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41話『温泉回』・上

次回、8月17日か、その前くらいに更新できたらいいなぁ。

「秘湯に入りに行かないかい?」

 料理屋の女将エッダから、誘われたのは、師匠が薬草を取りに行く前日のことだった。

 彼女とは、治療師ルイスの手伝いをしていた時に患者として出会い、温泉に入りに行った時に、石鹸を貸したことで仲良くなっていた。

 地元民しか知らないという秘湯へのお誘いは、石鹸を貸したことのお返しということらしい。


(どうせ、明日は師匠もいないし…)


 というわけで、ミーシャは女将のエッダと天然の露天風呂に入ることになった。

 温泉宿と商店の隙間の裏路地を通って、坂道を登って行くと、やがて山道となった。


「足が痛いって? 大丈夫だよ! すぐそこさ」

 そう言った女将のエッダの言葉を、ミーシャは迂闊にも信じ込んでいた。


 想像以上に、この世界の人々が健脚であること。そして、女将エッダのおしゃべり好きをミーシャは忘れていたのだ。

 叔父夫婦への愚痴や、息子の心配、雇い人の話などを、ローテーションで話されて、少々うんざりしたころ、急に視界が開けた。


「うわぁ」


 ミーシャは、眼下に広がる景色を見て感嘆を漏らした。山間にある温泉郷が、一望できる。

 周囲には鬱蒼とした森があるが、周囲や温泉郷の方角に森がないのは、景色を望めるように木を伐採したからであろう。


 ミーシャが雄大な景色を眺めていると、女将のエッダが解説をしてくれた。


「ここはね。ひとつ、伝説があるんだよ。

 この地を開闢しようと、聖者シンタリエ様が訪れた時のことさ。

 その頃のシンタリエ様は、かなりの老齢だったから、無理がたたったんだろうねぇ。体が萎え、手足は冷えて、一歩も動けなくなってしまった。

 そこを通りががったのが、杣夫きこりだよ。

 シンタリエ様は、杣夫きこりに命じて、この温泉まで自分の体を運ばせた。そして、聖人様を、湯に浸からせると、たちまちのうちに、聖人様の体は活力と若さを取り戻したって話さ」

「へー。じゃあ、この温泉に浸かっていれば、私も若返るのかな?」


 何気なく言ったミーシャの言葉に、エッダは大笑した。


「お嬢ちゃんは、まだ全然若いじゃないか! これ以上若くなったら、赤ん坊に戻っちまうよ!」


 さすがにミーシャも赤面した。

 前世では25歳で、そろそろ「お肌の曲がり角」が気になる年齢だったのだ。

 この方面でのミーシャス・イチノセのこだわりは強い。前世の頃から、紫外線対策や保湿、コラーゲンとビタミンCの摂取、十分な睡眠などに気をつけてきた。

 せっかく十代の美少女に転生したのだ。

 美容とアンチ・エイジングを、若さにかまけておろそかにはしないと、密かに誓っている。

 今日、この温泉に来た理由の一つには、肌に良いとか若返りの効果があると聞いたからだ。


(それにしても……)


 一緒に入る料理屋の女将の裸をみて、思う。恰幅の良い豊満な体だが、ミーシャは、いささかの欲情も感じることはない。


(これが、もし、イレーネ師匠の裸だったなら、違うんだろうか)


 想像してみようとしたが、今ひとつ、それらしいヴィジョンをミーシャは得ることが出来なかった。


(一緒に過ごしたいし、愛おしいと思う。笑いかけてもらいたい。でも、この気持は、なんなのだろう…師匠への敬愛なのか、友情なのか、恋愛感情なのか…)


 ミーシャは、イレーネのそばにいる時、自分の胸中に温かい泉が湧くのを感じる。それはとても心地よく、ずっと浸っていたいと思わせるものだった。

 ただ、それが師弟としての敬愛なのか、友情なのか…それとも、恋愛に発展できるものなのかが、不分明なのだ。


 これが理性に関わる分野であるならば、ミーシャはこれほど悩まなかったであろう。ゴールとスタートが明確であれば、その間を埋めるだけの知識と知恵を、ミーシャは十分に有している。


 けれど、今回のイレーネへの思いは、感情の領分である。まずもってスタートが定かではなかった。


 そして、ゴールについても、ミーシャは悩まざるを得ない。

 今、こうして、ミーシャがイレーネに対しての恋愛感情を云々するのも、イレーネが女性好きであるからだ。


(『もし、イレーネと恋人になれれば、ずっと一緒にいられる』…そんな打算を、つい考えてしまう……。恋人になれば、きっと愛してくれると思ってしまう)


 ここまで思惟しいを巡らせて、ミーシャは気づいた。

 私は、イレーネに、”愛してもらいたいんだ”。

 恋人になることを望むのも、そうなれば、愛してくれるに違いないからだ。恋人という関係は、愛してくれるための保証である。

 女性好きの女性は、常にマイノリティだ。競争相手は少なく、自分が恋人に名乗りを上げれば、きっとイレーネは大事にしてくれるだろう。

 私は、それを直感して、恋人になりたいと思ってしまったのだ。でもこれは、最も忌むべき打算ではないか。


(恋人になりたいと思うのは…愛してもらいたいから。そして、愛を失いたくないから。…やだな。……最低、だ)


 かつて、ラヴェルヌは愛することを『自分の力で相手を幸せにする』ことだと語った。私は、イレーネ師匠の幸せを、願っているのだろうか。

 イレーネに何かを出来るだろうか。


 悩むミーシャに、敵が迫る。


 ***


「『銀髪の乙女』ぇ!」


 耳をつんざくような喚き声が聞こえた。ミーシャが驚いて振り返ると、乱れ髪の男が立っていた

 魔法陣をかざした手を前に突き出している。魔法陣は帯電し、バチバチと、剣呑な音を鳴らしていた。雷霆らいていの魔法陣だ。


 思惟しいに浸りすぎたと、ミーシャは恥じた。これほど接近するまで、気付かなかったとは。

 しかし、それにしても…。


(誰だ?)


『銀髪の乙女』と叫んだことから、ゼファーや、アイヴィゴース家の関係であることは知れる。


 また見た目からみて、騎士ではない。騎士ならば、ミスリルの鎧を纏うはずである。ましてや、魔術師の前に出てくるとあれば。

 それに、騎士にしては、格好がみすぼらしすぎる。

 茶色のチュニックに、同系色のズボンを纏っているが、遠目からでも質が良くないことが分かる。


 そして男の手には、ミスリルの短剣が握られていた。

 ミーシャの脳裏をよぎったのは、かつて師匠から貰ったミスリルの短剣であった。思い出の品だったが、かつてアイヴィゴース家に囚われた際に、奪われてしまっている。

 その品によく似ているように思えた。


 魔力を流しやすいミスリルの短剣は、魔術師にとって垂涎すいぜんの品である。

 だが、この男は、魔術師でもない。


(放電で見えにくいけど、あの魔法陣は単純な《雷霆のクォーラル》だ。私を捕獲するにしても、もっといい魔術を選択できるはず。魔力も弱い。

 この程度の魔術しか使えない人間が、ミスリルを持てるほどの魔術師であるはずがない)


 ミーシャは一呼吸のうちに、これだけのことを看破した。

 眼に剣呑な光を映して、ミーシャは温泉から立ち上がった。黒褐色のお湯が流れ、ミーシャのしなやかな肢体の曲線があらわになる。


「久しぶりだな。私を捕まえに来たのか?」


 とはいえ、さすがに、体には大きめのタオルを巻いている。

 さらに立ち上がるときに、そっとエッダの背中を押して、逃げ去るように促してもいた。


「それとも、出歯亀をしにきたのか? 私の裸を見ようとは、大それたことをするものだ」


 一歩、この敵へと近づいた。

 ことさらに冷笑を含ませて、意識をこちらに向けさせた。エッダから目をそらさせるために。



・石鹸

 ……石鹸の起源の伝説に、焚き火で出来た灰に肉の脂が滴り落ちて、それが石鹸となったという話がある。実際に、石鹸はアルカリ性の灰と油を混ぜあわせることで作ることが出来る。

 食用にできる油を使うことから、中世では石鹸は奢侈品であった。この物語の世界でも、高級品の部類になる。

 とくにミーシャの持つ石鹸は、錬金術師イレーネの手作りで、香りの良いハーブのブレンドと精油を使って作られていた。

 ミーシャは気づいていないが、女将のエッダに、かなり質の良い石鹸を気軽に貸していた。彼女はそれに感激して、秘密の場所へと誘ったという裏設定がある。

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