42話『手術』・中
ことは全てスムースに進んだ。
領主キーロンは、ルイスを治療師として皆に紹介し、気絶した番兵は、領主が休みを取らせたとして、強引ながらも周囲を納得させた。
城付僧侶エンテースを避けて、周知されたということもある。
ミーシャは、領主の言葉が大きな力を持っていることに気づいた。
誰も、少なくとも表立っては、反対せずに平伏するばかりなのだ。
疑問点は多々あるだろうに、意見を述べることさえしない。
これが封建の習いなのだろうか。そうだとするなら、領主とはつまらないものだ。
たとえ贅沢に囲まれ、皆に傅かれても、心許せる友もいないのでは、黄金の檻に囚われた珍鳥と変わることがない。
《うねる幻視の白蛇》
ルイスが魔法陣を描き、鈍く輝く蛇のような光を生み出す。
この魔術は、《光明》と《遠視》を組み合わせたもので、口から飲み込ませて、胃腸内部を幻視することが出来る。
いわば、胃カメラのようなものだが、小腸や大腸まで確認できる点で、イチノセの時代よりも優れているといえよう。
「よし。間違いない。回虫による腸閉塞だ。手術の準備をする。湯を沸かして、術具を煮沸消毒しろ!」
現在、城館の一室を借りて手術室としている。
綺麗に掃除されている場所だが、無菌とはいかないだろう。だが、この時代にあっては、これ以上を望めまい。
手術前に、石鹸で腕を洗う。
(…やはり、ルイス先生は、現代医学の素養がある。奥さんは……私と同じ異世界の人だったのか…?)
ミーシャは、ルイスの手際を見ながら、そのように思った。
自分が異世界から来た、ただ一人の存在だとはミーシャは思っていない。
死霊術師ゼファーが、『魂の移植』を編み出したのだとしても、そこに至るまでの先人の技術の蓄積は必ずあるはずだし、自分と同じような異世界の人間が居てもおかしくはない。
そうだとすれば、ますますルイス先生を捨て置くことは出来ない。
(や、まずは、目の前のことを片付けなきゃ)
ミーシャは頭を振って、いったんゼファーと自分の因縁を頭から追い出した。
麻酔薬で、領主キーロンは眠っている。これから、手術の助手を務めるのだ。他のことに意識を向けている暇はなかった。
「メス」「鉗子」
ルイスの言葉に、ミーシャは機敏に反応し、術具を手渡していく。慣れ親しんだ行為のように、戸惑うこともない。
イチノセは血みどろの光景は好きではなかった。手術を手がけたこともない。それなのに冷静に体を動かせている。ジーネの記憶によるものだろう。
腹部を開き、鉗子で止血・固定して、手術が佳境に入ったときであった。
慌ただしく制止する声にかぶせて、我鳴声が扉の向こうで響く。
「その方ら、なぜ放置しておる! 卑しい治療師の業にたぶらかされおって! たとえ、いま命が助かろうと、死後、魂が罪の重さに引かれるのだぞ! ええい、どかぬか!」
制止の声もあればこそ、喚き散らして入り込んできたのは、老年の翁だった。
黄色く縁どりされた白地の祭服を着込んでいる。これが、くだんの僧侶エンテースであろう。
脂汗で、顔が照り輝いている。
彼も腸閉塞に罹っているはずだという領主の言葉をミーシャは思い出した。
「今は手術中だ。部外者は出て行ってもらおう」
治療師ルイスは厳かに述べたが、この僧侶は、意に介さなかった。
「手術じゃと? お前は腹を切り裂き、領主の寿命を縮めているだけじゃ! 即刻、手をのけよ! わしが神の御業を借りて、癒やしてくれるわ」
「そういって、お前は、領主の息子ホルトマーも、見殺しにしたのか。そして、あまつさえホルトマーを救おうとした治療師スルガをも、手にかけたのか!」
ルイスが声を荒げたのも、仕方ないことだったろう。だが、それに対する僧侶の返答もまた、遠慮が無かった。
「それがどうした! 人が死ぬのは、自然なこと。それを異国の怪しげな術に頼り、命長らえたとて何になろう。神の定めた生を懸命に生きることにこそ、意味がある!」
「では、領主と同じ病気にかかった今も、お前は神の御心に従って、苦しんで死ぬのか」
「むろん、神が望むならば、そうなろう!」
《雷霆のクォーラル》
ルイスの背後から放たれた雷の矢が、この老人の身を貫いた。僧侶エンテースは身を固めて、地面にひっくり返った。
ミーシャが放った雷の矢だった。
ルイスと僧侶が問答しているなか、その影に隠れて、体を痺れさせる程度の《雷霆》の魔法陣を構築したのである。
唖然とする周囲の人々を睥睨して、ミーシャは言った。
「問答も結構。ですが、今は一刻を争う手術の最中。このご老人には、別室にて休んでいてもらう」
そして、家士に指示して、僧侶エンテースを一室に監禁してもらった。
最初は家士もしぶったが、このままでは領主の命に関わるとミーシャが告げると、否応なしといった様子で老人の僧侶を運んでいった。
扉を閉めると、容易には入ってこれぬよう閂をかける。
「ルイス先生」
「ああ」
ルイスもまた、唖然としていたのだが、すぐさま気持ちを切り替えて、結紮のための糸と針を掴んだ。
その後は邪魔が入ることもなく、手術はつつがなく終了した。
***
「これから、あの僧侶にも選択を迫るつもりですか?」
ミーシャは、取り出した回虫の塊から視線を外して、ルイスにそう問いかけた。
「ああ…。そうだな……」
ルイスは、ある種の抵抗を感じて、やや曖昧に答えた。
それは、宗教的な恐怖心であった。
神に仕える僧侶に手を出して、バチが当たらないかという迷信的な忌避感である。
領主の権力に対しては、すでに吹っ切っていたが、宗教的権威を前にしては予想しなかっただけ、その覚悟をはじめから積み上げなければならなかった。
このあたり、現代人たるミーシャには、すぐには理解できぬ事柄である。
ゆえに、ミーシャはいささかズレた言葉を放った。
「エンテースの信念は立派ですが、それが正しいとはいえません。
もし、自然のままが正しいとするなら、私達は、裸のままで寒さに震えていなければならなかったでしょう。
私達が、家に住み、衣服をまとえるのも、人間が暮らしを良くしたいと努力してきたからです。それだって自然な感情ではありませんか?」
それでも、迷っているルイスを見て、ミーシャは続けた。
「自分の考えが正しいと信じ、死ぬのは立派かもしれませんが、何に寄与することもありません。言ってみれば、自己満足です。
未来に繋がることを残してこそ、真に立派な行為ではないでしょうか」
その言葉に、ルイスは聞き逃せぬものを聞いた。
「それは、俺の復讐も自己満足だと言いたいのか?」
「や、そうじゃないです。領主は、罪のない人間を見過ごして殺すことはしないと約束しました。不公正な行いを止めたんです。だから、未来に繋がる”良い復讐”だったと私は考えます」
(それは…ミーシャが求めたものだ)
ルイスは、そう感じた。
彼は、領主キーロンが命惜しさに、みっともなく謝罪するか、自らの過ちを認めずに苦しみ抜いて死ぬか、どちらかを見て、溜飲を下げたかっただけなのだ。
ルイスの復讐は、ミーシャの言葉を借りるなら、自己満足でしか無く、未来に繋げようなどと、一度たりとも思ったことはなかった。
(つまり、この少女がついて来たのは、俺の復讐を利用するためか。しかも、自分の得にもならぬことのために…?)
ルイスは倒れこむようにして、長椅子に座り込んだ。両肘をついて、額を両手で支える。
あまりにも状況が変わりすぎて、自分がどうすべきか、考えをまとめる時間が欲しかった。
できることなら、休みたい。
一眠りして、頭をはっきりとさせてから、考えをまとめたかった。
だが、こうしている間にも、僧侶エンテースは腸閉塞で苦しんでいるだろう。時間がなかった。
「……」
ルイスは、目を閉じた。このようなとき、彼はいつも妻の姿を思い浮かべ、妻なら、なんと言うか思い出そうとする。
(考えてみれば、私は妻スルガの代弁者として、復讐を望んだ……ならば、妻の言葉に従うべきだろう)
その姿をミーシャは、静かに見守っていた。
余人には侵し難いものがあった。ルイスの沈黙は、祈りであったから。
(「あなたがどちらの姿でスルガを覚えておきたいかよ! 復讐を望む妻か、人を救う妻か!」)
ルイスの脳裡に蘇ってきたのは、ミーシャの師匠イレーネの言葉だった。
彼女の問いは、ルイスの心に確かに刺さっていた。心の隅によけておいた言葉が、今更に思い出されたのだ。
次に浮かんできたのは、妻スルガ自身の言葉だった。
(「私の国の治療師はね。一つの誇りがあるの。どんな人間だろうと、乞食だろうと王族だろうと、命を救うのに差別はしないってこと」)
それは、お金のない浮浪児を診てやったときに、スルガが発した言葉だった。ルイスがまだ患者でしかなかった時の話だった。
(そうだった。あの時のスルガの誇らしげな表情に、俺は、一目惚れしたんだった……)
目を開けた時、ルイスは泣いていた。
熱い水が頬をつたり落ちてくる。身をかがめて、それを隠しつつ、袖で、涙を拭き取った。
十を数えて立ち上がる。
心は決まっていた。