39話『性と愛と恋』・上
お風呂あがりで肌を上気させたイレーネが、部屋に戻ってきた。
ミーシャは、寝台に座り込んで、本を読んでいる。
《冷えた掌》という魔術で時折、痛む左足を冷やしたりしていた。
「その本、面白い?」
「面白いですよー。文章は簡単なわりに、物語運びが巧妙で。今みたいな、ゆったりした時に読むには、うってつけですね」
読んでいる本は、『飛竜とドレス』という題名で、ある貴族の視点に仮託して、この国の歴史を小説的に描いたものだ。
努力を続けたかいがあって、このくらいの本ならば、ミーシャは難なく読めるようになっている。
「本当なら、魔術書か学術書を読んでみたかったんですけどね」とミーシャは付け足した。
温泉郷のような行楽地には、そのような専門書は置いてなかったのだ。
「ねぇ、ミーシャ。退院してから、何日か経つけど、まだ一度も温泉に入ってないわよね。……もし、私と鉢合わせるのが嫌なら……」
「え?」
一瞬、ミーシャは、何を言われているのか分からなかった。
(ああ…。同性愛者と”裸の付き合い”がしたくないんじゃないかってことか……)
イレーネは女性好きである。その自分と一緒の温泉に入りたくないのかと訊いてきたのだ。
「あ、いえ、たまたまですよ。最近ちょっと、お腹が痛い日が続いてだったので……」
「そう? 一応、鎮痛の薬も持っているけど、いる?」
「今は大丈夫です。……それと、温泉くらい、私はそんなに気にしないですよ?」
「『そんなに』ってところが、正直よね」
イレーネは苦笑した。
ミーシャは、ふと思いついて、イタズラっぽい光を灰色の目に湛えて言った。
「そういえば、師匠は、女風呂に入りますよね? やっぱり、興奮とかするんですか?」
「しないわよ、そんなの。自分が男風呂に入れたと想像してみなさいよ。
格好いい男ばかりじゃないのよ? むっさいオッサンや、枯れた爺さんだって多いのに、興奮できる?」
「……できないかも」
考えてみれば、ムードも何もないし、そういうものかもしれない。
そうは言っても、公然と性的対象を観察できる機会があるわけで、ちょっとズルいなぁと思わなくもない。
とはいえ、イレーネにも様々な不利益があるはずで、一面のみを取り上げて論じることに意味は無い。
「たしかに、私は女性が好きよ。でも、誰でも良いってわけじゃないの。そりゃあ美人な方がいいけど、その人の優しさだとか、性格だって重要だもの。性愛はあるけれど、それより私は恋心を大切にしたいわ……」
(あっ…)
イレーネの声は淡々としていたが、ミーシャは、表面下にある悲嘆を感じ取っていた。
自分の他愛ない戯言が、大切な人を傷つけていたことを直感的に悟ったのだ。
強い衝動に突き動かされて、ミーシャは、イレーネの手をとった。
「ごめんなさい。師匠の心を、徒に傷つけるつもりは、無かったんです。……興味本位で、聞いてしまってごめんなさい。…その、前にも言いましたけど、師匠のことを尊敬していますから……」
もっといい言い方があるのではないかと、ミーシャは赤面したが、師匠は「ありがとう」と笑ってくれた。
イレーネは、もう、この話を続けるつもりは無いらしく、いささか強引に話題を変えてくる。
「そういえば、山賊から奪ったお金を分配したわよね。その本以外に、装備もちゃんと購入したの?」
「ええ。せっかくなので、革手袋と長靴を仕立ててもらってます。まだ、完成に時間が掛かるみたいですけど」
***
ミーシャが、『飛竜とドレス』を読めるのも、イレーネがお金を渡してくれたからである。
退院した次の日、イレーネは硬貨の入った袋を卓の上において、こういったのだ。
「これは、あなたの分け前よ。山賊ギルド『夜更けの切望』から奪取した戦利品ね」
「でも、私、寝込んでいたせいで、何にも手伝ってませんけど…」
「パーティを組んだんだし、均等に配分するわ。そうしないと揉めちゃうからね。それと、治療代とか、ここの宿泊費とかは、私が払っておくからね」
「え…でも」
言いかけたところで、イレーネは片手をあげて、ミーシャを制止する。
「師匠が、弟子の面倒を見るのは、当然のことよ。それにね、初期投資をしっかりしないと商売は失敗するわ。
気になるなら、このお金でちゃんと装備を整えて一人前になってから、返してちょうだい」
渡された袋の中には、ミスリル貨3枚と、銀貨未満の硬貨が入っていた。
こういうとき、ミーシャは、なんと言っていいか分からなくなる。
師匠が私を気にかけてくれていることが分かって、嬉しく思いつつも、困惑してしまう。
結局、素直に受け取って「ありがとうございます」とだけ、言った。
観光地価格とでも言うのか、この温泉郷の物価は他に比べて二割から五割ほど、高いらしい。
ただ、貴族や裕福な人々が集まる土地だけはあり、商品の質は良いとのことだ。
このようなことを師匠から聞いたミーシャは、革手袋と長靴、それに肌着を仕立ててもらうことにした。
これらだけは、しっかりと寸法があってないと困るからだ。
旅人用のベルトポーチも購入した。
これは、腰帯に結いつけて固定する革製の鞄で、腰回りに合うように、幾つかに分かれた小さな鞄が連なっている。
旅先で必要な細々とした身の回りのものを入れるのに、ちょうどいいだろう。どこに何を入れるのかを覚えておけば、忘れ物をすることもない。
また、先述した『飛竜とドレス』という本と、紙を購入している。
本は、銀貨4枚もした。
紙は、漂白されていない古紙再生紙で、質はあまり良くないにも関わらず、一枚につき鉄貨2枚である。
エール一杯と紙一枚が同じ値段であると言えば、紙の値段が高いことが知れるだろう。
百枚を購入して、銀貨2枚と白銅貨1枚にまけてもらった。
ちょっと良い食事の価格が、白銅貨1枚である。つまり、百枚の再生紙を買うのに、まるまる三日分の食事代がかかったことになる。
今後も書字板と併用することになりそうだが、これで魔術の研究や思索を記録していくことが出来る。
「矢立」も、真鍮貨1枚で購入した。
これはインク壺と万年筆を一体化して持ち運べるようにした携帯用文具で、上等品である。
ミーシャの温泉郷での買い物は次のようになった。
・革手袋…銀貨3枚、白銅貨1枚、真鍮貨1枚
・長靴…銀貨1枚、真鍮貨1枚
・肌着二組…ミスリル貨一枚
・ベルトポーチ…白銅貨二枚
・本『飛竜とドレス』…銀貨4枚
・紙100枚…銀貨2枚、白銅貨1枚
・矢立…真鍮貨1枚
意図して、というわけではないが、山賊退治で得た金銭の殆どを使ってしまっていた。




