八郎は通路を上り五階に上がる。スニーカーが硬いコンクリートの床をじわりと踏みしめていった。
くまなく周囲を視るが、人の気配はない。
さらに六階へと上がる。
ここで気配を感じた。
甲平のねばりつくような毒蛇めいた殺気である。
左右に軽自動車がずらりと並べられたフロアの真ん中を、警戒しながら進んでいく。
チリチリと緊張が肌を焦がした。
階の半ばまでさしかかったところで、ついに甲平が動いた。
車の影から飛び出し右手に握った武器、コウモリ傘をレイピアのように、八郎の側頭部めがけて突き出す。
八郎はすんでのところで身体を反らしそれを回避した。
そのまま六メートル下がり距離をとった。
甲平が吠えた。
「ビビってんのかおっさん。やる気がねえならこっちから行くぜ」
「……」
八郎は答えず突っ込んでくる甲平に向け、グーの状態に握った左手を縦に振り、同時に人差し指だけを開いた。
指一本分空いた隙間から百円硬貨が弾丸のごとく撃ち出された。
それは甲平の眼球に進路をとり飛来する。
「ちいっ」
甲平は目をかばいながらさらに突進を続けた。
コウモリ傘を開き盾にしている。
だが打ち出される百円硬貨は数を増し、いまや雨に変わっていた。
いくつかが傘の生地を破り肉体へにぶい痛みを与える。
だか甲平はたじろくことなく、一気に八郎の眼前まで迫った。
途端にコウモリ傘を閉じ再び刺突で攻撃を開始する。
狙いはのどだ。
八郎は銀色の光る先端を上体をずらすだけでかわし、起き上がると右の拳を腹部に叩き込んだ。
並みの相手なら一撃で悶絶させるパンチだ。
しかし甲平の六つに割れた腹筋が衝撃を吸収し、手ごたえは感じられなかった。
右拳のなかで硬貨がカチャリと呻いた。
「へえ。なるほどな」
甲平は二、三歩下がると、口の端を歪めた。
硬貨を握りこみ威力を底上げしたパンチでも、この程度の力しかないのかという表情だ。
今のワンアクションで力量を把握したようであった。
もはや恐るるに足らずといった様子で、クルクルと傘を弄んでいる。
八郎は相手が余裕を見せたことを確認すると右拳を振った。
今度は一本ではなく全部の指を開いてだ。
直後、すべての硬貨が解放され、甲平の全身に向け放たれた。
思わず目をつむり一瞬ではあるが、視界が暗闇に包まれる。
決定的な隙であった。
八郎の右腕に力こぶが現れ、どんっと拳が振るわれた。
右の拳で今度は何も握らず、正拳下突きを再度腹部に叩き込んだ。
甲平はコウモリ傘でガートしたが、それは金属製の骨を簡単に折れ曲げ盾にはならなかった。
バキリとガードが打ち破られる。
水面に小石を投げ入れたように腹筋がたわみ、波紋が浮かび上がった。
「げえ」という声がして身体をくの字曲げ、口どろっとしたから粘液を吐き出した。
苦悶の表情で五、六歩下がり八郎をにらむ。
「てめえ! 手え抜いてやがったのか! くだらねえ演技をしやがって!!」
「プロレスラーほど上手くはない。だが単細胞には効くものだな」
「――ブチ殺す!」
凄まじい怒りが甲平から発せられた。
動物が生きるためにするものではない、人間にだけだせる怒りだった。
八郎は挑発に成功し、試合が己の計算通りに進んでいると思った。
だが次に甲平がとった行動は、怒りにまかせ飛びかかるといったものではない。
鼻から空気を吸い口から音を立てながら吐く、つまり呼吸をしたのだ。
空手の息吹とも違うやり方であった。
これは〈ブリージング〉、システマの核となる呼吸法である。
平常心を保ち身体から力みをなくして、思考をクリアに調整し、パフォーマンスを向上させることが期待できるのだ。
空手の息吹とも違うやり方であった。
闘いでは冷静さを欠いたものから死ぬ。
四連勝した実力は偽りではないようであった。
すっかり冷静になった甲平はボールペンを懐から取り出し、ナイフのように逆手で構えると、
「へえ。なるほど。今まで殺してきた雑魚とは違うみてえだな。ここからは本気でいくぜ」
チロと舌を出して言った。
八郎もシャープペンを取り出し、順手で構え、
「はじめからそうしろ」
両者が激突した。
八郎は目を狙い右手でシャープペンの切っ先を突き出す。
確実に光を奪うよう突いていた。
しかし甲平の言葉は見栄やはったりではなかった。
現実に動きの質が変わったのだ。
身体を半身にして切っ先をかわすと、右手の死角に入り込みバックブローで八郎の後頭部に打った。
システマの打撃〈ストライク〉である。
ライフルを撃つように肘から拳までが一直線となった完璧な一撃だ。
思わず八郎の体勢が前のめりになる。
直後、ボールペンが背中に杭のごとく突き立てられた。
道着をいとも容易く貫通し、肉に先端が刺さる。
八郎は激しい痛みに歯をくいしばって耐えた。
振り返ると同時に上段回し蹴りを放つ。
だが蹴りが捉えたのは甲平の姿ではなく、火のついた新聞紙であった。
広げられている。
手品めいて唐突に出現し、メラメラと燃え盛っている。
オレンジ色の炎が八郎の瞳に映り、一秒後道着に着火した。